9月19日 礼拝
9月19日 礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書 8章28−34節
イエス様が悪霊を追い出す話。
奇想天外な話が時々聖書にはあるが実はここにリアルがある。
人に張り付いた悪霊。
山上の説教からの続きで読めば、この悪霊の見当がつく。
あなたは地の塩、世の光。
人には掛け替えのない使命、働きがある。
それが与えられていながら人はそれを見出せないでいる。
なぜか。
心が乗っ取られているから。
人の目に
富に、権力に、
自分以外のもに心が占領されると自分の使命が分からなくなる。
人に張り付いた悪霊はまさに私たちの心を占領する「人」「富」「権力」に他ならない。
私が恐れを抱くもの、心配になるもの、執着をしてしまうもの、
それが「悪霊」と名乗って登場している。
悪霊、人が心を持っていかれるものとはどういうものか。
物語は語っている。
悪霊はイエス様に対して言う。
「まだ、その時ではないのに、私を苦しめに来たのか」
先週の湖で嵐に出会う話。
それも今日の話と重なっている。
嵐になぜ人は怯えるのか。
嵐が自分より強いから。
私は嵐に勝てない。
誰も嵐に勝てないのではないかと恐怖に心が支配される。
イエス様は嵐をお叱りになる。
嵐は凪になった。
誰がトップか。
悪霊も同じ。
イエス様に勝てないと知っている。
「その時ではないのに」
悪霊は自分が永遠だとは思っていない。
期間限定だと自覚している。
有限なもの。一時のもの。
人の評価、富、権力
これらは期間限定、やがて朽ちるもの。
豚に乗り移れば豚たちが溺れ死んだのは、まさにこれらの性質を表している。
ひと時人の興味関心を惹きつけるが、すぐに朽ちて、これのここを奪われた者も道連れにする。
私たちが心を占領されたものたちはその程度のもの。
そんなものがトップか。
トップは神だろう。
それがこの物語が語っていること。
だが、神をトップにどうすればできるのか。
私たちだって分かっている。
神様が一番だと分かっている。
それでも感染症が恐ろしく、自然災害に苦しめられている。
助けに来てくれない神様を一番に据えるとはどのようにしたらできるのか。
ヨハネ福音書はその解を持っている。
「神は愛なり」
私たちの心が恐怖に支配されれば、自分の使命、塩味、光は見えなくなる。
恐怖、心配、不安を心の一番上に置かない。
何がトップか。
愛がトップだ。
愛する。
それを思い出す。
それを実践する。
どんな状況でも、誰にでも。
愛する。
それができる心は何にも乗っ取られない心になる。
自由な心でいられる。
その心が私の使命を見極められる。
物語の最後は辛辣に人の心を語っている。
豚飼いからことの顛末を聞いた人々がイエスのところに来て言う。
この町から出て行って欲しい。
不安、恐怖、これに支配されたものたちは笑い飛ばす。
愛に何かできるのか。
だからこそ信仰者の仕事がある。
愛する。
私は地の塩、世の光。
何がトップか。
愛を行う。
恐怖、心配に覆われたこの世界でそれができるか。
私たちは問われている。
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