黎明期の日本植物研究
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1996Koishikawa300/05/0500.html 【黎明期の日本植物研究】より
大場秀章
自然史は、地球の表層での岩石、地層、地形、生物などの多様性を記述する。生物では、進化の道筋を解明し、分類・体系化する。ギリシア時代に遡る古い歴史をもつが、ヨーロッパの大航海時代がその発展を促す重要な契機となった。テラ・インコグニータ(未知なる大地)からもたらされた新しい生物には、既存の体系をはみ出すものが多かった。
植物でいえば、それまでのヨーロッパ人の知識はヨーロッパに野生する千数百種の植物に限られていた。その数は、特別な分類体系(システム)など考えなくても、独りの人間が充分に記憶し操作できる数である。そのうえ、本草学者といわれた当時の植物学者は、自己完結的な方式でそれらを記述した。未知なる植物が発見されても、それを取り込み、位置付ける一種のゆとりが彼らのシステムにはなかった。
こうした一種の自己完結性を脱して、存在し得るすべての植物に当てはまる分類体系を思考するためには、対象が人間が記憶できないほどの数になることに意味があった。あたかも一つのファイルやフロッピーで収容できない多量の情報を私たちが扱うように、ヒエラルキー構造をつくり、グルーピングをするよりほかに整理できないほどの、種数の存在こそが、ユニヴァーサルなシステムを生む必要条件であった。
スウェーデンに生まれたリンネ(Carl Lineaeus)は、熱帯アジアやアフリカから多量の植物がもたらされるオランダで研究中、上記のことを痛感した。その結果、検索を容易にするキーワードに当たる分類体系上の指標形質、およびファイル名の汎用化に通じる学名の重要性を見出し、雄しべと雌しべの数の違いを指標とする二四綱分類体系と二名法という学名表記を提唱した。リンネは生物学の父と呼ばれる。未知な生物にも適用可能な生物の分類体系を提唱した意義が評価されたためであろう。
リンネは自分の分類体系が自分が知らない未知な植物にも適用可能であることを確信していた。また、世界の植物を自らが提唱した二四綱分類体系に位置づけ、分類することを望んだ。弟子たちを植物学的には未知の地域へと派遣したのはその現れでもある。
ケンペル、ツュンベルク、シーボルト
ユーラシア大陸の東端に位置する日本は、気候的には亜熱帯から亜北極地域にまたがっている。東京周辺から西日本は、照葉樹林と呼ばれる常緑の森林があり、東京以北の本州と北海道には落葉広葉樹林があるなど変化に富む。南端部や高山を除くと、日本の植物相は、氷河期の厳しい影響を受けたアルプス以北のヨーロッ。ハの植物相や北アメリカ東部地域の植物相よりもはるかに多様性が高い。
日本植物の研究は明治以前に開始されている。分類体系の上に位置付け学名を与えることもそうであった。これを行ったのは日本人ではなかった。ケンペル、ツユンベルク、シーボルトが、鎖国下にもかからわず、江戸時代に入国しこれを行ったことは有名である。
来日は、ケンペルが元禄三(一六九〇)年、ツュンベルクは安永四(一七七五)年、シーボルトは文政六(一八二三)年であった。ケンペルとツュンベルクとの間には八五年、ツュンベルクとシーボルトの間には約五〇年の歳月がはさまれている。時代の進歩の速度を加味して考えるなら、彼らはほぼ等間隔を置いて来日したとみてよいと思う。
植物学史の点でみると、ケンペルは先に述べた植物分類学の祖、リンネが『植物の種』を表わす一七五三年以前の来日である。ツュンベルクはリンネの高弟であった。シーボルトの来日はツュンベルクのもたらした日本植物の資料がヨーロッパでほとんど研究し尽くされた後であり、日本の植物の新しい資料の入手がヨーロッパで渇望されていた。
ツュンベルクとシーボルトの時代の間には植物学のめざましい発展があった。分類学はリンネに代表される人為分類の時代から、ド・カンドルの主張などで広まった自然分類の時代へと移っていた。また、分類学の中心はリンネ、ツュンベルクのいた北ヨーロッパのウプサラ大学から、パリやジュネーブなどの中部ヨーロッパに移っていた。顕微鏡の発達によって微小な構造も調べることが可能となったばかりか、石版印刷の技術が進歩し、詳細な図が印刷できるようになった。植物園と栽培の施設が整い、生きた植物の栽培も容易になったのである。
