グリークラブアルバムの研究 ドイツ語曲編
2017年6月に「グリークラブアルバムNEXT」が発売されることがアナウンスされ(3月予定が4月に変更になり,更に6月になった),従来のグリークラブアルバム1・2・3は廃版になりそうだ。入手できるうちに,グリークラブアルバムの収録曲について,主に合唱史の立場からまとめていく*。「権兵衛が種まく」「U Boj」については別に詳細を上げたので,そちらを参照。例によって,断りのない場合は赤本,グリークラブアルバム1を指す。現在市販されている版の目次ではなく,初版目次を基本に,差し替えで追加された曲を付け加えていく。「レパートリー篇」で採用した順である。なお,当初案では各曲編は赤本に限定するつもりだったが,2と3の曲についても赤本の後にいくつか選んでまとめる。
(2017/6/10追記)
思ったより長くなりそうなので,「レパートリー編」の分類に基いてまとめていくことにする。
1. Der Lindenbaum (菩提樹)
作詩 ミューラー
作曲 シューベルト
編曲 ジルヘル
再編 福永陽一郎 → E.ルドルフ
グリークラブアルバムも戦前からの伝統に則り,まずドイツ語の曲で始まる。Liederschatsなど海外の曲集は歌詞のアルファベット順に並べられていることが多く,「Am Brunnen」で始まる「菩提樹」は1-2曲めに収められている。この本もそれに習ったのかもしれないが,これ以降のドイツ語曲はアルファベット順ではない。
「菩提樹」はシューベルトの歌曲集「冬の旅」の中で単独でも歌われる人気のある曲で,「ローレライ」でお馴染みのジルヒャー(Friedrich Silcher)が男声合唱曲に編曲した。原曲はホ長調のようだが,トップテノールに旋律を歌わせるため音を上げて変ロ長調に移調して編曲されており,そのためトップは上のB音まで出さないといけない。古い版では「再編 福永陽一郎」とされていたが,欄外解説に「ここにのせた版は,第二次大戦後のドイツで出た修正版です。」とされていて,「福永が更に手を加えたのかしらん?」と思っていたが,後に「編曲 E.ルドルフ」に修正された。調を含めて,ジルヒャーの編曲が元になっていそうなので,ここでは再編曲者の修正とした。 E.ルドルフがどんな人かは不明。
グリークラブアルバムの編集方針である「複数の編曲がある場合は,(編者が考える)合唱曲として最も優れたものを」採用する姿勢が,第1曲から打ち出されている。同時に,「第二次大戦後」という,初版が出た当時からすれば「最近の」海外の合唱楽譜にも目配せしているという編者の姿勢が明確にされている。
「菩提樹」の日本語訳と言えば,「泉にそいて 茂る菩提樹」で始まる近藤朔風の訳詞が有名で,私も高校の時にこの詞で歌った。初出は明治42年(1909年)に小松耕輔が出した「名曲新集」に歌曲として収められている。同じ訳詞は同年に天谷秀と近藤朔風が共著で出した「女聲唱歌」にも使われており,こちらは女声三部合唱譜(ト長調)である。
旋律だけについて言えば,明治23年(1890年)に出た「明治唱歌 第五集」の「雀の子」に採用され創作歌詞がつけられている。「芝生の上に 小笹(おざさ)の葉に うつくしや来て あそぶ雀」と始まり,雀の子の巣立ちを歌ったもので,青年の苦悩とは少し違う。
日本語の男声合唱譜は,大塚淳が昭和3年(1928年)に出した「男声四重唱曲集 第一集」に収められた「科の木」(シナノキ)が最初であろう*。ジルヒャー版とほぼ同じであるが,ト長調と音が下げられており,当時の男声の音域に合わせたものと思われる。「科の木」については訳詞者の飯田忠純が解説で「『科の木』-菩提樹(Der Lindenbaum)の和名なり。『菩提樹』と書きても『しなのき』と讀ますべし。『科の木』と書くを譯者の思想とする。」としている。しかし,飯田の意気込みにも関わらず「科の木」は戦前の合唱コンクールで少し使われたにとどまった。飯田は慶応義塾大学の西洋史出身でイスラーム史を専攻し,洋楽評論家としても活躍した人。なお,シナノキは日本特産種らしいので,厳密に訳すなら「西洋科の木」とすべきだった**。
* 恐らく旧制高校でLiederschatsが使われドイツ語で歌われていたものと思われるが,記録を見つけていない。
** 「菩提樹」のいわれは,その下でお釈迦様が悟りを開いたからだが,その木は「インドボダイジュというクワ科の植物でイチジクの仲間。仏教が中国に伝わり,インドボダイジュに似た葉を持つ中国原産のシナノキ科の植物を『菩提樹』と呼んだ」らしい。
(http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1891/bodaiju/bodaiju.html)
男声の演奏記録では,慶應ワグネル(1921年)も早稲田(1920年)も同時期だが,慶應ワグネルはジルヒャー編曲版での演奏が明記されている。グリークラブアルバムのレコードでもワグネルが歌っていて,初めて聴いたときはその美しさに唖然となった。発声,ハーモニー,ドイツ語の歌い方まで,「これこそ男声合唱」といえる素晴らしいものだった。
2. Heidenröslein (野ばら) Werner版
作詩 ゲーテ
作曲 ウェルナー (ヴェルナーが正しいようだがグリークラブの表記に従う)
編曲 福永陽一郎 → H.シット
「童は見たり」で始まる有名なこの曲,元はウェルナーの合唱曲で,古い版では「編曲 福永陽一郎」とされていたが,後に「編曲 H.シット」に修正された。楽譜がいろいろあり,どれが原調がはっきりしない。グリークラブアルバム版では変イ長調で,「ハーモニーを多少複雑にした」とされており,この版に慣れているとイ長調のLiederschatsは和音が単純である。Liederschatsより単純で素朴なヘ長調の合唱楽譜もあり,ヘ長調の歌曲がオリジナルという説もあるため,これが原調のように思う(比較図参照)。
