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俳句における正統と異端

2018.09.17 12:18

https://ameblo.jp/yahantei/entry-10002145676.html 【俳句における正統と異端】より「

---東野鷹志句集『百薬』鑑賞---                                                                  

 ① 水暗し岩より生える曼珠沙華      ② 花火師の旅してゐたり曼珠沙華    

 ③ 咲き満ちて暗さ内蔵したる花     ④ 言はれたるところに曼珠沙華ありし  

 ⑤ 曼珠沙華挫折の茎のひとならび     ⑥ 枯れかるかや折ればさびしき音たてむ                                       

この掲出の六句は多かれ少なかれ東野鷹志氏に影響を与えた人の作品である。①は沢木欣一氏、②は加藤楸邨氏、③は田川飛旅子氏、④は木村三男氏、⑤は加藤洋氏、そして、⑥は加藤朱氏の作品である。沢木欣一氏は「風」の主宰者、加藤楸邨氏は「寒雷」の主宰者、田川飛旅子氏は「寒雷」を経て「陸」の主宰者、そして、木村三男氏は「風」、加藤洋氏は「風」と「陸」、朱氏は「寒雷」と「陸」の、それぞれの本県の代表的な俳人ということになろう。

 これらの「風」・「寒雷」・「陸」の俳句結社の共通項は、「風」での「人間性の回復(俳句における文芸性の確立)」・「寒雷」での「俳句の中に人間の生きることを第一に重んずる」・「陸」での「人間がそこに生まれそこに死ぬ場としての<陸>」などの、この「<人間性>の探究」(東野鷹志氏の「あとがき」)に、その因って立つ俳句観を据えようというその創作姿勢ということになろう。この「人間性の探究」は、昭和十年代の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の各氏の句風に冠せられた「人間探究派」に由来するものなのであろうが、それは、同時に、それは、「本来の立場はヒューマニズムを基底とするものであるから、人生派と名づけるのが妥当であろう」(加藤楸邨)という、そのヒューマニズム(人間尊重を基調とする思想態度)を基底とする創作姿勢ということをも意味するのであろう。  

 そして、この「俳句におけるヒューマニズム」ということを真っ正面に据えるかそうでないかとによって、「俳句における正統と異端」という二つの分岐点が用意されているようにも思えるのである。即ち、ヒューマニズムということを真っ正面に据える俳人たちは正統派的な俳人たちであるのに対して、それを真っ正面に据えない俳人たちは異端的な俳人たちと理解されるような、そんな雰囲気が俳句を創作する人たちの中にはあるようにも思えるのである。

 例えば、同じ、ヒューマニズムを基調とする掲出の六句の俳人たちにおいても、例えば、その、④の作家の木村三男氏などは、同じ、ヒューマニズムを基調としながらも、他の五人の作家とは、その句風に著しい違いを見せ、そして、それは、少なくとも、田川飛旅子氏らの「陸」の真っ正直な直球的な句風が正統的な句作りとするならば、三男氏のそれは穿った曲球的な異端的な句作りとして、けっして奨励し歓迎されるような、そのような雰囲気が俳句創作に係わる人の基本的な姿勢としてあるように思えてならないのである。そして、それは「俳句とは無縁でない、川柳の作り手である(あった)彼(東野鷹志)」(加藤朱氏の「跋」)あるいは「オーソドックスな詠法(正統的な詠法)の反面、こうした斬新な発想の面白さ(異端的な詠法の面白さ)」(小室風詩の「解説」)というニュアンスによって、少なくとも、「非オーソドックスな川柳」的な世界は、俳句の世界においては別次元での世界のものという認識があるように思えてならないのである。

 以下、これらのことを念頭において、東野鷹志句集の九つの章の、それぞれの二句程度を選句して、さらに、川柳六大家などの句と対比させながら「俳句における正統と異端」などのことについて考えてみたい。

                                        

一 『風』時代(昭和四三~四五年)                                                               

○ 春浅し桶屋は桶の中へ咳く                          

○ 恋猫の屋根を歩けば長い胴                                                                   

昭和二十一年の番傘川柳社編の「川柳京洛一百題」に「うらゝかさ母の欠伸も本願寺」・「京の屋根みな低うして鉾動く」というのがある。鷹志氏の「桶屋の咳」と川柳の「母の欠伸」、鷹志氏の「恋猫の屋根」と「京の低い屋根」の、この着眼点の類似性はどうであろう。そして、それ以上に、鷹志氏の桶職人への温かい眼差し、そして、屋根の上になきながら行く恋猫を凝視する微笑ましい眼差しは、番傘川柳社の人たちの愛する京都に捧げる讃歌のための凝視するその眼差しと、誠に瓜二つのものであろう。そして、これらの温かい眼差しやあるいは微笑ましい眼差しを、ともすると「俳句における正統と異端」という観点からは、俳句においては正統的な詠法(オーソドックスな詠法)とは別次元のものととらえる風潮を、鷹志氏の、この句集に接して、まざまざとその思いを新たにしたのである。 