三人の学者のうちツュンベルクは植物学に最も造詣が深かった。ケンペルは探険家であり、地理学にすぐれていた。シーボルトは日本の植物に愛着を寄せてはいたが、植物学の専門家として傑出した人物とはいえなかった。ケンペルとツュンベルクは日本で採集した植物資料にもとづいて図譜を作成し、日本の植物を記述した。図に示すのは、ケンペルの『廻国奇観』と親称される『Amoenitaum exoticarum』に収められた『日本植物』(Plantarum japonicarum)(一七一二年刊)のあるページだが、ここにあるように記述といっても植物自体の観察はきわめてわずかである。他の記述でも大差はない。花の細部にわたる観察はほとんど行われていない。これはケンペルが植物学者ではない以上やむをえないことであったろう。
大和本草での益軒の観察レベルもケンペルに近いものである。益軒も花などの詳しい記述はしていない。解剖技術を習熟していなかったのだろう。一八世紀初頭とはいえすでにヨーロッパの本草家たちは植物に詳細な記載を与えこれを記述していた(Ohba1993)。
Amoenitaum Exoticarum Politico-physico-medicarum,
1 E.Kaempfer著, Amoenitaum Exoticarum Politico-physico-medicarum,
1712年『廻国奇観』と呼ばれる。本書はその第五部で日本の植物を記述する
イチョウの図
同上イチョウの図
ツュンベルク
ツュンベルク(Carl Peter Thunberg)は、一七四三年一一月一一日、スウェーデンに生まれた。彼はウプサラ大学のリンネのもとで医学、植物学などを学び、リンネの最後のそして最も成功した学生のひとりとなった。ツュンベルクは、三人のオランダ人植物愛好家から、希望峰と日本の植物を研究する機会を提供された。つまり、ツュンベルクがオランダ東インド会社に医者として勤務し、日本に渡ることであった。当時のヨーロッパからの外国旅行といえばそれは船によるものだったが、日本はヨーロッ。ハから最も遠い国であり、しかも江戸幕府は、長崎における中国人とオランダ人を除いた、他のすべての外国人に対して門戸を閉ざした。
ツュンベルクは一七七五年八月に長崎に到着し、一七七六年一〇月にアムステルダムに戻った。万難を辞さずの来日であったが、滞在中に訪ねることができたのは、長崎を中心とした九州と江戸に至る本州南部だけだった。少しでも数多くの植物を得るために、出島で飼育する家畜用に毎朝運ばれてくる飼葉を検分して、標本用に採取したと、旅行記に書いている。
ツュンベルクは、日本の植物と希望峰の植物を同時並行的に研究し、多数の本と論文を発表した。『フロラ・ヤポニカ』(Flora Japonica 日本植物誌)は、彼の最高の研究成果であり、日本の植物を集大成した最初の著作でもある。その中で八一二種の植物が日本に産することを報告している。その数は屋久島以北の日本に産する全種の二二%に当たる。
ツユンベルクは自分の採集品を標本として保存するだけでなく、これを図化した。標本と図、さらにはケンペルの残した資料をもとに、日本の植物を研究し、同時にヨーロッパでの日本植物の研究の歴史を正確に跡付けたのである。彼の『フロラ・ヤポニカ』はこうした成果をもとに一七九四年にライプチッヒで出版された。後の日本植物研究者はこのツュンベルクの著作を出発点とすればよいほど、これはすぐれた研究であった。しかもその素材となった標本と図譜がすべて現存しており、その後の日本植物の研究者は多大の恩恵をこうむっている。
ツュンベルクの標本はスウェーデンのウプサラ大学に保管されている。シーボルトの標本の多くはオランダのライデンにある王立植物標本館にあるが、一部はセントペテルブルクやミュンヘン大学にもある。東京大学にも彼の二度目の来日時に採集された標本がある。これはセントペテルブルクのニロフ植物研究所から交換によって送られたものである。
日本の温帯植物は、ツュンベルクも若干記載したが、その本格的研究は、幕府が下田(本州中部太平洋側)と函館(北海道)の港を開港した後からである。ここを足場に日本の温帯植物相を精力的に研究したのは、後に述べるハーバード大学のグレー(Asa Gray)とロシア科学アカデミーのマキシモヴィッチ(C.J.Maximowicz)であった。
温帯植物の研究が開始された直後、日本は明治維新を迎え、日本の植物の研究はやがて日本人研究者へと引き継がれ、初代東京大学教授矢田部良吉へとたどり着くわけだが、その前にツュンベルクと同様、東オランダ会社に医官として来日したシーボルトにふれておきたい。
ツュンベルク
ツュンベルク(C.P.Thunberg,1743-1828)
ツュンベルク江戸参府順路図
ツュンベルク江戸参府順路図
拡大画像
ツュンベルクの胸像と採集標本
ツュンベルクの胸像と採集標本(ウプサラ大学標本室)
Flora Japonica,
C.P.Thunberg著,Flora Japonica, 1784年
日本産植物を網羅した最初の日本植物誌 ツュンベルクの墓