なお,初演は1829年1月20日,ウェルナーが指揮者を務めていたブラウンシュヴァイク男声合唱団のコンサートで男声合唱曲として演奏されたとのこと*。
(*https://ja.wikipedia.org/wiki/ハインリッヒ・ヴェルナー)
未見だが,原譜の冒頭には「フランツ・シューベルトの影響のもとに」と書かれているらしい。音楽家の丸山裕子さんによれば,ゲーテはシューベルトの旋律は認めなかった。この詩に素朴な庶民性を求めていたためらしいが,ウェルナーの曲はどう思っていたのだろう**。ちなみに,ゲーテの野ばらに惹かれた作曲家は多く,坂西八郎「野ばらの来た道」「楽譜『野ばら』91曲集」を参照すると,154曲が作られている。これについては,次のメンデルスゾーン作とされる野ばらでもう一度触れる。
** 坂西先生は「ヴェルナーは民主主義者でした。しばらく前にフランス革命がありましたが,ヴェルナーは蜂起する民衆側で,ゲーテは貴族主義の男ですから革命は嫌だったでしょう。仮に,ゲーテがウェルナーの曲を聴いたとしても,彼がどういう人か分かったし,もう本当に嫌だったんじゃないですか」と語っておられる。そうかもしれないが,音楽として素朴に感じたかどうかに興味がある。
このウェルナーの「野ばら」, 明治15年(1882年)から明治17年(1884年)にかけて出版された「小学唱歌集」に「花鳥」という3部合唱曲として収録されており,旋律は日本でも古くから知られていた(ちなみに,ヘ長調で載っている)。歌詞は「山ぎはしらみて。雀はなきぬ。」と古風すぎたためか,「童は見たり 野中の薔薇」の歌詞が広く使われるようになった。この訳詞は「菩提樹」と同じ近藤朔風作で,「女聲唱歌」に女声三部合唱曲として載せたもの。バラというと明治期に輸入された西洋の花のように思うが,実は日本はバラの自生地で「うばら」等と呼ばれて万葉集の時代から知られており,江戸時代には栽培もされていた。したがって,「野中の薔薇」という言葉自体に違和感はなかった。歌われている内容は別として。
近藤の訳詞には「童は見たり 野中の薔薇」で始まるものと「童は見たり 荒野の薔薇」で始まる2通りがある。ネットには「『童は見たり 野中の薔薇』は元々はシューベルトの曲に付けたもので,ウェルナーには『童は見たり 荒野の薔薇』を付けた」とする説があるが,「女聲唱歌」以前に近藤が「野ばら」に詞をつけた譜面は確認されておらず,この説は誤ちである。何故このような誤解が生じたのか分からないが,例えば戦前にビクターが出したシューベルトとウェルナーの野薔薇をカップリングしたSPでは
「童は見たり 野中の薔薇」がシューベルト
「童は見たり 荒野の薔薇」がウェルナー
にあてられており,誤解するのもやむを得ない。近藤の「童は見たり 荒野の薔薇」の初出は分からないが,戦前や昭和20年台の男声合唱譜にはこの歌詞をあてたものが散見されるため,男声用に作り直したのかもしれない。
日本語の男声譜としては,これも 大塚淳の「男声四重唱曲集 第一集」に収められた「野薔薇」が最初であろう。タイトルは野薔薇(のばら)だが,歌詞中では薔薇とかいて「うばら」と日本古来の呼び方をしているところは飯田らしい。この曲集には「咲く花うばら」(Es ist ein Ros'entspringen)という13世紀頃の曲も収録されているが,この曲も戦前を中心によく歌われた。
東西四大学の演奏記録では,明治40年(1907年)に歌っている早稲田大学が最も古いが,三声と書かれていて恐らく「女聲唱歌」の楽譜による演奏であろう。他の三大学は昭和5年(1930年)頃に初めて歌っている。時期からすると,大塚の「男声四重唱曲集 第一集」による演奏かもしれない。記録を探すと,男声合唱によるもっと古い演奏例があるような気がする(東西四大学に限らず)。
3. Heidenröslein (野ばら) Mendelssohn
作詩 ゲーテ
作曲 メンデルスゾーン
大正14年(1925年)に初めて歌われて以来の,関西学院グリークラブの重要なレパートリー。戦前の合唱コンクールで自由曲として歌われ,また,少なくとも2枚の市販SPを吹き込み,のちにデジタル化して関西学院グリークラブの記念CDにも収められた。民謡調の素朴な味わいがある名曲で,「グリークラブアルバムCLASSIC」では知名度では遥かに高いウェルナー版ではなく,こちらが採用された。メンデルスゾーンの作ではないかとされているが確証がない。当初からグリークラブアルバムでも「メンデルスゾーンの作と信じられています」とやや引いた表現で,骨董風に言えば「伝メンデルスゾーン作」としている。
前述の坂西八郎先生が「野ばら」の研究をされ,昭和62年(1987年)にテレビ番組が作られた際,林雄一郎先生が作曲者を確認する調査をされたが,「手をつくして調査したのですが結局は不明のままメンデルスゾーンの幻の作品になってしまいました」と確認できなかった。メンデルスゾーンの作品リストにこの曲は乗っていないが,その理由は,ユダヤ人だったメンデルスゾーンの作品はナチス政権下で歌うことが禁止され,多くの作品が消えてしまったからである。ジルヒャーもユダヤ人だったため,「ローレライ」も取り締まりの対象であったが,この歌はドイツ人に余りにも愛されていたため,なくなることはなかったが,そこまでやろうとした「弾圧」の厳しさが伺われる*。
