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俳句における〈地〉

2018.09.17 12:06

http://karakkaze.la.coocan.jp/haikuniokeruti.html 【『俳句における〈地〉』(「諾」第3号・1991年)】

     はじめに

 まずはこの唐突な論題の由来について、簡単に説明しておかなければならないだろう。

 数年前から逐次刊行されているテーマ別アンソロジー『秀句350選』(蝸牛社)というシリーズをご存じの方も多いと思うが、その中の〈地〉の巻をたまたま僕が担当することになったのである。この半年ほどの間に、古今の句集の渉猟を通し、資料として〈地〉に関わる作品を一千句あまりノートに書き写したが、せっかく収集した資料であるから何らかの形で纏めておくべきだという林編集人の勧めもあり、その試みの一つとして本論に着手したというわけなのである。したがって、基本的には『秀句350選』巻末の解説、ないしは本文を膨らませた内容となるので、当然のことながら、それらと重複する箇所も多い。その点を、あらかじめ断っておく。

 言うまでもないが、翼を持たない我々は地上を離れて生活することはできない。だとすれば我々の俳句も、あらゆる作品が何らかの形で〈地〉との関わりを持っているはずである。ともあれ、この点をまず最初に確認しておく必要があるだろう。

     1.

 人類の遠い祖先と考えられるアウストラロピテクスがこの地球上に現れたのは、およそ四〇〇万年前のことと言われている。現生人類(ホモ・サピエンス)の登場はそれよりはるかに後のことで、約三万五〇〇〇年前と推定される。地球自体の歴史は約四六億年とされており、この点から見れば、人類の誕生もつい最近の出来事ということになるかもしれない。こんにち、我々の概念からすると、この歳月は決して短い時間とは言えないが、それはともあれ、この歳月の中で人類は言語の使用、道具の発明・利用、及び火の利用といった特殊な能力を身に付け、やがて「文化」を形成するに至った。そして、こうした人類の進化に伴い、その文化もまた採集狩猟から農耕牧畜を経て、ついには工業・商業へと発展していったのである。

 ところで、我々の直接の祖にあたるホモ・サピエンスは、純然たる採集狩猟民であったことが証明されている。すでに高度の石器製作技術を持っていた彼らは、マンモスをはじめとする大形哺乳類を追って飛躍的に生活圏を拡大した。この時代は最終氷期の後半にあたっていたが、現生人類は寒帯はもとより、一部はそれまで空白地帯であったアメリカ大陸とオーストラリア大陸へも進出した。それは、まさに人類が大地を駆けめぐり、大地と最も密接な共存関係にあった時代だったのではないかと思われる。アルタミラやラスコーの洞窟壁画には、そうした彼らの躍動する心情が、明らかに投影されていると見てよいだろう。

 やがて一万年ほど前に、人類ははじめて植物を栽培し、動物を家畜化することに成功した。この画期的な出来事によって、人口は加速度的に増加し、それ以前の採集狩猟社会は著しい質的変化を遂げ、人類は一定の場所に定住を開始した。それは、大地の上を移動しながら食糧を得るという生活形態が、大地そのものから食糧を得るという形態へと転換したことを意味する。大地へと働きかけるという主体的な営みを通し、人間の心の中に、いのちの源としての〈母なる大地〉という観念が形成されてゆく時代が、ほどなく到来するのである。

     2.

 さて、俳句において〈地〉がテーマとして取り上げられるようになったのは、いつ頃からのことであろうか。その辺りについては甚だ不勉強な僕としては、今は取り敢えず手持ちの限られた資料から推測して申し上げるしかないのだが、俳人の意識にテーマとしての〈地〉が定着するのは、おそらく子規以降と考えて大過ないと思われる。無論、江戸期の有力俳諧師の作品にも〈地〉の語を詠み込んだもの、または言外に〈地〉を意識していると思われるものはある。それをいくつか抽出してみよう。