ツュンベルクの墓(ウプサラ)
シーボルト
経済的な余裕と余暇に支えられた一九世紀ヨーロッパでは、シノワズリーやジャポニスムが庭園や園芸趣味を含むいろいろな事物に及んだ。庭園や園芸趣味は多様な植物があってこそ発展するものである。もともと植物の多様性に欠けるヨーロッパの人々は当然外地の植物に期待した。多様さでは熱帯多雨地帯が他に勝るが、熱帯の植物は温室でも作らぬ限りヨーロッパでは栽培ができない。その点、温帯である日本の植物は露地栽培ができ、しかもケンペルやツュンベルクは日本に多様な植物があることを明らかにしていた。
しかし、ケンペルもツュンベルクも、生きた植物をヨーロッパに多数持ち帰ることができなかった。熱帯圏を通る長い航海が植物を枯死させてしまったのである。
シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は日本の植物をヨーロッパの庭園に導入するという目的を合わせもって来日し、多数の日本の植物をヨーロッパの庭園に導入することと、日本外での日本植物の研究に道を拓くことに成功した。
一七九六年にミュンヘン近郊のヴュルツブルグの名門に生まれたシーボルトは、二六歳でオランダの東インド会社に勤務する外科軍医少佐になった。一八二三年八月一一日に長崎港に着き、一八二九年一二月三〇日に離日するまで、日本のあらゆる事物に関心を寄せた。
ツュンベルクよりもかなり自由に長崎に滞在し、医学上の弟子を通じ植物等を手にした。滞在四年目に巡ってきた江戸参府の旅行で水谷豊文など多くの学者と出会い、貴重な資料を入手した。バタヴィア政府の指示により帰国の準備中にシーボルト事件が起こり、永久国外追放の判決を受け帰国した。彼のバタヴィア政府宛の報告によれば、生きた植物二、〇〇〇と押し葉標本一二、〇〇〇点、その他多数の動物標本を収集し持ち帰ったとある。
帰国後のシーボルトの半生は日本でのコレクションの研究と日本についての専門家、ロビーイストとして活躍し、一八六六年一〇月一八日にミュンヘンで亡くなった。七〇歳であった。
シーボルトは日本の植物の研究のために標本、生きた植物、図譜、民俗資料等の文献を集めた。生きた植物はその多くを航海中に失うが、それでも二〇〇〇株近い日本植物の移出に成功した。それらはボイテンゾルフの植物園で馴化され、その後オランダに送られた。いまヨーロッパの庭園に普通に見る日本の植物にはシーボルトが移入に関与したものが多い。シーボルトはミュンヘン大学のツッカリーニ教授(Joseph Gerhard Zuccarini1797-1848)を共同研究者に迎え、彼らの『フロラ・ヤポニカ』(日本植物誌)を刊行する。
シーボルト
シーボルト(P.F.von Siebold,1796-1866)
シーボルト標本
ロシアのコマロフ植物研究所に保管される
シーボルト標本のひとつ
キランソウ Ajuga Decumbens(シソ科) シーボルト採集標本
シーボルト採集標本
テイカカズラTrachelospermum Asiaticum
(キョウチクトウ科)
これはシーボルトが日本人本草学者より入手した標本
この標本はシーボルトの二度目の来日時に採集されたもので、ロシアのコマロフ植物研究所から交換により入手した
ホウチャクソウ
ホウチャクソウDisporum Sessile
ジャケツイバラ
ジャケツイバラCaesalpinia Decapetala var.japonica
サンシチ
サンシチGynura Japonica モミジハグマ
モミジハグマAinsliaea Acerifolia
シーボルトが日本で描かせた図
シーボルトとツッカリーニによって新属を含む多数の種が記載され、東京以西の植物相の概要がほぼ明らかにされることになった。幕末から明治初年にかけて、先に述べた函館を基地にしたロシアのマキシモヴィッチとペリー提督の使節の採集品などを基礎にアメリカのグレーの他、明治政府が設けた横須賀の官営工場の医者サヴァチェ(P.A.L.Savatier)や宣教師フォーリー(U.J.Faurie)の採集品により、フランスのフランシェ(A.R.Franchet)、シーボルトやビュエルガー(F.S.Buerger)らの東インド会社の採集品により、オランダのミクエル(F.A.W.Mi-quel)が、それぞれの立場で日本植物の分類学的研究を推進していた。東京大学が創設された当時、このように植物学では日本の植物相の分類学研究が欧米諸国で盛んに行われていたのである。
ミクエル
ミクエル(F.A.W.Miquel,1811-1871)
Prolusio Florae Japonicae
F.A.W. Miquel著,Prolusio Florae Japonicae,1866-67年
日本植物誌試論。