* メンデルスゾーンの合唱曲集や,ジルヒャーのローレライや編曲はその頃にはドイツ外に広がっていたから世界から抹殺することはできなかったということか。
この曲について,坂西先生は「ドイツの音楽学者は,この曲はまぎれもないドイツ合唱曲の特性を備えている,と言ってはいるが」とされ,また,音楽家の丸山裕子さんは「この曲も旋律の作風や和声の構成などから彼の作曲だと推測されている」としておられ,メンデルスゾーン作の可能性が示唆される。
私も興味があり,あるとき彼の姉にFunny Mendelsohnという「作曲家」がおり,合唱曲を多く書いたことを知り,実は彼女の作ではないかと思い調べてみたが,そういうことはなさそうだ。詳細は「日本男声合唱史研究室」参照**。
** https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1332736
もう少し調べてみると,「図書館所蔵資料のグローバルカタログ」WorldCatに下記情報があった。
著者のRichard Tauberはオーストリアのテノール歌手,Mischa Spolianskyはロシア人の作曲家。Mischa Spolianskyがピアノを弾き,Felix Mendelssohn Bartholdy作曲の"Heidenröslein"(野ばら)をドイツ民謡集の一曲として,1926-7年にSPに吹き込んだことが記されている。同じコンビによるウェルナーの野ばらはYoutubeで聴くことができるが***,残念ながらMendelssohnの曲は見当たらない。このODEONのSPがみつかれば真相に少し近づけるのだけれど。ちらしらしきものがあるが,解像度が低く判読できない。
*** https://www.youtube.com/watch?v=AsejCWrDug4
ただし,この検索結果には疑問もある。Youtubeに”Richard Tauber Sings Deutsches Volkslied & Seven Songs from Friml-Lehar ”があり****,その曲目リストに「S11.Heidenroslein''Sah' Ein Knab Ein Roslein Steh'n'', & S12.Der Jagerabscheid''Wer Hat Dich,Du Schoner Wald''」とある。S12はグリークラブにも収録されているメンデルスゾーンの「狩人の別れ」であり,先のSPはもしかするとウェルナーの「野ばら」(S11)とメンデルスゾーンの「狩人の別れ」(S12)がカップリングされたものの省略表記かもしれない。
**** https://www.youtube.com/watch?v=btVP7bKq4Y8&t=2150s
ということで,なかなかはっきりしない。林先生が手がけられて判明しなかったぐらいの難問なのだから。解明の手がかりになるかもしれないので,この「野ばら」の古い記録に対して,いくつか疑問点を記しておく。
「関西学院グリークラブ部史」(いわゆる40年史)には,大正12年(1923年)に「The Two Roses (Werner)」を歌ったと記録されている。Liderscatzには「Die drei Röslein (2つのバラ)」という曲が収録されているが,作曲はジルヒャーでウェルナーではない。これは単なる写し間違いであろうか? もしかすると「The Rose」が2曲入った楽譜の演奏であり,もう一曲はメンデルスゾーン作の可能性はないだろうか? タイトルは英語で楽譜が英語だった可能性もあるが,この頃の記録は曲名を日本語や英語でかなり自由に書いているので,どたらかはっきりしない。録音等に使われているのは「関西学院グリークラブ訳」とされた日本語で,他の訳詞とかけ離れたところははないが,何語から訳されたのだろうか?
また,慶應ワグネルが大正11年(1922年)にメンデルスゾーン作曲の「ドイツ民謡」を歌っているが,これも何を歌ったのだろうか? メンデルスゾーンのドイツ民謡としては先の「Der Jagerabscheid」や「O Taler weit,o Hohen」が含まれることが多いが,このときはどうだったのか?
恐らく,世界で唯一この楽譜を伝えてきた関西学院関係者には,U Bojの謎がほぼ解明されたのだから,ぜひこの謎に取り組んで頂きたいものである。
4. Ständchen (小夜曲)
作詩 ヴォルフ
作曲 マルシュネル
作曲したマルシュネル(Adolf Eduard Marschner(1819-1853))はライプツィヒ大学で音楽を学んだロマン派の作曲家で,ピアノ伴奏付きの声楽曲の他に男声合唱曲を何曲か作った。StändchenはGute Nachtとしても知られ,Liederschatzにも掲載されていて,ドイツでもよく歌われた。
日本では雑誌「音楽界」の明治45年(1912年)2月号に,妹尾幸次郎訳で「さよ歌」(少夜歌)として掲載されたのが初出と思われる。
日本語訳の楽譜も「さよ歌」以外にも,「小夜の曲」,「閨窓夜曲」(セレナーデ)など多様な版がある。なお,Franz Ottoの Ständchenも歌われたが歌詞が異なる(作詞がRobert Reinick)。譜例は矢田部勁吉訳の「小夜の曲」。矢田部は大正から昭和にかけてのバス歌手で,「ヴォルガの舟唄」などロシア民謡の訳や編曲も手掛けた。
日本でも古くから楽譜があるので,ドイツ語や日本語で数え切れないぐらい歌われたはずだが,そのゆえに記録にはなかなか残らない。歌われた記録が確実なのは大正13年(1924年)の慶應ワグネルで,「Serenade (Marshner)」となっており,また大正5年(1916年)の「男声四部合唱 セレナード」もその可能性がある。続いて関西学院の昭和5年(1930年)で「セレナーデ (A. E. Marshner)」。他の演奏曲から類推すると,大塚淳の「男声四重唱曲集」による演奏と思われる。