  いづくにかたふれ臥すとも萩の原   河合 曽良

  ふり上ぐる鋤の光りや春の野ら    杉山 杉風

  椿落ちて一僧笑ひ過ぎ行きぬ     堀  麦水

  地車に起き行く草の胡蝶かな     黒柳 召波

  地車におつぴしがれし菫かな     小林 一茶

  古草に陽炎をふむ山路かな      吉分 大魯

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片   与謝 蕪村

  棹鹿のかさなり臥せる枯野かな    服部 土芳

  凩の地にもおとさぬしぐれ哉      向井 去来

  枯芝やまだかげろふの一二寸     松尾 芭蕉

 召波と一茶の句の「地車」は、荷物の運搬に用いられた四輪の車のことで、〈地〉の語があるとは言え、landの意でないことは申し上げるまでもない。掲出句中では去来作のみが唯一〈地〉そのものを一句に取り込んでいるが、それとて自然としての〈地〉のありようが主であって、〈地〉が作品の中心を占め、作者の心情の喩として機能するまでには至っていない。自らの心情を〈地〉に託すという方向性を見せている点では、むしろ曽良の作に注目すべきであろう。『おくのほそ道』編集時に、芭蕉が「ゆきゆきて」の形に改めたことはよく知られているが、天地の真っ只中での寄る辺ない心境が、生死の相剋を通して伝達されるという意味では、かえって原句のほうが評価に値するという気がする。そして、ここには人間も含め、あらゆるいのちは〈地〉から生まれ、〈地〉に還るという、古来からの死生観が反映していると考えてよい。

 他には、麦水作に見られる「落椿」と「僧」といった無関係なもの同士を衝突させ、不可思議な空間を形成する手法、また杉風、召波、一茶作において人間の自意識が作品世界に影響を及ぼしている点など、いずれも近・現代俳句との関連性を見て取ることも可能であろう。が、結局のところ明治以前の俳諧においては、〈地〉そのものが作品の主要テーマとなり、作者がそこに全人格を投影させるということは、ほとんど無かったように思われる。それはなぜか。理由の一つに、島嶼国日本の狭い国土では、〈地〉という広大な存在を意識することが本来的に困難であったという点が考えられる。農業が基幹産業であった日本においては、実生活では〈地〉ときわめて近しい関係にあったはずである。にも拘わらず、それを基層観念として体系化することが出来なかったのは、〈地〉に対する意識がもっぱら大陸国において形成発展し易いものであるうえ、日本では島嶼国という地理的条件に加え、鎖国のような政治的条件も重なり、大陸的思想の洗礼を受けるのが大幅に遅れたためでもあろう。さらに、日本人が基本的に遊牧民族でないということも挙げられよう。したがって、明治維新以後、急激に活発化した欧米文化の摂取を通し、近代的自我意識に目覚めるとともに、日本人の意識の中に〈地〉観念がようやく定着したということになるのであろう。ただし、それが俳句形式に消化されるのは、もう少し後のことである。

  行く秋の石打てばかんと響きける   正岡 子規

  天地の間にほろと時雨かな       高浜 虚子

  赤い椿白い椿と落ちにけり       河東碧梧桐

  栴檀の大樹影濃き旱かな        大谷 句仏

  棚こけて糸瓜地をするばかりなり   大須賀乙字

  芋の葉影土に蒐まれる良夜かな    西山 泊雲

  天地を神代にかへす朧かな       野村 泊月

  初空や地に葉牡丹の濃紫       大谷碧雲居

    地鎮祭

  外人の眼に神饌の夏大根       原  月舟

 子規以降、近代俳句草創期の作家達の句である。かなり牽強付会の気味があるとは言え、一応〈地〉を意識下に置いた作品と理解してよいだろう。大陸的な広大さという点では虚子と泊月に指を屈するが、尤もこれはどう見ても西欧的な〈地〉ではない。むしろきわめて東洋的と言うべきであるが、これにはおそらく古代中国に発生し、現代もなお天文や暦法をはじめ、我々の精神構造に強い影響を及ぼしている陰陽五行思想などの反映が指摘できるであろう。他は大方、自然を主体とした作品で、自然諷詠の中でたまたま〈地〉が意識されたという程度にしか思えない。その意味では、前述の江戸期の作品群と質的には大差ないと言ってよいが、ただ「地鎮祭」と前書きを付した月舟作は、傑作とは言えないものの、我々の祖先達が〈地〉に対して抱いてきた畏怖の念に基づいている点で注目に値する。圧倒的な量感で迫る〈地〉に超越的な力を感じ取り、それを畏怖し、かつ憧憬するという心理は、古来より日本の文化に様々な形で影響を及ぼしてきたのである。

  火と水の元朝天地ひらけたり      河野 南畦

  地の底の燃ゆるを思へ去年今年    桂  信子

  桃の花土に寝かせて花供養       大木あまり

  あかあかと天地の間の雛納       宇佐美魚目

 これらは日本人の精神構造に大きな影響を与えてきたアニミズムや祖霊信仰が、今もなお我々の記憶の底に残存していることを物語る作品と言ってよいであろう。

     3.