ミクエルは日本の植物と熱帯アジアの植物との比較を行った
ペリーの植物学者たち
天保八(一八三七)年は英国においてヴィクトリア女王が即位した年であり、列国の植民地経営は最盛期を迎えるのである。鎖国によりオランダを除くヨーロッパ諸国と交流を絶ってきた日本であるが、海運の発達も手伝い、いつまでも隔絶した状況下に放ってはおかれぬようになりつつあった。
嘉永六(一八五三)年にはペリーが率いたアメリカ合衆国艦隊が江戸湾浦賀に入港し、開港を迫ったことはよく知られている。外交交渉の間、乗船していたモロー(James Mor-row)、ライト(Charles Wrilliams)、ウィリアムス(Samuel Wells Williams)は江戸湾、伊豆下田、北海道箱館(現、函館)で植物採集を行った。安政元(一八五四)年にペリーは再び浦賀にやってきた。その間琉球方面で調査をしていたのである。ペリーの遠征はアメリカ合衆国政府によって『ペリー日本遠征記』として一八五六(安政三)年に出版された。
安政元(一八五四)年一二月には、ロジャース(John Rodgers)(ヤグルマソウ属Rodger-siaは彼に献名されたものである)の率いるアメリカ合衆国北大平洋探険隊が日本にやってきた。ペリー艦隊で来日していたライトは、この艦隊に乗船し再び日本に滞在し、翌年六月までの間に鹿児島、種子島、下田、箱館などで採集を行なったのである。ペリーの報告書では簡単な報告しか書かなかったグレー教授は、一八五九(安政六)年発行のアメリカ科学芸術アカデミーの紀要六巻に七五ページにわたる長文の論文を発表した。これは、「チャールス・ライトによって日本で採集された顕花植物の新種記載[附]北アメリカおよびその他の北半球温帯地域と日本の植物相の関連についての観察」というもので、グレーがそれまで折にふれ書いてきた、北米東部と日本との植物相の類似をはじめて具体的に論じた画期的な論文であった。ハーバード大学にあったグレー教授は奇しくも同じ年に出版されたダーウィンの『種の起源』をいちはやく認め、賛意を表したアメリカ合衆国の生物学者でもあった。
グレーがその採集品を研究することになった四人のアメリカ人の訪日(すでに述べた三人のほか、北海道で採集したスモール(Johon Kunkel Small)の標本もこの時一緒に研究している)はアメリカ合衆国での日本植物の基礎となり、ハーバード大学をしてアメリカ合衆国での東アジア植物研究センターとしたのである。グレーの研究した標本は、ハーバード大学グレー植物標本館に収蔵された。なお、グレー植物標本館は同大学にあったアーノルド樹木園植物標本館など他の植物標本館と合一され、現在はハーバード大学植物標本館に包括されている。
あいつぐ来日植物学者・園芸家
ペリーが再来した安政元(一八五四)年にロシアの使節プチャーチン(E.V.Putyarin)が長崎に入港した。この艦隊が率いてきた他の軍艦は千島・樺太に赴き、乗組員の軍医ウェイリヒ(Heinrich Weyrich)は樺太で植物を採集し、長崎に帰った。彼の採集した標本はシュミット(Fridericus Schmidt)によって研究され、Polygonum weyrichii(ウラジロタデ)などが彼に献名された。ウェイリヒの標本はペテルブルクに保管されている。ダーウィンの『種の起源』出版の前年である、安政五(一八五八)年に日蘭修好通商条約、日米和親条約、日英和親条約が締結され、幕府は下田と箱館を開港した。安政六(一八五九)年には初の英国駐日公使オールコックが着任した。また、アメリカ人の宣教師ヘボンが来日し、シーボルトも再来日した他、オーストラリアの旅行家、ホジソンが来て、長崎、箱館で植物採集を行った。ホジソンが採集した植物は、王立キュー植物園園長のウィリアム・ジャクソン.フッカーが研究し、ホジソンが採集した植物のリストを発表した。ホジソンの標本は王立キュー植物園に保管されている。
万延元(一八六〇)年には英国の採集家や園芸家である、ヴェイッチ(John G.Veitch)、フォーチュン(Robert Fortune)、ウィルフォード(Charles Wilford)が開国を待ちかねたかのようにあいついで来日した。欧米では、日本の植物を持ち帰り、園芸に利用しようとする機運がシーボルトの頃から高まっていた。条約締結の報が伝わるや否や、ただちに園芸学会や種苗商は前記の彼らを採集家として日本に派遣してきたのである。
マキシモヴイッチ