                                        

二 『寒雷』時代(昭和四六~五二年)                                                              

○ 陽が差してきて寒鮒の平らな死

○ 髭の先にてこほろぎが考へる

                                         

「正月の乏しき餅の円さ愛ず」・「こおろぎにシベリヤの子も寝返えるか」は、時事川柳に新生面を開いた三条東洋樹氏の、正月の句とこおろぎの句である。この東洋樹の正月の句には、戦後の貧しくも逞しく生きる庶民の生活が綴られている。そして、この東洋樹氏のこおろぎの句は、日本にいる母が遠い極寒のシベリヤに抑留されている子に捧げる句なのである。この当時の時代風潮に対する鋭い眼差しと、その時代に生きる人々への哀感というものは、これこそが、ヒューマニズム(人間尊重を基調とする思想態度)という言葉そのものであろう。そして、鷹志氏の、この掲出句の寒鮒の句にも、こおろぎの句にも、東洋樹と同じような鋭い眼差しとそのヒューマンな創作姿勢が脈々と波うっているように思えてならない。両者を比較して只一つ、鷹志氏は東洋樹氏が真っ正面に取り組んでいる時代風潮に対する鋭い風刺ということを意図してはいない。しかし、東洋樹氏は鷹志氏のような生あるものの不可解さということについてあれかこれかと模索してはいない。しかし、共に、ヒューマニズムを基調とする点においては全く同じ世界の創作姿勢であり、所謂、俳句も川柳も、その垣根を取り払う必要はないであろうか。

                                        

三 --『陸』--群青(昭和五二~五四年)

                                        

○ 春闘の静かにをはる青目刺

○ 夏桑のてらてら国定村を出る                                                                  

川柳界の加藤楸邨氏のような位置にある人は川柳六大家の代表的な一人の川上三太郎氏であろう。三太郎氏の句に、「河童起ちあがると青い雫する」・「菖蒲湯に子供の頃の深川区」というのがある。鷹志氏の「青目刺」と三太郎氏の「青い雫」、鷹志氏の「国定村」と三太郎氏の「深川区」、この二人に共通する言葉の吟味--、そこには、もはや、片方が俳句で、片方が川柳という線引きは不可能であろう。三太郎氏はとある俳人に俳句と川柳の境を問われた時、「どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ、それ以外は全部川柳でもらう」と豪語したという。ことほど左様に、川柳界の加藤楸邨氏のような位置にある人・川上三太郎氏は大きな度量をもって、門戸を広げて俳句界の川柳界との接近を心待ちにしていたのであった。しかし、俳句界の誰一人として、この川上三太郎氏の意向にかなおうとした俳人はいなかった。冒頭の掲出句の六人の俳人にしてしかりであろう。そのような風潮の中で、俳句界の正統派的な主流を歩む田川飛旅子氏の「陸」にあって、鹿沼出身の鷹志氏の俳句が飛旅子主宰らも高く評価されていることは、何かしら今後の俳句界の一つの歩みを見るような思いがするのである。

                                        

四 --『陸』--二の虚空(昭和五五~五六年)

                                        

○ 雪の夜は母を上手にだましけり

○ 赤き布黒き布鳥威しをり

                                         

川柳六大家の一人の岸本水府氏は、ただの伝統川柳から脱却すべく「本格川柳」を目指した。それはともすると言葉遊戯に陥りやすい川柳の世界に近代性と主情性とを注入する試みでもあった。この水府氏はその『岸本水府川柳集』の序に代えて母百句をもってきたほどの母の句を得意とした作家でもあった。「今にして思えは母の手内職」・「とまつてゐてもよい母の時計」と母への万感の思いが句と化している。この万感の思いを句にすることこそ、俳句においても川柳においても最も大切なことなのであろう。そして、鷹志氏の母の句も、その源はそっくりそのまま水府氏の世界のものであろう。そして、水府氏はまた、日常の身辺の些事を実に的確に描写する写生句をも得意としたのであった。「雑巾も家それぞれのおきどころ」・「人間の真中辺に帯を締め」と、これらの雑巾も帯も、それは、そのまま、鷹志氏の鳥威しの赤い布・黒い布と同じ世界のものであろう。即ち、俳句も川柳も、俳諧(連句)という世界から巣立った一卵性双生児であり、それは、本来、もっともっと手を結ぶべきものであったのに対して、今までは、その違いにのみ目をお互いに光らせていたということであろう。その両者の違いよりも、その両者の類似性にこそ目を光らせ、そして、その上での切磋琢磨こそ、これからの俳句と川柳とのあるべき姿なのではなかろうか。