 我々に避け難くおとずれる死と、そこからの再生も、アニミズムとともに我々の祖先達が強く意識したものである。たとえば、八十神に殺されたオオナムチが、さらに大きな神格オオクニヌシとしてよみがえったという神話などは、その典型と見なすことができるだろう。かくして生と死は、俳句においてもきわめて重要なテーマであるということになる。そして繰り返しになるが、生と死は〈地〉との関わり合いの中で、殊に強く意識されるのである。

  勇気こそ地の塩なれや梅真白     中村草田男

  蟋蟀が深き地中を覗き込む       山口 誓子

  地の涯に倖せありと来しが雪      細谷 源二

  死や霜の六尺の土あれば足る     加藤 楸邨

  寒や母地のアセチレン風に欷き    秋元不死男

 人口に膾炙したこれらの句は、たしかに生死の様々なありようを、見事に作品化していると言ってよい。草田男の西欧的知性に基づく生への讃歌、誓子独自の怜悧な眼がとらえた死の深淵、源二・不死男の作にうかがえる生活の哀歓、楸邨作の死に対する強烈な自意識。作品の方向性はそれぞれ異なっているとは言え、描かれた世界そのものは、一様に〈地〉の豊かな存在感によって支えられていると理解してよい。そして何よりも重要なのは、五句すべてに作者の思想が明らかに反映しているという点である。つまり、逆な言い方をすれば、思想の欠如した〈地〉の俳句に、すぐれたものはあり得ないということになる。

 そう言えば、先の資料収集を通して強く感じたことの一つに、虚子の時代はともかくとして、現代の「ホトトギス」系作家には、すぐれた〈地〉の俳句が少ないという点があった。すべての「ホトトギス」系俳人に思想が欠如しているかどうかは即断できないが、少なくとも作品面からはそのように思われても仕方ないだろう。

  青梅の落つる大地や雨上り       星野 立子

  雨上る地明りさして秋の暮        鈴木 花蓑

  あしたより大地乾ける牡丹かな     原  石鼎

  生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上 鬼城

  父祖の地に闇のしづまる大晦日     飯田 蛇笏

  遠き祖の墳墓のほとり耕しぬ       前田 普羅

 このような骨太の作品は、もはや現代の「ホトトギス」には期待できそうもないが、尤もこれは「ホトトギス」系以外の俳人の作品についても言えるかもしれない。資料収集の中で気付いたことの二つ目に、一体に線の細い現代俳句では、〈地〉という重いテーマを支え切ることが困難になりつつあるという点が挙げられる。まして、生死といったような大きな問題を重ね合わせてということになると一層手におえなくなるというのが、大方の俳人の現状なのではなかろうか。そのことは、特に有季定型を遵守する俳人に顕著であるが、これは〈地〉が本来十七音定型に収めることができないほど大きなテーマであることの証明とも言えよう。したがって、生死を〈地〉を通してとらえた秀作は、今日むしろ無季、もしくは無季も視野に入れた作家の有季作品の中に見出すことができるということになるかもしれない。

  いつか星ぞら屈葬の他は許されず     林田紀音夫

  日月や走鳥類の淋しさに           三橋 敏雄

  明日ありや水着のしずく地を濡らす     鈴木六林男

  陰に生る麦尊けれ青山河           佐藤 鬼房

 また少し時代を遡り、次のような作品をその中に入れても差し支えないだろう。

  父葬りその夜の雨を吾子と聞く       古家 榧夫

  一歩出てわが影を得し秋日和        日野 草城

  父祖の地に杭うちこまる脳天より      栗林一石路

  雨ふるふるさとははだしであるく       種田山頭火

  さびれた縁日の地べたにぶちまけた柿だ 大橋 裸木

     4.

 当り前のことであるが、我々は死ぬまでは嫌でも生きなければならない。そして、生きるためには働かなければならない。地球上に人類が登場し、採集狩猟から農耕牧畜を経て、商・工業へと発展してきた道筋についてははじめに述べた通りであるが、俳句においても、こうした人間と〈地〉の関わりが、主に二つの方向で作品化されているのを見ることができる。

 一つは、採集狩猟や農耕牧畜といった「生産的行為」を中心にしたものであり、もう一つは、戦争に代表される「破壊的行為」を中心としたものである。無論、人間と〈地〉の関わり方は、この二点だけではない。他に、たとえばスポーツや遊戯であるとか、祭りをはじめとする種々の行事などを考えることもできる。

 以下、具体的に作品を挙げて考察することにしよう。

  地のかぎり耕人耕馬放たれし        相馬 遷子

  燕かけまはる地が広くして鋤かれる     荻原井泉水

  鰯雲はたらく人を地に撒ける         福永 耕二

  鍬始め地下足袋の跡ふんわりと       香西 照雄

 これらは、「農耕」という営みに対する全面的な信頼と祝福に基づいた作品と理解してよい。大地へと働きかけるという営みを、人間の主体的行為として肯定した場合、こうした作品が成立するであろう。