ロシアのマキシモヴィッチが来日したのも万延元年である。マキシモヴィッチはモスクワ近郊のツーラで文政一〇(一八二七)年一一月二三日に生まれた。大学卒業後の一八五二年にセントペテルブルグの帝国植物標本館の研究員となった。一八五三年に世界周遊を計画していた軍艦ディアナ号に植物学者として乗り組んだが、翌年(安政元年)七月二三日に沿海州デ・カストリーニに入港した時点でクリミヤ戦争のため調査は打ち切られた。非戦闘員であったマキシモヴィッチは上陸し、三年間にわたりアムール河(黒龍江)流域の植物相の調査を始めたのである。一八五七年にセントペテルブルグに戻ったマキシモヴィッチは、二年後(一八五九年)にその成果をまとめた『アムール地方植物誌予報』(Primitae florae amurensis)を出版した。同書は後に日本を含む東アジア温帯地域の植物の研究に欠かせぬ力作であった。
マキシモヴィッチは同書によってデミトフ賞を受けた。その賞金で彼は安政六(一八五九)年に満州地方の調査に出かけたが、できれば日本を調査したいと考えていた。ウスリー・スンガリー川流域で調査をしていたとき、日本が開港されていることを知り、万延元(一八六〇)年九月六日にウラジオストックを出発し、九月一八日、箱館に上陸をはたした。万延二年、マキシモヴィッチは岩手県紫波郡下松本村で生まれた須川長之助を伴い、箱館、横浜で採集した。
万延二年にはプロシア政府使節が長崎に着きウィチューラ(Max Wichura)、ショットミュラー(Otto Schottmueller)が植物採集をしている。ウィチューラの名は、Rosa wi-churaiana(テリハノイバラの異名)などに献名されている。王立キュー植物園から派遣されたオルダム(Richard oldham)もこの年に来日している。
マキシモヴィッチは翌万延三年には長之助を伴って、長崎と横浜で採集をした。ちょうど伊藤圭介がかつてのシーボルトの採集を手伝ったように、長之助はさらに単独でマキシモヴィッチが入れない南部(岩手県)や信濃のような地域で採集し、標本をマキシモヴィッチに提供した。
マキシモヴィッチは日本、満州などで収集した植物研究結果を二つの大きな論文群にまとめている。そのひとつは、一八六六年から一八七一年にかけて二〇回にわたり『生物学会雑誌』(同時に『セントペテルブルグ帝国科学院紀要』にも掲載された)に、『日本・満州産新植物の記載』(Diagnoses plantarum novarum japoniae et mandshuriae)という表題で発表された論文、他は『アジアの新植物記載』(Diagnoses plantarum novarum asiaticarum)で、これは一八七七年から一八九三年にかけて八回に分けて、「セントペテルブルグ帝国科学院紀要」に発表された。後者は明治時代になってからのものである。マキシモヴィッチの標本はすべてセントペテルブルクのコマロフ植物研究所に収蔵されている。コマロフ植物研究所は、マキシモヴイッチが研究に従事した帝国植物標本館である。
マキシモヴィッチ
マキシモヴィッチ(C.J. Maximowicz, 1827-1891)
須川長之助がマキシモヴィッチのために採集した標本
須川長之助がマキシモヴィッチのために採集した標本
(Acer capillipes Maxim.のタイプ標本、コマロフ植物研究所との交換により入手)
サヴァチェ
慶応三(一八六六)年にサヴァチェ(Paul Amedee Ludovic Savatier)が来日した。この年、ミュンヘンでシーボルトは七〇年の生涯を閉じている。また、チェコのブルノの自然史学会紀要第四巻に、メンデルの『植物雑種の研究」が発表されたのもこの年である。
サヴァチェは天保元(一八三〇)年にフランスのビスケー湾に望むシャラント県ドレロン島に生まれ、明治二四(一八九一)年に六一歳で痛風のため没した。彼は故郷に近いロシュフォールの海軍医学校に学び、海軍医官になった。長髪賊の乱があった一八六二年から一八六三年にかけて、中国の寧波(ニンポー)に駐屯したフランス海軍に属していたが、彼はそこでも熱心に植物採集をした。
幕府が開設した官営横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠の前身、後の横須賀造船所である)の初代所長ウェルニーは、製鉄所建設を立案し、それに要する技術者、機器、材料を整えるために帰国したが、その時ロシュフォールの造船所に一等医官として勤務していたサヴフチェに日本行きを勧めた。この時サヴァチェが植物に通じていることも考慮されたという。サヴァチェは妻と長女ならびに召使女の三人を伴い来日した。村上伯英と石井宗順の二人が医師と通訳とを兼ね彼を助けた。
サヴァチェ
サヴァチェ(P.A.L.S.avatier,1830〜1891)
サヴァチェは勤務のあい間に横須賀と行動の自由が許されていた三浦半島の各地、さらには近接する横浜あるいは鎌倉で植物採集を行い、パリの自然史博物館に送った。彼の標本は、フランシェによって研究された。