                                        

五 --『陸』--都賀郡(昭和五七~六〇年)

                                        

○ 建国の日はさはさはと生野菜

○ 恋猫の戻りて空の無傷かな

                                         

川柳六大家の一人の椙本紋太氏の主宰誌は「ふあうすと」である。俳句界において新興俳句が一世を風靡したように、川柳界においても石原青龍刀氏らの新興川柳が若い川柳作家の心を掴んだのであった。その中にあって、「川柳は人間である」ことを主軸として、「自らの姿のありのまゝを表現することに努力し、川柳を真っ向にかゝげて精進することたすけるために、ふあうすとは存在する」と宣言したのであった。まさに、川柳界における人間探究派の宣言であろう。しかし、それは、俳句界における人間探究派への要請が、桑原武夫氏らの「(俳句)第二芸術論」のように、俳句界の内よりも外の批判的攻撃に対する痛烈な反動であったのに対して、紋太氏らのその人間探究派の実戦は余りにも内の川柳非詩論などに対する防御的な川柳という狭い殻に閉じこもるものでもあった。「豪華版大根一貫目が煮える」・「六十の恋はきせるの掃除する」・「晴耕雨読へ速達などよこし」など、何の変哲もない日常の中のしみじみとした生活実感の句、そして、それは、そのまま、川柳における正統と異端における正統派的な流れでもあった。即ち、俳句における正統と異端において、最も風変わりな異端という位置にある川柳的なものへの回避でもあったのだ。しかし、その川柳における正統派的な流れは、実に、鷹志氏の、この「生野菜」や「恋猫」世界とその底流を同じにしている世界でもあったのだ。

                                        

六 --『陸』--煤掃きの天使(昭和六一~六三年)

                                        

○ するすると降りて来て煤掃きの天使   

○ 火事場の立木に悔のごときもの     

                                         

「夕焼のうしろに天国があるか」・「西陽を向いて貧乏のあからさま」・「友の墓ならば手桶に酒ほしや」と、これらの句はこれまた川柳六大家の一人の村田周魚氏のものである。周魚氏のそれは古川柳の柳多留の趣があり、新興川柳の側からは既成川柳の本拠地として攻撃の標的になったのであった。川柳といえば柳多留、柳多留といえば川柳と、その柳多留の歴史はそのまま、古川柳の歴史であり、明治以降の近代・現代川柳に投げかけている影は、俳句界における芭蕉の影響以上のものがあるのかも知れない。そもそも文学の一ジャンルとしての川柳が、その創始者の柄井川柳のその名を冠している事実一つをとっても、柄井川柳が選者(点者)をして、その選句された集大成の柳多留(初代川柳選はその二四篇まで)は古川柳の頂点を極めたということが出来ようし、柄井川柳以降現代の川柳作家の誰一人として、好むと好まざるとに係わらず柄井川柳の亡霊との格闘を強いられてきたことであろう。周魚氏とその結社の「きやり吟社」がかかる既成川柳の本拠地と見なされるということは、逆にいえば、それだけ岸本水府氏の言葉を借りていえば、本格川柳という名称は、水府氏の番傘王国に冠せられるよりも、より多く周魚氏のきやり吟社に捧げられるものなのかも知れない。そして、周魚氏とそのきやり吟社の狙いは、「人間描写の詩として現実的な生活感情を重んじ近代の芸術意識を通じて」と言う川柳の世界の構築にあった。この周魚氏のいう「人間描写の詩と現実的な生活感情を重視」という、この二点において、鷹志俳句と周魚川柳との方向は同じくするものという印象を受けるのである。

                                        

七 --『陸』--善玉(平成元~三年)

                                        

○ 姫百合の反りに父親らしくゐる

○ 恋猫に石投げてまたオンザロック

                                         

