宮沢賢治と蛙
https://ameblo.jp/bremen3815/entry-12141622093.html 【宮沢賢治 作『 蛙の消滅』、『蛙のゴム靴』】より
この2作品は兄弟なのです。
『蛙の消滅』の方が初期形なのです。
どこが違うかといいますと、蛙のお嫁さんが、消滅の方はてんとう虫なのです。
ゴム靴の方は蛙なんです。
さてどちらがメルヒェンかしら?
てんとう虫も美しくかわいいのですが、
蛙さんは、やはり蛙さんと結婚するほうが心が落ち着くような気も致します。
この2作品は、結末が大いに違っています。『カイロ団長』のように、ハッピーエンドになるゴム靴の話の方が、やはりこどもたちに読むには、心に安らぎがもどってくると思うのですが、実際は、消滅の話の方も、もう、小学生高学年には分かるお話なのかもしれません。
しかし、大人の私には、何とも不憫な結末になる、消滅の話に納得させられるんですよね。多分、世の中はこういう事があり得るからでしょうかね。
賢治さんの仏教的始末なのでしょうが。
余談ですが、もしかしたら美しくかわいいてんとう虫や蛙さんは、賢治さんの妹かしら?と思ったりもするんです。
松成真理子さんの描いた絵本にしても、小林敏也さんの描いた絵本もてんとう虫も蛙もどちらもかわいく描かれています。
さて、この作品の一番気持ちのよいところは、最初のところで花見でも月見でもなく、雲見のところです。
蛙の友達3びき(カン蛙、ブン蛙、ベン蛙)で、夏の空に浮かんでいる雲を気持ちよさそうに見上げているところです。
一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峯をみることが大すきです。
じっさいあのまっしろなぷくぷくした、玉髄のような、玉あられのような、また蛋白石(オパール)を刻んで、こさえた葡萄の置物のような雲の峯は、・・・・
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形
になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思
わせるね。」
「実にぼくたちの理想だね」
と、雲談義から突如、ゴム靴へと話が展開していくのですが、そのゴム靴への固執から蛙たちの運命が変わっていきます。
そういうところは、ほんとに人間の持ち合わせている弱さ愚かさをよく現しているなぁ~と思いました。
松成真理子 絵
ゴム靴の結末ですが、ルラ蛙(花嫁)が、穴に落ちた3匹の蛙たちを助けてもらいたいために、結婚式で酔いつぶれた自分のお父さんのところへ何度も起こしにいくところは、自分の力の及ばない悲しみが可哀想なくらいに描かれています。だから、その救済に3匹の蛙は、やっと眼を覚ましたルラ蛙のお父さんと他の蛙たちに命を助けてもらうのですよ。ルラ蛙の情の深さを描いています。
消滅の方は、てんとう虫さんはただ泣いてお家に帰るだけだったんですね。これは、また、薄情に描かれています。普通なら、助けを求めるはずなのに。
この2つの作品の結末の違いに、あの最初の雲見の清々しさがどんなにか大切なことなのか、ゴム靴などに拘るような生き方は、考えものだ❗と。
賢治さんの時代以上に物に溢れている現代に、忘れてはいけないことを示してくれたような気が致しました。
ところで、夏の雲には10種類の雲があるんですね。
少し、勉強になりましたよ。
http://nanatoshi.com/book-report456/ 【蛙のゴム靴/宮沢賢治=ねたみつらみ…マイナス感情を無理に押さえつけない?】より
コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。
読書していて、「ちょっと気になったこと」ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
蛙のゴム靴-宮沢賢治-イメージ今回は『蛙のゴム靴/宮沢賢治』です。
文字数8000字ほどの童話。狐人的読書時間は約18分。
ねたみそねみひがみつらみ。そんなわけでブン蛙とベン蛙は、カン蛙を罠にかけるんだけど、それが嫉妬の気持ちを解消する、現実的な方法なの? 仲よく雲見をしていたときの気持ち大事に!
