本草学から博物学へ
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本草学から博物学へ
日本は有用な鉱物、植物、動物の知識を長らく中国から学んできた。江戸時代になると国内資源の調査が進み、さまざまな植物が栽培されるようになり、品種改良もさかんに行われるようになった。その結果多くの農書や本草書などが出版され、西洋の知識も取り入れられ、その比較の中で本草学から近代的な博物館学へと展開していった。
本草学の発展
本草学は、薬物を中心に役に立つ自然物を分類する学問である。17世紀初めに明代の『本草綱目』が輸入されると、自然界にあるものを植物・動物・鉱物というように分類するようになった。その過程で、本草学者は、中国と日本の自然の違いに気付き、国内資源の調査・研究をすすめるようになった。貝原益軒は、国産の自然物を扱った『大和本草』を著した。
重訂本草綱目啓蒙
江戸時代初期に本草学は、まだ医学、薬学の知識として考えられていた。17世紀初期ごろに伝えられた『本草綱目』も、薬物を16部60類に分けられたものであったが、動植物、鉱物などに整然と分類されており、その分類方法は我が国の本草学の発達に大きな影響を与えるものであった。1637(寛永14)年には、最初の和刻本も出版され、『図解本草』1685(貞享2)年(下津元知)などが続いた。その後しばらくは学問としての本草学であったが、蘭学の影響を受け、内容の検討や理解が進むに連れ、中国の本草学である『本草綱目』を基本としながらも、我が国の動植物などを加えた、小野蘭山らによる『本草綱目啓蒙』1802(享和2)年48巻が出版された。本書は、その第4版に当たるもので、泉州岸和田藩主岡部美濃守長慎が本草学の発展のため校正、再版させたものである。
大和本草
当時、本草学の教科書的存在だった『本草綱目』(1596〔万暦24〕年)と比較しながら、1362種類の動物、植物、鉱物を取り上げ、その日本名と中国名・地方名・来歴・形状・高揚などを詳述し、『大和本草』中には300点あまりの図を見ることができる。日本の本草学が独自の一歩を踏み出す画期的な書物と言える。博物学的な色彩が濃く、江戸博物学の先駆けとして歴史的価値が高い。
雲根志
『雲根志』は、「雲は石より生ず」から名付けられた本で、木内石亭(1724-1808)がその生涯をかけて収集した2000種以上の奇石や石器、化石、鉱物などについて、産地や由来、形状などを網羅したものである。木内は1724(享保9)年に生まれ、膳所藩の郷代官を勤めた後、20代で隠居、京都において対馬桂庵に本草学を学び、当時の関西文化サロンの中心人物の一人となった。京都をはじめ各地の物産会にも多く参加して採取や情報収集を行った。
物類品隲
平賀源内が、田村元雄らと1757(宝暦7)年から1762(宝暦12)年まで開催したら5回の薬品会出品資料をまとめた著作。分類は『本草綱目』に従っているが、国内外から実際に集めた標本を中心に解説を加えたもので、蘭癖大名らとの交友によりトカゲの液浸標本図なども描かれるなど、全項目数360点に及んでいる。源内の考案した朝鮮人参栽培法や甘薯栽培・製造法なども含まれており、江戸時代の本草学に画期的なものである。
近代博物学への展開
18世紀以降になると、長崎を通して、西洋の自然物や博物学関連の書籍が入ってきた。その影響を受け、本草学は有用・無用を超え広く自然一般を対象とした博物学へと広がっていった。19世紀には、鋭い自然観察眼の下に科学的な動植物図譜が多数作られた。リンネの植物分類法も紹介され、これに基づく図説も作られた。
養蚕秘録
江戸時代以前から、絹は中国から輸入される高級織物で、国内でも古くから養蚕、製糸、織物が行われた。江戸時代になると、全国規模での商品生産が行われるようになり、日本各地で特産品が作られるようになった。その状況の中で、養蚕技術も著しく進み、江戸時代を通じて100冊を超える様々な技術書が出版された。本書もそのひとつであり、上巻は養蚕の起源・名義・蚕種・栽桑、上蔟、繰糸など養蚕の実際を、下巻では真綿の製法や木綿にまで及ぶ。著者の神垣守邦は但馬で養蚕業を営み、各地の養蚕技術を取り入れて改良に努めた。本書はその養蚕技術の集大成的なものである。
YO-SAN-FI-ROK
『養蚕秘録』は、シーボルトによって海外に持ち出された。ちょうど当時のヨーロッパでは、蚕の病気がはやり、対応策に苦慮していた。本書は、シーボルトがオランダ国王に献上した物の中に含まれており、さっそくフランス語に翻訳、1848年パリとイタリアで出版され、ヨーロッパの養蚕業に大きな貢献があった。絵画や芸能分野以外に、江戸時代の日本の技術が、海外影響を与えた例として有名である。
農業全書
日本の初版は、1697(元禄10)年の刊になり、10巻付録1巻で九州黒田藩に使えた宮崎安貞が40年余に及ぶ実証、観察の成果をまとめたものである。明の徐光啓の『農政全書』を手本に、日本の農業技術の集大成を図ったもので、1786(天明7)年の再版本をはじめ、長く我が国の農業の規範となった。巻之1の農事総論(耕作・種子・土地・肥料等)十ヶ条につづいて、五穀の類(巻2)19種、三草の類(巻6)11種、四木の類(巻7)4種、菓木の類(巻8)17種、諸木の類(巻9)15種、薬種類(巻10)22種にわたり記述している。
植学啓原
蘭学者、宇田川榕菴による我が国のみならず東洋で最初の本格的西洋近代植物学の紹介書が、『植学啓原』である。本書の序で箕作阮甫は、旧来の本草学と西洋の植物学とは異なるものであると解説し、単なる分類ではなく、学問としての自然科学の法則や手順を学ぶことの重要性を説いている。三巻からなり、巻一では、リンネによる植物分類、根や茎、葉の形態や生理について、巻二では花や果実、種子の生殖器官、遺伝などについて、巻三では植物の発酵や腐敗、付図などが添えられている。