(2018/8/28追記)
この曲および作曲者の Marschnerについては情報が殆どないのだど,AmarcordのCD「Rastlose Liebe」にこの曲が解説とともに収録されている。
それによると,彼はグリークラブアルバムの「鉄道開通」の作曲者Heinrich August Marschnerの甥である。生年は1919年と1910年との2説あるが,大学入学は1831年で一致していることから,1910年生まれが正しそう。当時はドイツ領だったポーランドGrünberg(グリュンベルク,現在はポーランド語でZielona Góra(ジェロナ・グラ))に生まれ,10歳からピアノを習ったが,15歳で自ら生活費を稼ぐ必要があった。1831年にライプツィヒ大学に法学生として入学したが音楽に転向,美声とピアノ教師としてならし,若くして亡くなるまでライプツィヒで過ごした。声楽曲,ピアノ曲,叔父の作品の編曲など30曲程度の作品があった。
作詩のヴォルフはOskar Ludwig Bernhard Wolff (1799-1851),著名な作家・教育家で即興演奏も得意としたらしい。
5. Lore-Ley (ローレライ)
作詩 ハイネ
作曲 ジルヘル
編曲 福永陽一郎
ローレライはライン川にそびえる岩山で観光名所として知られる*。歌声に惹かれると難破するという伝説からすると,昔は難所だったのだろう。wikiによるとローレライという語は,古ドイツ語の "luen" (見る、潜む)と "ley" (岩)に由来している。また,長田暁二の「世界と日本の愛唱歌・抒情歌事典」によれば,この伝説のルーツは後期ロマン派の詩人クレメンス・フォン・ブレンターノの詩「Lore Lay Zauberin (魔女のロイ・ライ)」。詩人ハインリッヒ・ハイネはこの伝説に基づきローレライの詩を作り,1827年に歌集「歌の本」で発表した。
* 特にどうということもない岩山で,見てがっかりする人も多い。ちなみに旅行者に知られる「世界三大がっかり」とは「シンガポールのマーライオン」「デンマークの人魚姫」「エジプトのスフィンクス」。どれも「思っていたより小さい」から。
リストも曲をつけたが,1838年に作曲されたジルヒャーのこの曲が最も知られ歌われている。グリークラブアルバムにはLiederschatzの楽譜がほぼそのまま載せられている。「編曲:福永陽一郎」とあるが調や音は触っておらず,装飾音符や表情記号を少し変えていることを指すと思われる。
Volkslieder gesammelt und für vier Männerstimmen gesetzt von Friedrich Silcher (1902)より
ジルヒャーの曲や編曲は,Liederschatzに多く納められており,日本の小学唱歌集にも何曲か取り入れられた。日本でも旋律は古くから知られ,明治21年(1888年)に発行された「明治唱歌」には,東京音楽学校の教授だった鳥居忱が作歌した「二月の海路」として,また鉄道唱歌などを作詞した東京高等師範学校教授の大和田建樹(おおわだ たけき)の作歌で「柳桜」として,この曲が収められている**。また,明治25年(1892年)には鳥居が作歌した「領巾摩嶺(ひれふるみね)」が同校の演奏会で合唱されている。広く歌われるようになったのは「女聲唱歌」に原詩に則した近藤朔風の名訳で「ローレライ」「なじかは知らねど心わびて」とされてからであろう。
** http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/meijishoka1/meijishoka1.html
東京大学教授であるヘルマン・ゴチェフスキは,「なぜネーゲリやズィルヒャー(注:ジルヒャー)のような『二流』の作曲家が男性合唱クラブの代表的な作曲家となりえたのかといえば,それは作品の数と種類に原因がある。ネーゲリやズィルヒャーは男声合唱団の役割を最初から芸術の進展というよりも社会人教育においた上に,庶民の心を第一とし,歌いやすさと聴きやすさを優先していた。」と述べている。そのゆえに「ズィルヒャーの四声男声合唱団のための民謡の編曲が男性合唱クラブのレパートリーを代表する作品となった」としており***,ドイツ人にとって「歌いやすく聞きやすい」曲であり,西洋音楽を学び始めた明治期の日本人にとっても,とっつきやすい曲であったといえる。
*** 安田寛らとの共著「仰げば尊し 幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡」の第11章「『小学唱歌集』の起源はプロイセンの教育用民謡か」で述べている。この章には日本人にわかりにくい19世紀ドイツの男声合唱事情が詳述されていて面白い。ローレライから少し離れるけど,要約しておく。
ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの地域文化への影響の違いについて。カトリック地域(主にオーストリア,南ドイツの大部分,西ドイツの一部)ではラテン語の国際的な宗教文化が中世文化を受け継いだが,教会は民族文化にあまり介入せず,地域性の高い民俗芸能が伝承され独自性を保つことができた。対して16世紀の宗教改革後にプロテスタントは宗教文化を日常生活に浸透させることに努力し,そのため聖書や礼拝を母国語化し,世俗的な民族音楽の歌詞を宗教的な歌詞と入れ替えて教会でも家庭でも学校でも歌わせた(今日のドイツの讃美歌)。讃美歌の普及で民俗芸能はほとんどなくなり,民衆の文化活動は教会が支配した。この母国語の讃美歌は印刷技術とともにドイツ語圏に広がり,ドイツ語文化の標準化と発展を促した。そのため,カトリックからの改宗も少なくなかった。