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
ある夏の暮くれ方、カン蛙ブン蛙ベン蛙の三匹は、雲見をしながら話していた。雲の形や色のことから、やがて人間のあいだで流行っているというゴム靴の話題へ。三匹ともゴム靴を欲しがっていた。
カン蛙がゴム靴を手に入れた。ブン蛙とベン蛙はそれをうらやましがった。そこへ一匹の美しい娘、ルラ蛙がやってくる。お婿を探しているという。ブン蛙とベン蛙はあからさまな言葉でアピールしたが、カン蛙はさりげなく歩いてゴム靴をアピールした。ルラ蛙はカン蛙をお婿に選んだ。
ゴム靴も美しい花嫁も手に入れたカン蛙が、ブン蛙とベン蛙は妬ましかった。そこで二匹は共謀して、カン蛙を罠にかけることにした。カン蛙とルラ蛙の結婚式の当日、ブン蛙とベン蛙はカン蛙を散歩に誘い出し、わざと萱かやの刈跡かりあとを歩かせて、カン蛙のゴム靴をボロボロにしてしまった。
ルラ蛙は婿選びの際、カン蛙のゴム靴しか見ていなかったので、三匹のうち誰が自分のお婿なのかわからなくなるが、カン蛙が一歩前に出ておじぎをすると安心した。
さらなる罠をしかけていたブン蛙とベン蛙は、新婚旅行の見送りと見せかけて、カン蛙を落とし穴に落とそうとするが、三匹とも穴の底の泥水へ落ちてしまう。
お酒に酔って眠っていたルラ蛙のお父さんがようやく目覚め、娘から事情を聞く。お父さんの蛙は仲間の蛙たちと一緒に三匹を穴の中から引き上げる。命拾いした三匹。カン蛙はルラ蛙と一緒になり、ブン蛙とベン蛙は心を改め、みんなよく働くようになった。
狐人的読書感想
『蛙のゴム靴』というタイトルですが、「ゴム靴」は大正半ばから昭和にかけて、実際にヘロン(蛙語で人間)の間で大流行した履き物なのだそうです。
カン蛙ブン蛙ベン蛙の三匹は、そんなゴム靴を欲しがりますが、それを手に入れることができたのは、カン蛙ただ一匹だけでした。
そのことが原因となり、カン蛙はブン蛙とベン蛙からねたみを買ってしまい、ゴム靴をボロボロにされてしまったり、落とし穴に落とされてしまったり――なんていうか、人間関係の負の部分が描かれていて、蛙って(人間って)怖いな、なんて、単純に思わされてしまいます。
カン蛙は、以前病気の介抱をして恩を売った野鼠のねずみに頼んで、ゴム靴を手に入れました。とくに悪いことをしているわけではないので、この仕打ちはやっぱりかわいそうに思えます。
カン蛙にも非があるとすれば、ゴム靴をこれ見よがしに自慢してしまったことでしょうか。それで美しいお嫁さんまでゲットしたとなれば、たしかに周りの仲間たちはおもしろくないかもしれません。
なんとなく「宝くじは当たってもひとに言わない」みたいなことを連想しました。
「なんでいいことなのに、ひとに言わないんだろ?」とか疑問に思っていたのですが、「他人からねたみを買いたくないから」ということが、ひとつ答えとしていえそうです。
ひとをねたんだりそねんだり、または、ねたまれたりそねまれたりしたくないなあ、と考えますが、誰かをうらやましく思う気持ちというのは、なかなかに御しがたく感じてしまいます。
ひとの幸福を喜べる人間でありたいと願いますが、やっぱりそれができなかったり、ひとの幸せをすなおに喜べなかったり、ひとの不幸は蜜の味になってしまったり――自分のなかにもブン蛙とベン蛙と同じような心があるのだと実感します。
そんな自分がいやになってしまいそうですが、せめてねたみのために、幸せなひとを不幸にするために、直接的な行動を起こさないだけの慎みは持ちたい、と願いますが、僕には実際にブン蛙ベン蛙と同じことをする度胸がないだけだともいえそうです。
それに、上辺だけはひとの幸せを祝福していても、心の中ではねたみMAXというのも、それはそれで性格悪いかな、って考えてしまいますね。
結局、持つ者と持たざる者が仲よくするのはむずかしいのかなって、想像してみるのですが、しかし持つ者が自分の富や幸福を持たざる者に分配し、それに持たざる者が満足を覚えれば、うまくやっていける現実もあるような気がします。
とはいえ、持つ者がひとに分け与えるのもなんだかむずかしそうに感じてしまいますし、持つ者は努力をして持つ者なのであって、持たざる者が努力を怠って持たざる者なのだとしたら、それがいいことなのかは一概に語れなさそうで……やっぱりむずかしく感じてしまいます。
蛙の関係から人間感情のむずかしさを思う、今回の読書感想でした。
読書感想まとめ
ねたみそねみ、人間感情のむずかしさ。
狐人的読書メモ
・蛙の雲見がすてきだと思った。人間でいうところの花見や月見であるらしい。『どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。』『うん。うすい金色だね。永遠の生命を思わせるね。』『実に僕たちの理想だね。』
・ルラ蛙はゴム靴だけを見てカン蛙をお婿に選んだわけだけど、顔でも性格でもなくてゴム靴というところにやはり現実を見てしまう。高そうなものを身につけているから、きっとお金持ちに違いない――みたいな?
・けろんとした顔つき――ところどころに見られる賢治らしいユーモアが楽しい。
・『蛙のゴム靴/宮沢賢治』の概要
初出不明。先駆形となる作品に『蛙の消滅』という童話がある。ひとをねたんだりそねんだりするとどうなるのか……、教訓的に描かれているが、現実的な教訓ではないかもしれないとも思った。
以上、『蛙のゴム靴/宮沢賢治』の狐人的な読書メモと感想でした。