川柳六大家の一人の麻生路郎氏は、鷹志氏の師でもあった加藤楸邨氏と同じように、御夫妻ともども著名な柳人であった。路郎氏の「俺に似よ/俺に似るなと/子を思ひ」あるいは「愚かにも/顔見にゆけば/雪になる」は、佳句中の佳句とされている。路郎氏は、その句意だけではなく言葉の切れさえも明確に伝えようとし、俳句界における高柳重信氏と同じように多行形式の方法を採った。その奥様の葭乃氏も「眠るよりほかに浄土の地をば見ず」あるいは「一周忌こんな布団で寝ていたか」という佳句中の佳句がある。この後者の句は路郎氏との葭乃氏との間の長男の方に捧げられた追悼の一句である。これらの路郎氏と葭乃氏の句に接していると、これはまさに、路郎氏が狙っている「人間生活を深く掘り下げ、その人間陶冶の詩」という感を深くするのである。そして、鷹志氏が、「これからも人間探究派の一員としての誇りを持って邁進する」(あとがき)ということは、まさに、路郎氏の言葉でいうならば、その「人間陶冶の詩」ということになるのではなかろうか。

                                        

八 --『陸』--天地(平成四~六年)

                                        

○ 甚平を着ては間違いなく酔へり

○ 百薬の一つに木耳(きくらげ)を加ふ

                                         

さて、川柳六大家の最後は本県出身の前田雀郎氏に登場して頂こう。「川の灯の伸びて縮んで夏になり」・「年の暮命一つに突き当り」と、雀郎氏の川柳は、川柳の正当派的な「うがち(世態の裏面・人情の機微をとらえようとしての〈うがつ〉」の『柳多留』の世界ではなく、即ち、その柳多留のような露骨な滑稽味も世界でもなく、さりとて、その柳多留とは異質的ないわば「第一芸術(桑原武夫氏流の第二芸術芸術との関連)」的な詩的な滑稽味も世界でもなく、その中間的な『武玉川』的な、両方兼ね備えたような世界での作句活動ということができようか。その中間的ということで、例えば、「にんげんのことばで折れている芒」の抽象的な世界を醸しだす現代の代表的な柳人の定金冬二ほどに、異端の世界にも位置してはいない。しかし、もし、柳多留の世界がより正当派的な流れということからするならば、やはり、より異端的な流れの世界ということができるのであろうか。そして、その武玉川の世界は柳多留の世界よりも十五年も先立って現れたものであった。そして、それはより多く俳諧(連句)と深い係わりのある世界でもあった。そして、雀郎氏の川柳の世界こそ、この俳諧(連句)と深い係わりのある世界でのものであり、それは、雀郎氏の言葉でいえば、「俳諧(連句)の平句(発句=俳句)の心持に立って川柳する」ということであった。そして、それは、芭蕉の晩年の軽みの世界とも相通ずるものでもあった。そして、まさに、鷹志氏の、これまで見てきて俳句の世界も、この雀郎氏のいう、「俳諧(連句)の平句」的な俳句の世界という感じが濃厚であるということを指摘せざるを得ないのである。

                                        

九 --『陸』--無芸(平成七~八年)

                                        

① 塩田に百日筋目つけ通し

② 百代の過客しんがりに猫の子も

③ わが名に潜む十字架三つ落葉せはし

④ 藁塚に風の無き日は死ぬもよし                        

⑤ 向日草の円周率でユダを斬れ

⑥ 地雲雀の飛礫となりて谷中村                         

⑦ 無芸かな尻餅と云ふ暖かさ

                                         

また、振出しに戻って、①は沢木欣一氏、②は加藤楸邨氏、③は田川飛旅子氏、④は木村三男氏、⑤は加藤洋氏、⑥は加藤朱氏、そして、⑦は鷹志氏の作品である。そして、俳句における正統と異端ということで、俳句界の側からすると、川柳的なものは異端的なものと見なされ、そして、鷹志氏が歩んで来られてきた「風」・「寒雷」そして「陸」という歩みは、その川柳的なものの異端的な世界とは異質の、言わば、俳句界の世界の中でも一番中心となる正統派的な流れに位置するものであり、それらの三つの世界に共通するものは、俳句におけるヒューマニズムということであろう。