17-8世紀にヨーロッパの権力者の影響で国際共用語がラテン語からフランス語へと替わり,フランスが確立していくに連れてアイデンティティの危機に陥ったドイツ語圏でドイツという国への愛国心が芽生えた。それは「まだ存在していない遠い未来の国家への理想主義的な思想」であり,実現のためには国民の意識と意志を興す必要があり,歌が重要な手段となった。民族を動員する闘争歌と,風俗と習慣を規定するために理想化・標準化されたドイツ民謡は,合唱に新しい意味を与えた。男性合唱クラブのレパートリーの大半は宗教音楽だったが,飲酒歌や民謡も重要なレパートリーとなった。ここで民謡とは伝統的なものだけではなく,恋愛・友愛・送別など世俗的な新作を含み,素人でも歌える楽しげなものだった。ここにヴェーバー,シューベルト,メンデルスゾーンらが曲を提供した。16世紀プロテスタントの讃美歌が地域を超えてドイツ民族という意識を起こしたように,宗派を超えて民族感を起こす力がある民謡は19世紀の讃美歌として機能した。
大塚淳の「男声四重唱曲集」にも収められており,「菩提樹を科の木とするべし」とした飯田忠純は曲名を「ローラライ」と独特の表記をしている。「Lore-Ley”の發音に就て 從來『ローレライ』と發音せらるれども『レ』にては鋭きに過ぐ。萬國音標文字にてはlo:ralaiと示さるるものにして『ローラライ』と發音するをよしとす,初めのラは輕く曖昧に唱ふべし。この『ラ』を明瞭にいふべからず。」と注を付けている。
飯田の思いも虚しく,リーダーシャッツ由来の曲に関しては,「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」など近藤朔風が圧勝し100年以上たっても彼の訳詞で歌われている。「女聲唱歌」からいかに広がり定着したかは,幾つか研究もある(例えば,坂本麻美子「音楽教育と近藤朔風の訳詞曲 -没後100年に考える-」など)が,興味深いテーマである。
男声合唱の演奏記録として,1900年代初期に慶應や早稲田の記録がある(早稲田は三声と記されていて「女聲唱歌」による演奏と思われる)。この曲も愛唱歌的に多く歌われたと思われる。「八月十五日の青春 -大阪高等学校生(旧制)の手記-」****には,戦前にドイツ語教師とともに「菩提樹」「ローレライ」「野薔薇」をドイツ語で歌い暗唱したことが記されている(「それ青春の『二春秋』」に記述されている)。これは合唱ではなさそうだけれど。
**** この本には多田武彦も寄稿している。また,当時学生だった東京混声合唱団の田中信昭やテノール歌手の片岡通昭が歌劇「マノン・レスコー」を演じたと記されている。
6. Abschied (別れ)
作詩 シュヴァーベン民謡
編曲 ジルヘル
XII Volkslieder, gesammelt und für vier Männerstimmen gesetzt von Fr. Silcher. II. Heft. 2. Aufl. Op. 20 [recte: op. 8]. Tübingen: Verlag der H. Laupp'schen Buchhandlung o. J. [1. Aufl. 1827], S. 16 (Nr. 12).
シュヴァーベン地方の民謡が原曲で,元々の歌詞は現在の1番のみだったが,ジルヒャーが採譜・編曲する際,友人であるHeinrich Wagnerに2番と3番の作詞を依頼し1827年に発表した。図に示すようにテノール向け単声楽譜,いつ男声四部に編曲されたのかは不明。下記はローレライと同じく1902年の曲集に載っている男声四部合唱譜。
Volkslieder gesammelt und für vier Männerstimmen gesetzt von Friedrich Silcher (1902)より
シュヴァーベン地方はドイツ南西部にありフランス北東部と国境を接する。ハイデガー,ヘルダーリン,ヘーゲルなどドイツ精神を体現するような人々の出身地。この地方の言葉は現在完了形を多用する特徴があり,また,独特のイントネーション「ゆっくりと各音節を比較的はっきりと発音し,文の最後のあたりで特にゆっくりと引き伸ばしトーンが上がる(仲正昌樹「哲学は何のために」所収「『存在』あるいは厳密性という病」より)」を持っている。その地方の人が歌うと,そのような味わいが立ち上がるのだろう。
歌詞は,兵士が出征する際の別れの歌とも,若者が修行のために恋人と別れて故郷をあとに旅立つ時の歌とも言われる。ドイツ語サイトによれば,まずは兵士に,次は旅人に広く歌われるようになり,19世紀中にはドイツ国境を超えて広がり「国際的な」歌になった,とある。
この歌の日本語訳は何種類かあり,自分は「さらば さらば わが友,しばしの別れぞ いまは」という岡本敏明の訳で習い歌った。岡本は玉川学園で合唱指導を行い,東京放送合唱団の指揮や国立音楽大学の設立に関わった音楽家で,音楽教科書・音楽学習の指導要領の作成にも携わった。1952年(昭和27年)に出た「コーラスブック」に「別離の歌」としてこの訳の混声四部合唱曲が載っている。あとがきに「『岡本流の合唱曲集をまとめてみては』との音楽之友社からの話があったので,早速まとめたのがこの本」とあるので,出版されたのはこれが初めてのようである。曲について「すべて実験ずみで,歌いやすく」としており,自信を持って自分の訳詞を教科書に入れたのであろう。
