皇女の選択
マリー=ルイーズが選んだ結婚相手は、16歳年上のアダム=アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵。
オーストリア大皇女としてナポレオン・ボナパルトと望まぬ結婚を強いられたマリー=ルイーズは、ナポレオンがエルバ島流刑になった後、前皇后ジョゼフィーヌとナポレオンの離婚をローマ教皇が認めていなかったこと、ナポレオンにはマリア・ヴァレフスカという愛人がおり、二人の間には息子までいたこと等、初めて知る事実に打ちのめされました。
その頃、エクス・レ・バンへ静養に行くマリー=ルイーズの護衛兼監視として同行したのがナイペルク伯爵。以前にも二人に邂逅はありましたが、意識したことはありませんでした。
数ヶ月にわたる静養の旅で、二人の心は徐々に近づきます。しかし、互いに配偶者がいる身。
1816年、マリー=ルイーズは女公としてパルマ公国に赴き、ナイペルク伯爵は首相となります。
二人が極秘に結婚したのは、ナポレオンが第二の流刑地セント・ヘレナ島で亡くなった1821年、ナポレオンの死から3ヶ月後です。ナイペルク伯爵の妻は1815年に病死していました。
1817年と1819年には子供を授かっていた二人ですが、ウィーンには、ナポレオンとマリー=ルイーズの長子ライヒシュタット公爵フランツがいます。
この事実は1827年にマリー=ルイーズが告白するまで、ウィーンの宮廷にも知られていませんでした。皇弟フランツ1世は親として娘を許しますが、始めはライヒシュタット公は息子として母を許せません。しかし、慈悲深い手紙を母に送っています。
ライヒシュタット公爵は1832年、結核で亡くなりました。幼くして父と離れ、滅多に母にも会えない寂しい一生でした。
ナイペルク伯爵は1828年に病没しました。
マリー=ルイーズはパルマ公国首相に任命されたシャルル=ルネ・ド・ボンベル伯爵と、1834年に3回目の結婚をします。ボンベル伯爵はフランス生まれで社交的、穏やかな人物でした。
二人は1847年にマリー=ルイーズが亡くなるまで睦まじく、ボンベル伯爵は1856年にウィーンで亡くなりました。
ナポレオンをエルバ島にもセント・ヘレナ島にも追って行かなかったマリー=ルイーズ。息子フランツに会いに行かなかったマリー=ルイーズ。
妻として、母として、批判されることの多い皇女ですが、ナポレオンとの結婚を断ることが不可能だった彼女が、残りの人生の伴侶を自分で選択できたのは、素晴らしいことだったと思うのです。