フランシェは一八三四年生まれでサヴァチェよりも四歳年下であった。一九〇〇年にパリで没するまでフランシェは中国奥地産の植物を中心とした分類学的研究を進めた。『モウズイカ属の種についての研究』をはじめ、トウヒレン属(キク科)、スゲ属(カヤツリグサ科)などの研究、さらにはパンダを発見したダヴィット神父採集の植物を研究した『ダヴイット氏採集中国産植物の研究』、デラヴェ神父が中国西南部で収集した標本による『デラヴェ氏採集植物研究』などの論文・著書を数多く残している。
採集活動が制約されていたサヴァチェを助け、日本各地の植物を採集するのに大いに協力したのは、同じ横須賀製鉄所にお雇い外国人として勤務していたエミール・デュポン(Emile Dupont)であった。デュポンは明治七(一八七四)年に来日し、三回にわたり日本各地を調査して歩いた。材木技師であったデュポンは、官命で日本各地の官林(国有林)へ鑑材検査に出張し、その折、彼および随員の佐波一郎、木村作助らが植物採集をした。フランシェとサヴァチェの『日本植物目録』の第一部、すなわち、第一巻一九二ページまではデュポンが来日する前の一八七三年一一月四日に刊行されていることに注意する必要がある。デュポンは、帰国後の一八八〇年にパリで、『日本森林概要』という本を刊行している。
群馬県富岡の官営製糸工場のお雇い外国人クラマー(Kramer)は、群馬県内でよく採集しており、フランシェとサヴァチェの『日本植物目録』に彼の名前が頻繁に登場する。クラマーの名前はGeranium krameri(タチフウロ)やCheilanthes krameri(イワウラジロ)などに献じられている。先のフランシェとサヴァチェの『日本植物目録』に標本の採集者として名前が記されているのは、上に述べたクラマーのほか、ライン(Rein)、日本人として伊藤圭介、田中芳男、須川長之助がある。
サヴァチェは、一八七一年一二月から約一年間帰国し、一八七三年一月再来日している。この間に『日本植物目録』出版の相談が進んだと想像される。
明治五(一八七二)年にアメリカ人ワトソン(R.G.Watson)の主唱で、日本アジア協会がつくられた。明治七年七月一七日にサヴァチェはその例会で日本の植物相についての論文を代読させている。この中で、彼は日本と東アジアならびに北アメリカの植物相の関係を例に上げ説明し、かつてミクエルが日本の植物相の大半が固有であるといったのを自ら確かめたと述べている。しかし、彼は、今後満州、朝鮮半島などでの研究が進むにともなって固有の割合は減るだろうと結論しているのは卓見である。このときすでに『日本植物目録』の一部が刊行されており、講演ではこの著作のもつ意義を示すとともにその完成へ向けてのサヴァチェ自身の意欲を示した。デュポンが来日したのはこの年の一一月四日である。
フランシェとサヴァチェの『日本植物目録』は、『Enumeratio plantarum in japonia sponte crescentium,accedit determinatio herbarum in libris japonicis So-Mokou Zoussets xylographice deloneatarum』という表題をもっている。木版の草木図説というのは飯沼慾齋が著わした『草木図説』のことである。サヴァチェは日本植物の研究に日本の本草学者の著わした著作を活用した。上記の『草本図説』のほか、岩崎灌園の『本草図譜』、島田充房・小野蘭山による『花彙』を高く評価していた。特に『花彙』を高く評価し、サヴァチェはその仏訳本を出版している。
サヴァチェは日本人の著作を単に利用するだけでなく、当時の優れた本草学者と親交を深めた。その中に、伊藤譲(ゆずる)、田中芳男、小野職懇(もとよし)がいる。伊藤譲は圭介の子息で父圭介の植物図説の原稿を整理して『日本植物図説』を出版するにあたり、その学名をサヴァチェに質したのである。この図説は草部(イ)の部、初編一冊が明治七(一八七四)年に刊行されただけで終わった。田中芳男と小野職懇は、飯沼慾齋の『草本図説』に学名ならびに科名を挿入して新版を出版するため、訪問してサヴァチェにその校訂を依頼した。これが『草本図説』の第二版で、明治八(一八七五)年から翌九年にかけて刊行された。
サヴァチェの日本植物研究は彼以前の外国人研究者に比べてずっと現在に近いことを指摘することができる。サヴァチェが日本の植物の研究をする段階では、ツュンベルクはさておいてもシーボルトとツッカリーニの『日本植物誌』に加え、マキシモヴィッチ、ミクエル、グレーのすぐれた論文がすでに出版されており、日本の植物研究の基礎ができていたのである。