世間的には夏目利江(りえ)の訳「さらばさらば,我がふるさと,ふるさと遠く 旅ゆく」が有名で多く使用されている。夏目利江は「日本の作曲家: 近現代音楽人名事典」によれば,作曲家として著名な柴田南雄のペンネーム。柴田は戦前にクラブ活動費を稼ぐため,大久保正の名前で作曲や編曲を行い,東京音楽書院の内藤健三(諸園凉子)に買ってもらっており,夏目利江の名前で訳詞も提供していたのだろう。シュトゥンツ「自由の歌」シューベルト「墓と月」クロイツアー「羊飼の日曜日」なども訳しており,これらの曲とともに戦前の曲集に収録されていた可能性がある。
現在確認できている最古の版は,1951年(昭和26年)に東京音楽書院からでた「ポピュラー女聲合唱曲集1」収録の「別れ」。女声三部合唱に編曲されていて,編曲の南辰雄も前掲書によれば柴田のペンネーム。
日本語訳の初出は1901年(明治34年)に出た山田源一郎編「女學唱歌 第二集」に収められた「やさしの山吹」であろう。音を三度下げ女声三部合唱に編曲されていて,作歌は江戸末期から明治の国文学者であった三輪義方。「きよき水に,枝ひぢて。 花咲く,やまぶき,あれ。」という訳は格調高く味わい深い。
男声合唱に訳詞がついているものは,堀内敬三が「別れ」と題し「遠く遠く 家をあとに 淋しき旅に立つわれ」があるが,初出年不明。また,最初から男声合唱に歌詞が付けられたのかも不明。
その他,1951年に清水脩はペンネームの龍田和夫により「別れ」と題し,混声四部合唱曲に「愛し君よ いざさらば さらばと別れゆけど」と訳をつけている。
この曲の演奏記録はなかなか見つからない。別名をムシデンとドイツ語歌詞の冒頭で呼ばれており,比較的単純な曲なので記録に残りにくい。合唱団以外にもドイツ語で歌われていたと思われる。
(2017/4/30追記)
1924年(大正13年)刊の井上武士編「四部合唱曲集」を調べていたら,「男聲合唱の部」に「初鶯」として「別れ」の男声四部合唱譜が掲載されていた。編曲が「やさしの山吹」と似ている。
7. Freie Kunst (自由の歌)
作詩 ウーラント
作曲 シュトウンツ
ここまでのドイツ語曲は合唱をしない人にも知られていた曲がほとんどだったが,ここからしばらく合唱人以外には知られていない曲が続く。
この勇ましい曲を作ったシュトゥンツとはJoseph Hartmann Stuntz (1792-1859)のことで,スイスのArlesheim(アーレスハイム)に生まれた作曲家にして,合唱の指揮者・指導者を務めた人。ウィーンで音楽を勉強し,ミラノやベニスの歌劇場向けにオペラを何曲か作った後,ミュンヘンに落ち着いた。ちなみにウィーン時代の先生は,舞台やオペラの「アマデウス」でモーツアルト暗殺の黒幕とされたアントニオ・サリエリ。1826年には宮廷の首席音楽監督となり,オペラや宗教曲を作曲しそこそこ成功した。本領はポピュラーソングで発揮され,彼が活動した頃はドイツ男声合唱の黄金期とも言える時期で,Mendelsohn,Kreutzer,Silcher,Zöllnerなどとともに活躍した。
作詞のウーラントとはJohan Ludwig Uhland (1787-1862)のことで,シュヴァーベン地方の出身。詩人であると同時に法学者・政治学者でもあった多才な人で,様々な分野に関心を示し,ドイツの古い民謡・伝説・英雄叙事詩を発掘するとともに,自らもロマン主義的な抒情詩や「市民的世界への内的・精神的推移を表した」詩をよんだ。Freie Kunstは彼の最も有名な詩の一つで,1813年に出版されたDeutscher Dichterwald (ドイツの詩の森)に収録された(図はドイツ語版wikiより)。
内容は,ドイツ人に対する特別な贈り物としての詩を賛美し,古い伝統や偽科学に縛られることのないロマン主義における自由な芸術を歌い上げているらしい。Stuntz以外に Felix Mendelssohn-Bartholdy , Christian Schulz , Friedrich Schneiderらが曲をつけた。最初の「Singe, wem Gesang gegeben」,つまり「歌え,歌(の才能)を与えられた者よ」は特に有名で,ドイツでよく使われるフレーズになった。
Stuntz がこの曲をいつ何のために作ったのかははっきりしない。作品リストには同曲に6種類の楽譜が上げられているが,LiederschatzやLiederbuchのような曲集である。彼名義での単独の合唱曲集は出版されなかったのかもしれない。別の資料でこの曲は「Tübinger Liedertafelの手稿譜」とされており,これが後に曲集に収録されたのだろう。
Liederschatz版の楽譜には,タイトルの下に「Melodie des Walhallaliedes (ヴァルハラの歌のメロディー)」と記されている。ヴァルハラとは北欧の神オーディンの戦士のための宮殿が有名だが,歌詞の内容と合わない。この場合はドイツのバイエルン州にある,ドナウ河沿いにルードヴィッヒ一世が建てた「ドイツの栄光の神堂」と呼ばれる神殿のことであろう*。この建物は1830~1842年に建てられたため,作曲されたのはその頃ではないかと思われる。実際,このメロディーにHeinrich Weismanntが詞をつけたFestmarsch (祭りの行進)という曲の楽譜に「作曲は1830年,作詞は1838年」と書かれた版があり,1830年に作曲された可能性が高い。
