Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

EMET

年間第26主日(B)

2021.09.24 20:00

2021年9月26日 B年 年間第26主日

マルコによる福音書 9章38~43節、45節、47~48節

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

 今日の福音箇所は、一見、つながりがないようにも思われる二つの話が織り込まれています。38節~41節の話は、断りなくイエスの名を使い、奇跡を行う者をイエスが認めるという、あまりに寛容なイエスの信仰理解が表わされている話です。しかし、その後の42~48節の話は、小さな者をつまずかせることは最大の罪であり、そのようなことをしないためには、どのような犠牲も払うべきだ、といった信仰の厳しい側面が強調されている話となっています。どちらも信仰の真実をついた内容ではありますが、なぜこの二つの話が一続きに語られているのかについては、不可解に感じるところもあります。

 実際、福音書はイエスが地上を離れ、数十年たった後に書かれたもので、必ずしもイエスの言葉や行いをリアルタイムに書き留めたものではありません。多くの人々の心に刻まれたイエスの記憶は、当初、口伝えに伝承され、それは人々に印象づけられたイエスの言葉やイメージに頼ったものでありました。それが編集される過程で、時系列とは無関係に挿入されていったところがあるのも事実です。今日の箇所も、もともとは別々の話が、一続きのものとして織り込まれたものだったのかも知れません。

 しかし、史実がどうであれ、福音記者が一続きの話としてまとめ上げたことには、相応の理由がありそうです。今日の前半の話(逆らわない者は味方という話)の終わりの41節の章句は、マタイ福音書10章42節の言葉とほぼ同じです。実はこの章句は今日のマルコ福音書の箇所とは全く違う文脈で語られたもので、イエスが弟子たちを派遣するに当たり、これから迫害を受けることを予告する話の中に置かれたものです。

 ところが、この全く違う文脈で語られているマタイ福音書の章句が、それと対応するマルコ福音書の章句の、それに続く後半の話へとつながっていくのです。それはマルコ福音書の前半の話には出てこなかった「小さな者」という言葉です。

マルコ福音書9章41節~42節(今日の福音箇所)

  キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

マタイ福音書10章42節

  わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

 このようにマタイ福音書の章句を当てはめてみると、今日の福音箇所の前半と後半の話が「小さな者」という言葉でつながっていくのがわかります。そのことから、もしかしたらマルコ福音書の福音記者には、この「小さな者」という言葉の印象が強く残り、そのために内容の異なる二つの話を一続きのものと記憶して、書き留めたのかも知れません。なぜなら、この「小さな者」という言葉は、たびたびイエスの口から発せられ、イエスが伝えた教えの中で非常に核心的な事柄として取り上げられていたからです。

 マタイ福音書では、最後の審判 を暗示する箇所(マタイ25章31節~46節)になると、この「最も小さな者」にしたこと、しなかったことにこそ、私たちの救いの全てがかかっているのだと解き明かしていきます。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25章35~36節)
「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ」(マタイ25章42~43節)
「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25章45節)

 以上のことを踏まえると、今日の福音箇所のつまずかせる者に対するイエスの厳しい言葉は、それでも言い足りないくらい、信仰にとって重要な事柄なのだというメッセージだったのでしょう。それは単に過ちを断罪する言葉ではありません。それは私たちの信仰の希望であり、目指すべき拠りどころに関わることなのだと伝えようとしているのです。それは私たちの信仰が、自分自身の正しさや清さ、あるいは悟りや平安のみを求めるものではないということを意味します。むしろ自分自身が悪や汚れに巻き込まれ、混乱や分裂に投げ込まれることがあろうとも、小さな者のために自分を捧げていくところに、信仰の希望と実りがあるのだということを指し示しています。この逆説的な救いは、まさにイエスの十字架上で体現され、実現したのです。

 今日の福音箇所でイエス様は「これらの小さな者の一人をつまずかせる」(42節)ことのないように、小さな者の救いに最大の関心を注ぐように厳しい口調で警告します。「小さな者」とは、イエスが積極的に癒しを与えるために出向いていった貧しき人々、病の人々、社会的に蔑視され、見捨てられていた人々、その他多くの小さくされた人々のことを指すのでしょう。その人達は、イエスと出会い、弟子となっていく者も多くいました。イエスが小さな子供を呼び寄せて、「神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10章15節)と言われた話も印象的です。この時代に子供に対して抱くイメージは、理解に乏しく、小さく、弱いネガティブなイメージです。だから、イエスがこの後、「子供のように神の国を受け入れなさい 」言ったのは、子供の純真さ、純潔さといったポジティブな面を評価したと言うより 、弱く、小さく、未熟とされたその小ささゆえにこそ、神様の恵みが働かれるのだということを取り上げられたのです。

では、今日の箇所の前半部分の話 において、「小さい者」とは、どのようなことを指し示すのでしょうか。先ほど例に挙げたマタイ福音書の章句を当てはめるとすれば、それは、イエスの弟子ということになります。そして、またイエスはここで、たとえ正式な弟子として加わった者でなくとも、イエスの名によって良いわざを行うならば、味方と考えてよいといっているのです。そのことを踏まえたならば、キリストを拠りどころとするすべての人々が、さらには、キリストを知らずともキリストの良きわざを知らず知らずに行っている誠実な人々をも、「小さき者」として加えられる可能性が出てきます。

 考えてみたら、私たち人間の誰しもが神の前では、貧しく、弱く、滅びに宿命づけられ、それでも永遠に、喜び、憩うことのできる世界を切に求めている存在です。私たちの誰もが、他者から恵みを受けるべき小さな者であり、さらに私たちの周りの全ての隣人が、何がしかの助けが必要な人であるということがありのままの真実です。

 弟子たちは、自分たちに無断で、イエスの名を用い良きわざを行う者を不満に思い、それを行うのは正式に弟子となった我々だけだと、壁を設けたかったのでしょう。それには、名誉と称賛といった報いを自分のところに留めおきたいという思いがあったのかも知れません。しかし、イエスはそのような壁は不毛であり、全ての自分の名によって行われる良きわざは自分に基づくものなのだと、限りない門戸を開いていきます。

 ところが、そのような寛容さと同時に、イエスは信仰のゆるがせにできない厳しい側面も示していきます。それはイエスの良きわざの根本にあること、小さな者のためにわが身を砕くことこそが、信仰の希望であり拠りどころであるのだという真理です。それは弟子たちの共同体の内外、彼らが把握する世界の内外に関わらず存在する使命であり、そこに信仰を生きるか失うかの大きな隔たりがあるのだと指摘しています。

 これらのことは、現代の教会に生きる私たちにとっても、大きな示唆を与えてくれます。私たちはとかく、救いの根拠を教会という共同体の内外、あるいは教えの内外という部分に置いてしまいがちです。しかし、今日の福音に立ち帰るならば、そのことよりももっと奥深くの、イエスの名によって、イエスのみわざを行いたいという思いにこそ、イエスは信仰の基軸をおいているようです。

 それは、教会の内外、教えの内外に関わらず、私たちが小さき者にどれだけ目を注ぎ、身を呈し、心を砕いていけるかに私たちの信仰はかかっているのだということです。

by F. T. O.