ここで日本の植物を研究したこれら先達の特質に触れておきたい。まず、ミクエルであるが彼自身の最大の功績はオランダ領インドを中心としたマレーシアの植物研究である。したがって、ミクエルは日本の植物研究に先だってアジアの熱帯植物について深い造詣を有していたのである。当然ミクエルの日本植物研究では、西南日本産の暖帯亜熱帯植物の研究に彼の資質が発揮されたのはいうまでもない。マキシモヴィッチは来日前にアムール地方、満州を自分で踏査して東アジア温帯の植物について豊富な知見と体験をもっていた。彼のこの素養が日本の温帯植物の研究に十分に生かされたといえる。これに対してグレーは日本の植物との類縁関係がある北アメリカ東部の植物の専門家であり、その視点にたった比較研究が研究成果に反映している。日本の植物相を手短に述べるなら、
(一)北アメリカ東部の植物相に類似している日華植物区系に属すること、
(二)熱帯と温帯の移行帯が日本の中央部を占め、熱帯系と温帯系の両方の植物が生育していること、
(三)島であるが地形が複雑で種の多様性が高いこと、
以上三つの特徴を忘れるわけにはいかない。
結果からみると、ミクエル、マキシモヴィッチ、グレーはそうした日本の植物相がもつ特質をそれぞれ各自の経験・研究背景に沿うかたちで検討したといえる。
しかし、フランシェとサヴァチェの立場は明らかに彼らとは異なる。フランシェ自身は中国の植物相についても研究しているが『日本植物目録』ではその成果が生かされているとはいえない。日華植物区系の枠組みの中で考えたとき当然日本と中国の植物相との比較は不可欠であるが、このことは最近に至るまで本格的には行なわれて来なかった。日本の研究者も積極的には比較研究をして来なかったし、中国側の研究者にもその姿勢は乏しいのである。日本と中国の植物研究はほとんど独立して行われていたために、比較すべき対象を対応させることすら困難であった。フランシェ、それにほぼ同じ時代に中国産植物の目録をまとめた王立キュー植物園のヘムスレー(W.B.Hemsley)らにもいえるが、彼らはそこまで踏み込んで研究はしかなった。
しかしながら、フランシェとサヴァチェは、日本の植物相が、上に述べた、(三)島であるが地形が複雑で種の多様性が高いことを示唆するに十分な貢献をしたのである。植物学的基礎をやっと習得した日本人研究者にこの多様性の解明に向けての研究の引き渡し役を買って出たかのように、これまでの日本の植物についておこなわれた内外の研究結果を『日本植物目録』で集大成してみせたのである。
サージェント
一八六八年に明治と改元され、渡航が自由になると当時産業や教育などの振興・援助に従事するかなりの外国人が日本に滞在していた。彼らの中には各地に旅行しその記録を残した人々がいる。来日外国人に人気のあった日光での事跡をみてみよう。明治七(一八七四)年に来日したドイツ人医師ドニッツ(Wil-helm Donitz)が休暇に男体山に登り植物採集した。同じ明治七年にラインも男体山に登っている。明治八年にはアーネスト・サトウ(Ernest M.Satow)の『日光旅行案内』が横浜で刊行されている。この本の刊行は日光を訪れる外国人の増加を物語っている。サトウは英国大使館に勤め日本の自然に愛着を寄せていた。日光中禅寺湖畔に英国大使館の別荘があるのは日光を愛したサトウと関係がある。明治八年にマルチン(G.Martin)が「中禅寺湖の植物」という報告文をドイツ日本アジア協会誌に発表している。
サージェント(Charles Sprague Sargent)は一八四一(天保一二)年四月二四日アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれ、一九二七(昭和二)年三月二二日に亡くなった、樹木学の世界的大家であった。一八六二(文久二)年にハーバード大学を卒業後、一八七二(明治五)年には同大学附属植物園長となり、一八七三年には同大学の有名なアーノルド樹木園の園長をも兼任した。一八七九年から一八八二年にかけて合衆国中の森林を調査したが、これは同国の森林資源の基礎資料となった。サージェントはこの時の調査結果をもとに『北米樹木誌』全一四巻を著わした。この大著脱稿後の明治二五(一八九二)年コードマン(Philip Codman)を伴い日本に渡り、日光などを訪問した。
彼の日本滞在はたいへん短かったが、その間に約二〇〇点の種子と一二二五点のおし葉標本を得たのである。標本はハーバード大学植物標本館に、このときに得た種子から芽生えた樹木は現在もハーバード大学のアーノルド樹木園の日本コレクションの中に生き続けている。一八九三(明治二六)年にサージェントは、日本で得た森林植物に関する知見を『日本森林植物誌』(Forest flora of Japan)として出版した。この本は分類学的な記載でも集覧でもなく、彼が滞在中に行なった観察を纏めたものであるが、かつてエサ・グレーが指摘した北米東部と日本の植物相の関連がその基調になっている。この本は日本の温帯林を広く世界に紹介するのに貢献した。