* Walhallaはドイツ語だが,wikiによれば元は「古ノルド語でヴァルホル(Valhöll、戦死者の館)」という意味。この神殿にはドイツ史上の有名人が祭られている。
日本でも古くから歌われていて,1905年(明治38年)に出た「教科統合 少年唱歌」の第8編に収録された「皇祖」はこの曲に大和田和樹が作歌したもので,「日向国より 波路をしのぎ」と神武天皇・神功皇后を歌っている。
1920年(大正9年)に慶應ワグネルが「自由な芸術 (シュテンツ)」として歌った記録があり,こちらはタイトルからするとドイツ語,または,きちんとした訳詞で歌われていそう。グリークラブアルバムには「旧制の第五高等学校には『フライエ・クンスト』という男声合唱団があって,この曲を団歌にしていました」と書かれている(同団は現在は混声合唱団)。日本語訳の楽譜として,夏目利江(柴田南雄)訳の「自由の歌」,内田伊左治訳の「若き日の歌」,飯田忠純訳の「詞林賦 (しりんふ)」がある(「自由な(る)芸術」というタイトルの楽譜もあったのかもしれない)。下記にまとめて譜例を示す。
右下の「酒ほがひ」は,その他のStuntzの曲として,最も古く日本に紹介されたもの。小松玉巌が1909年(明治42年)に出した「名曲新集」に載せた。「阿古屋の珠を 溶きたる酒は のこさで汲まむ」という酒飲み歌であるが,相当する合唱譜が見つけられず,Stuntzの原曲名は不明。
(2019年7月22日追記)
昭和14年(1939年)に新興音楽出版社から発行された「近衛秀麿編注 新興 合唱名曲集 秋本京静作詩」には,「うたへ若人」としてこの曲が収録されている。
この曲集は,当時よくあった女声・混声・男声合唱曲の混成曲集で,男声合唱曲と明記されているものは全28曲中8曲。この曲を含む何曲かに詳細な演奏上の注が付いているが,おそらく近衛ではなく,男声合唱団のポリヒムニア・コール等を指揮したことがある秋本によるものだろう。
なお,京大合唱団は,「京大合唱団70年史」の中で「昭和10年(1935年)12月7日の第4回定期演奏会にて,シュトゥンツ作曲『歌へ若人』を京大合唱団の団歌とした」ことを記している。曲集の出版より4年早く,独自の訳詞か,秋本訳の楽譜が出回っていたのか,定かではない。
8. Der Jäger Abschied (狩人の別れ)
作詩 アイヒエンドルフ
作曲 メンデルスゾーン
メンデルスゾーンはリーダーターフェル,つまり卓(ターフェル)を囲んで飲んだり食べたり,そして合唱をする男声合唱団のために,たくさん曲を作った。ローレライのところで引用したように,ドイツ民族としての意識が勃興し始めた頃のことである。
このメンデルスゾーンの曲はライプツィヒのリーダーターフェルに提供されたもので,1840年1月6日に完成し,元はホルンとバストロンボーンの伴奏が付いていた(下記譜例)。その後,作品50「6つの男声合唱曲集」に収録されたが,他の5曲が無伴奏だったためか,無伴奏で歌われることが多くなった。日本でも入手できるPETERS社の楽譜では伴奏も収録されているが,ad libitumと「お好みなら伴奏を付けても良いよ」という扱いになっている。Liederschatzには無伴奏で収録されている。
作詩はアイヒェンドルフ。彼の名は,男声合唱的にはフーゴ・ヴォルフの「アイヒェンドルフの詩による6つの男声合唱曲」で知られている(この曲集はヴォルフが作った混声合唱曲をマックス・レーガーが男声用に編曲したもの)。ロマン主義の詩人で,ドイツでは「森と放浪の詩人」と呼ばれているおり,ヴォルフの他にシューマンなどが曲をつけている。
「狩人の別れ」は邦訳がないので,狩人が何に対して別れを告げているのか分からない。そこでGoogle翻訳で英訳してみると(日本語訳は意味不明),まず森を主題とするロマンティックな詩である事がわかる。第1節の英訳を訳してみる(詩心がないのはご容赦下さい)。
「誰がおまえを美しき森へと ここまでの高みに作り上げたのか 私はその者(Master)を讃えよう 私の声が続く限り さようなら さようなら,美しき森よ」
つまり,「狩人の別れ」とは,「美しい森に対する別れ」である。森は中世において神秘的で無限の大自然を現す存在だったが,ここでの「狩人」は伝統的な動物や森と共生する自然の味方ではなく,近代の工業化や都市化のための兵士であり開拓者である,と解釈される。もちろん森に対するドイツ人の思いは伝統的に強く,そのためか1810年に書かれたこの詩は1837年まで公表されなかった。原詩は4つの節からなるが,曲では第3節がなく,第4節を3番の歌詞に当てている。
さて,メンデルスゾーンの合唱曲は,明治時代の「合唱曲集」にも多く収録されている。男声合唱曲は1909年の「名曲新集」にWasserfartが「船路」として紹介され,のちに近藤朔風も訳詞をつけた。同曲集にはComitatも「霊泉」と,こちらは原詩と全く異なる歌詞が作歌され,収録された。この2曲は共に昭和初期の合唱競演会(コンクール)の課題曲に採用されたため,演奏の記録も多い。「狩人の別れ」も比較的多く歌われているので,合わせてまとめていく。
この図は戦前の記録にみる,メンデルスゾーンの男声合唱曲の演奏頻度を示す。題名から見てこの曲に間違いないだろうと思うものをプロットしてある。メンデルスゾーンの曲とされているが題名からどの曲か同定しきれないものは「その他」にプロットした。Comitatの「霊泉」のように,全く違う歌詞と題名で歌われると楽譜がない限りお手上げである。なお,「野ばらの花」はメンデルスゾーンの作と確定していないが,ここでは戦前を中心に歌われた名曲として図にプロットした。