 しかし、これらのヒューマニズムということを基調とする、その正統派的な流れの中にあっても、それぞれ、その内部にあって正統的なものと異端的なせめぎあいがあるのであって、例えば、同じ、「風」の世界の中にあっても、①の欣一氏と④の三男氏とでは全然肌合いを異なにするし、それは、「寒雷」の楸邨氏とその直系とも思われる飛旅子氏でもこうも句風を異なにするかという思いを大にするのである。そして、それは、⑤の洋氏と⑥の朱氏という御夫妻の間においても等しくいえるものであって、そして、この両者を対比した場合には、洋氏の世界が難解俳句的な詩性へと傾斜しているのに比して、朱氏のそれはより明晰俳句的な詩性が濃厚のようにも思えるのである。そして、この洋氏のそれと同じように、鷹志氏の俳句の世界も、この師系に当たる六人の先達と異質の、そして、その六人の世界が正統派的な世界であるとすれば、より多く異端的な世界に足を踏み入れているようにも思えてくるのである。 

 しかし、鷹志氏がこれらの六人の先達と比してより多く異端的な世界に足を踏み入れているということは、鷹志氏の俳句がより川柳的というよりも、その川柳ほどに滑稽性が露骨ではなく、さりとて、花鳥諷詠の俳句ほど情緒的な詩性を標榜せず、その滑稽性と詩性との絶妙な融合性の上に成り立っているということの方が、より正確な表現ということななろう。そして、その立場は、この六人の先達の中にあって、④の木村三男氏の世界と非常に近いものを感じさせるのである。 

 今、これらのことを図示すると次のとおりとなる。

(模式図・省略)

 この模式図はあくまでも一つの参考図であって、全てに当てはまるものではないけれども、俳句と川柳との対比、そして、それぞれの正統と異端ということを考慮する場合の一つの定規にはなると思われる。そして、ここで付記して置きたいということは、その正統・異端が極端に傾斜し、それが少数派に止まっている限り、正統的革新派・異端的革新派ということであり、その意味において一般的用語の「正統・異端」の意味とはニュアンスが異なるということなのである。そして、それ以上に、それは相対的なものであって、常に、詩性と滑稽性とを二つの極点として、時計の振り子のように、その正統と異端とは変化するという動的な世界として把握する必要もあるのである。             

そして、これらの模式図とその説明をとおして何が強調したいかというと次の三点なのである。

一 俳句と川柳とは同じ俳諧(連句)という母体から誕生し、俳句は松尾芭蕉により一新し、それまでの滑稽性重視よりも芸術性・文芸性の詩性重視へと比重を移していった。そして、川柳は俳句の詩性重視へに反比例して、柄井川柳の出現によりますます滑稽性重視への比例を増していった。そして、俳句と川柳とはこの詩性と滑稽性とを両極点とし、あたかも時計の振り子のように、両者はそれぞれにそれぞれの方向にその比重を移し変えるのであった。

二 現代俳句の正統派的(多数派)の流れは、この詩性と滑稽性とのバランスの良く取れたヒューマニズムを基調とする人生派(人間探究派)がその本流のように解せられるけれども、その人生派(人間探究派)のその本流の中にあっても、詩性重視と滑稽性重視とのせめぎあいがあり、詩性重視は前衛的モノローグ(独白)的な色彩を強めていくのに対して、滑稽性重視はより多く俳諧的ダイアローグ(対話)的な色彩を強めていくという好対象を見せる。そして、この詩性重視と滑稽性重視との拮抗がその人生派(人間探究派)自体の新しい次元の世界を切り開いていく原動力となっている。            

三 そして、東野鷹志氏の俳句は、沢木欣一・加藤楸邨・田川飛旅子(木村三男・加藤洋 ・加藤朱)各氏の俳句の、言わば、人生派(人間探究派)のその本流の中にあって、より多く、滑稽性重視の俳諧的(連句の平句的)なダイアローグ(対話)的方向を目指し、それがともするといたずらに前衛的モノローグ(独白)的な色彩を強めていく傾向にある、その人生派(人間探究派)の世界にあって、多くの稔りある成果をもたらし、それらのことが相まって、ますます人生派(人間探究派)の俳句が俳句界にあって大きな位置を占めてくるということなのである。

 さて、随分と大それた方向にその結論が傾いてきたきらいがなくもないが、要は川柳六大家の一人ひとりの句を見ていっても、また、東野鷹志氏と氏を取り巻くその師筋に当たる一人ひとりの句を見ていっても、それは、実に他に右顧左眄をすることなく、「己の俳句・川柳」を目指して邁進しているかという思いを強くするのである。そして、その己の創作物が真の輝きを増した時には、もはや、その正統も異端も問題にはならないということではなかろうか。そして、この「己のもの」を目指して邁進することこそ、この五七五という世界においての鷹志氏の言葉の「百薬」なのではなかろうかという思いを強く持つものなのである。