 しかしながら、一方では次のような作品も存在する。

  鳥のゐない寒林人のゐない耕地      榎本冬一郎

  亡き者を罵る種を蒔きながら        金谷 信夫

  雨脚の奥にすりこ木凶作地         藤村多加夫

 農業技術がいかに進歩しても、大地という自然を相手の営為は基本的に水物である。春の暖かな陽光がふと雲に遮られたように、これらの句にはどことなく不安な影が差している。

 そして、この不安感は商・工業を取り込んだ俳句において、一層際立ったものとなる。それがさらに思想性を帯びると、社会の矛盾に対する抵抗的性格が強くなる。

  工場のひびき地をつたふ塀外の萌え   原田 種茅

     高層建設のうた

  鉄骨の影切る地に坐して食ふ       篠原 鳳作

  基地で無数の春泥の畦ぶち切られ    飴山  實

  大地が放つ春の朝焼同志よさらば     赤城さかえ

 前掲の作品のいくつかは、昭和三十年前後の俳壇を席巻した感のある「社会性論議」の中から生まれたものであるが、これらも日中戦争から第二次世界大戦を経て、悲惨な末路を辿ったという日本の歴史的事実が背景にはある。そして、そうした歴史の最も雄弁な証言者として、「新興俳句」のすぐれた業績を見逃すことはできない。地上に生産の場を求めてきた人間が同じ地上を破壊してゆく有様を、弾圧の危機にさらされながら新興俳句は告発し続けた。いずれにせよ、地上に定住を開始して以来、人間はその土地を領土化し、さらにそれを拡大するための争いを幾度となく繰り返してきたという事実を、今更ながら思い知らされるのである。

  墓標生れ戦場つかの間に移る        石橋辰之助

  闇ふかく兵どゞと著きどゞとつく         片山 桃史

  月蒼く脚が地雷を踏みにゆく         神生 彩史

  一兵士走り戦場生れたり           杉村聖林子

  戦闘機バラのある野に逆立ちぬ       仁智 栄坊

  銃後といふ不思議な町を丘で見た      渡辺 白泉

  鶴渡る大地の阿呆 日の阿呆        冨澤赤黄男

 ここには戦争の愚かさや無意味さに対する痛烈な批判が、〈地〉を介在して表明されている。極限状態に置かれた人間の精神には、季節感を喚起するだけの「季語」は、もはや何の効力も発揮し得ないのである。彩史、栄坊、赤黄男作には「月」「バラ」「鶴渡る」という既成季語が使用されているとは言え、作者の意図は季節感の表出にあったのでないことは明らかである。

     おわりに

 以上概観したように、〈地〉と関わり合う中で人間は実に様々な心情を俳句に託してきた。

 たとえば、万物を構成する根本元素として古くから重要視されてきた思想に、地・水・火・風のいわゆる四大があることはよく知られている。この内、水・火・風が流動的で、可変的であるのに対し、地は非常に堅固で抵抗を予測させ、同時にゆるぎない存在感も与える。つまり、それだけ人間の意識に深く影響を及ぼすと言うことができるのである。したがって、地に対する人間の想像と、それによって引き起こされる感情も、外向性と内向性の両極の上で働くことになる点を、フランスの哲学者ガストン・バシュラールは、その著書『大地と休息の夢想』及び『大地と意志の夢想』で指摘している。勿論、俳句における〈地〉も同様のはずである。したがって、たしかに今日まで、いくつかのすぐれた作品がきわめて多彩に〈地〉に託された心情を表現してきた。しかし、残念ながらやはりその数は多いとは言えないというのが実情であろう。

  火事太鼓湧く丑満の大地かな        三橋 鷹女

  地に掟天に連れ立つ寒鴉           堀井春一郎

  日が射せば棒のごとしよ荒地の雨      三谷  昭

  金色に茗荷汁澄む地球かな         永田 耕衣

  ひかりの地月日の氷殖ゆるなり       高屋 窓秋

  稲妻や地に欷き孕むあかきもの       折笠 美秋

  狒狒として大地に投げよ近松忌       安井 浩司

  即興に生まれて以来三輪山よ        和田 悟朗

 自らの心情を〈地〉に託した秀作として、思いつくままに記してみた。前述したほどには外向性と内向性の二点にはっきりと裁断できないのが、むしろ俳句らしいと言えるかもしれない。同時に、その二極間の大きな振幅が、結果的にこれらの作品に豊かなイメージを付与していると言ってもよいだろう。また、〈地〉に対する俳人達の意識にも、時代によって格差があることを考えておかなければならない。全国的規模の都市化の波は、現代人の〈地〉観念を著しく変化させつつあるという印象も受ける。にも拘わらず、〈地〉はやはり俳句にとって重要なテーマであることに変わりはなく、〈地〉を描いたすぐれた作品には、何らかの形で必ず作者の思想が反映している。これだけは、たしかなことである。