フォーリー神父
フランス、リヨン市南西のオートロアール県で一八四七年に生まれたフォーリー(Urban Faurie)は明治六年にパリ大学神学部を卒業した後、ただちに来日した。二七歳であった。パリの自然史博物館に関係し、サヴァチェの採集した標本により日本植物を研究していた、フランシェは新潟にいたフォーリーに標本を採集して送るよう依頼した。その後は採集からは遠ざかっていたが、明治一六年に青森と北海道の巡回牧師となった折、函館を中心に植物採集を再開した。明治二八年に病気療養のため本国に戻った。明治三〇年に再来日し、青森に定住するようになり、活発に採集にでかけた。この明治三十年以降の採集でフォーリーが旅行した地域には山陰、四国、九州など西南日本が含まれる他、台湾、朝鮮にも足をのばしている。毎年精力的に調査を行い、大正四年台湾での採集調査中に亡くなった。六九歳であった。
フォーリーが精力的に採集した年代は日本人研究者による野外研究が本格化した時期と重なるが、彼の採集標本は主にフランスをはじめとする海外で研究されることになった。中でも彼の採集した標本の多くを調べ新植物を命名記載したのはレヴェイユ(Augustin Abel Héctor Leveillé)だった。レヴェイユは多数の論文を書き新種を発表したが、中には科さえ間違っているような内容の乏しい論文もあった。当時未開の地で採集活動に精を出す宣教師を鼓舞するためもあって新種を生産したという評価が適切である。彼はさきに述べたフォーリーの採集した標本をもとに自分の研究成果を発表したが、その論文は往々にして粗雑であり、内容もよく理解できぬものであった。しかし植物分類学では命名についてプライオリティを認めているため、レヴェイユの研究を無視することはできない。しかし、レヴェイユの記載した日本の植物は限られており日本人は幸運であった。
フォーリーの採集した植物標本は世界の植物標本館に送付されたが、彼自身が所有していたその重複標本が京都大学にある。これは岡崎忠雄がフォーリーの遺族から買収し寄贈した。フランシェのいたパリ自然史博物館にフォーリー標本は数多い。同定もされずダンボール箱に入ったままの標本が多数あり、筆者は現在研究中である。東京大学にもフォーリーの標本はある。早田教授や中井教授に同定のため送られた標本、後に京都大学から寄贈されたものなどである。
さて、明治一〇年に東京大学が創設された。まず最初に行われたことは日本植物の分類についての研究であった。初代植物学教授となった矢田部良吉らは、はじめは外国の植物学者が命名した分類群に精通するのに手間取った。外国に行かねばタイプ標本を見ることができないし、記載を入手することも大変だったのである。彼らが採集した標本についても、標本の植物が誰の記載した何の種に符合するか否かを検討するだけに終った。それが未記載種らしいと思われても、それを独自に学術的に公表することができなかった。比較すべき類縁種のタイプを始め、同定の信頼できる標本はなく、文献も不足していたためである。そのため、はじめは標本を外国の専門家に送って鑑定してもらうしかなかった。しかし、鑑定の必要な標本は増加するが、容易に解答が得られぬことが多くなった。
矢田部良吉は明治二一二年一〇月発行の植物学雑誌に英文で「泰西植物学者諸氏に告ぐ」という宣伝文を発表し、「日本植物の研究は以後欧米植物家を煩わさずして日本の植物学者の手によって解決せん」ということを述べた。矢田部はこの宣言を踏まえて、シチョウゲ、ヒナザクラの二新種を公表し、次いで新属新種キレンゲショウマを公表した。「矢田部宣言」の後に日本人の植物学研究が開始されたわけではないが、この宣言は東京大学における研究水準がようやく植物学といえる状態になったという自己評価であったということができる。その水準の自己評価の物差しとしたのは多分標本室の充実であったろう。ここに矢田部良吉を中心に松村任三、牧野富大郎らの植物分類学者により日本からの新植物の記載が盛んに行なわれ、全国規模で日本の植物相の全貌解明に向けての研究が緒につくのである。 (おおばひであき)
早田文藏関係標本
早田文藏関係標本
早田は台湾植物の研究を精力的に行い多数の新種を発表したが、それらの標本は協力者が採集したものが多い。Hydrangea integrifoliaスノハアジサイのタイプ標本はフォーリが採集した標本である
参考文献
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