曲名は初出の時のものを用いた。調査範囲での初出であるため,本邦初演かどうかははっきりしない。ちなみに,Beati Mortuiは「関西学院グリークラブ」の40年史・80年史で「1935年(昭和10年)に新月会が本邦初演した」とされているが,1929年(昭和4年)に同志社グリークラブが演奏しているので,残念ながらこの記述は正しくない。同志社の演奏も,本邦初演かどうかは分からないが,現時点の調査では最初の演奏である。
このグラフからメンデルスゾーンの男声合唱曲が戦前から広く歌われていることが分かる。「船路」は1933年(昭和8年),「霊泉」はその翌年の合唱競演会の課題曲であるため,その年の演奏回数が多い。「狩人の別れ」は初出が1923年(大正12年)と比較的早くから歌われた。日本語訳の楽譜は少なくとも2種類あり,杉田健訳のものが「狩人の別れ」,飯田忠純訳のものが「猟兵の別れ」となっている。杉田健がどういう人かは分からないが,昭和初期の映画主題歌に訳詞を提供しているので,大正から昭和にかけての訳詞家のようである。飯田は既出で大塚淳編「男声四重唱曲集」の訳詞を担当した。以上から類推すると,各々の演奏に用いられた訳は次の通り。1923年頃に杉田の訳した楽譜がでたのかもしれない。
戦前に7回の演奏記録を確認した。他の曲の演奏回数と合わせて下記に示す。多いのは課題曲になった2曲だが,「狩人の別れ」「トルコの乾杯の歌」「うたかたに寄せて」も人気である。「雲雀」は混声合唱曲だが男声で歌われた例も多い。
以上でこの項は終わりだが,この機会にメンデルスゾーンの男声合唱曲(集)をリストアップしてみた。手元の楽譜・LP・CD情報にネット情報も加えたもので,裏が取れていないものも含む。また,抜けもあるかもしれないので,あくまで参考レベル。
9. In Still Nacht (静かな夜)
作詩 シュペー
作曲 ブラームス
編曲 ヘーガー
「グリークラブアルバム」ドイツ語曲の最後は,大御所ブラームス(1830-1897)の混声合唱曲を,男声合唱曲を多数作ったフリードリヒ・ヘーガー(1841-1927)が編曲したもの。
ブラームスは合唱曲を多く作った人で,グラモフォンから1980年台に全8巻LP 62枚の全集が出た際,無伴奏混声合唱曲(LP 6枚)とオーケストラ付合唱曲(LP 4枚)の巻が作られた(この全集は後にCD化された)。LPの枚数比,つまりLPの収録時間はほぼ同じだからこの比を「作曲した曲の合計演奏時間分野ごとの比率」と考えれば,11/62で18%が合唱曲となる。その他,「愛の歌」「新・愛の歌」など合唱で歌われることも多い重唱曲の巻(LP 5枚)があり*,これを合唱に含めると1/4が合唱作品となる。
しかし,彼自身が男声合唱曲として作った曲は少なく,無伴奏では「4声の男声合唱のための5つの歌」op.41,オーケストラ伴奏付きで「リナルド」op.50,「アルト・ラブソディ」op.53ぐらいしかない。男声合唱に縁がなかった訳ではなく,実は彼が最初に指揮したのは男声合唱団で,14歳の時にヴィンゼンのリーダーターフェルの指揮者に就任している。この時の経験が合唱への興味を高めたと考えられ,後にウィーンのジングアカデミーやハンブルク女声合唱団を指揮した。
ヴィンゼンの合唱団のためには何曲か男声合唱曲を作り,ハンブルクに戻った1851年頃に作曲した「男声合唱のための三つの歌」には「ヴィンゼンとの別れ」という曲が含まれていたことが分かっているが,これらの曲はブラームスが回収し破棄してしまった。自己批判したためらしいが,惜しいことである。
合唱指揮経験があるだけでなく,ポリフォニーなど古い時代の音楽にも造詣がある彼の作品は,「保守主義者」「形式主義者」とレッテルを貼られながらも,古典的で端正な味わいがある。混声だからと手を出さないのはもったいないことで,畑中良輔や北村協一により「運命の歌(op.54)」「勝利の歌(op.55)」「哀悼歌(op.82)」「ジプシーの歌(op.103)」などが男声合唱向けに編曲された。
* 音楽之友社から出ていた「ブラームス合唱曲集」では第2巻を「愛の歌」「新・愛の歌」にあてていた。
「静かな夜」は,WoO-34「14のドイツ民謡」の8曲目 にある無伴奏混声合唱曲で,ウィーンで1863年11月15日に初演された。1894年初版のWoO-33「49のドイツ民謡」の42曲めでもあるが,こちらはピアノ伴奏付きの独唱曲。グリークラブアルバムではIn still Nachtとされているが,In stiller Nachtである。
原曲は,作曲者不明の4/6拍子のメロディーにシュペー(Friedrich Spee (1591–1635))が15節からなる詩をつけたもの(下図)。シュペーはイエズス会の司祭で,理論家であり詩も書いた。この詩のタイトルは「Trauergesang von der Not Christi am Ölberg in dem Garten」で,キリストのオリーブ山での説教を扱ったものらしい。
この宗教的な詩を現在の形に編集したのはFrederick William Arnold (1810-1864) だろうとされている。冒頭部などシュペーのものと単語が違うためアクセントが変わり,それに合わせて拍が変更されている。結果として,歌詞が自然に流れていく。また,キリストの存在は詩から表面的には消されている。Google英訳を元に訳した歌詞を示す。全体に叙情的な詩だが,確かに神秘的で宗教的な香りが漂う。
静かな夜
最初の見張りが立つ時に
嘆く声が聞こえてきた
夜の風は
甘くやさしく
私の耳にその響きを伝えた
深い悩みと
悲しみが響き
私の心は溶けて流れた
小さな花に
きれいな涙を
私は注いだ