はざまに目を向けたい
日曜日の今日は少し肩の力を抜いて、ちょっと私のことを。
プライベートでチャイルドラインボランティアの講座に参加しました。
チャイルドラインってご存じですか?
「電話を通じて子どものこころに寄り添う活動」として、1970年頃、欧米各地で始まった慈善活動で、日本での活動も30年以上になる活動。全国各地のボランティアに支えられ、いじめや虐待被害のみならず、だれにも相談できない、誰かに話を聞いてほしい、そんな子どもの気持ちを受け止める電話窓口です。
チャイルドラインの活動は「子どもの権利条約」理念に基づくのですが、わたしはその理念から生まれた、チャイルドラインのもつ「子ども観」にとても心を動かされました。
子ども観とは、要するにチャイルドラインがもつ子どもへのまなざし、ということ。
それは以下の3つです。
「子どもはおとなと同様の権利を持っています」
「子どもは大人と対等な存在であり、社会を共に作っていくパートナーです」
「子どもをひとりの人間として、主体性を尊重します」
至極当たり前のことを言っている、と思う一方で、このようにハッキリとした「ことば」で子供を尊重する文言を聞いたことは、今まであまりなかった気がしませんか?
人権にフォーカスが当たる昨今だからか、聞いた時、まっすぐこころに響いてきました。
わたしも親として、子供への目線はこうありたい、と思い、そのまま私の子育ての指針になりました。
だれもが等しく尊重されて育つことができればいいですが、そうではない、こぼれ落ちてしまう子どもたちのこころを、少しでもすくいあげたい、というこの活動。
自分の参加の動機を思い返してみると、私は「はざま」に目を向けたいのだ、と思い当たりました。
振り返れば、大学の卒論のテーマもマイノリティに目を向けた「ドイツ・ユダヤ人のアイデンティティ問題」でした。ドイツ科だったので、ドイツにまつわるテーマでの卒論になるわけですが、私はマイノリティとして居場所を追われ、アイデンティティも追われたドイツ・ユダヤ人に目を向け、彼らについての卒論をまとめました。
いつの時代も、どこにおいても、マジョリティの影にかくれるマイノリティがいて、はざまでこぼれ落ちてしまうなにかがあります。
私はそのなにかのほうに目を向けたい。
それは私の原点かもしれません。