電力と政治 日本の原子力政策全史(上)No2
(No1からの続き) 本書の第5章「東京電力の政治権力・経済権力」(P205-259) には、そのような東電の政治権力、経済権力への圧倒的な影響力が詳述されています。東電は2010年の3月期のデータでは、総資産は12兆2000億円を上回る規模で、資本金は9000億円、従業員数3万6700人、売上高5兆1500億円。(子会社を含めると、売上はなんと、5兆3700億円。従業員数は、5万3000人。)もう凄いのなんの、、経済界、行政機関、自民党、学界、自治体、(前述した)マスメディア、、とあらゆるところに影響力を発揮し、世論対策を行い、原発の安全神話を創り出しました。余談ですが、私も原子力というと、原発のある地元の住民が反対運動を起こしても、なんとなく自分の世界ではないような意識を持っていたのですが、本書を読むとこういった「なんとなく自分とは関係ない、、」という意識は、「原子力村」による世論操作によって巧妙につくられたものではないか、という思いを強くします。
たとえ、電力という、巨大産業にあっても東電というたった一社がこのような権力を持つことは尋常ではないと思いますが、この東電の力はどこからきたのでしょう。。上川さんは東電の力の源泉は「電気事業法で認められた『総括原価方式』にあった。」(P258)と指摘します。総括原価方式とは簡単に言うと、「電力をつくる費用 + 利益 = 電力料金」として国民に請求できる方式です。本書には以下のように書かれています。「発電所や送配電網の建設費・修繕費・運転費・燃料費、社員への人件費・福利厚生費、法人税や固定資産税、借入金の支払利息や株主への配当などのコストを合算させた『適正原価』に、電力会社の利益(事業報酬)を加えて、電気料金を算定する仕組み。事業報酬は、電力会社が持つ発電所や送電線などの固定資産、使用済みを含む核燃料、建設中の資産など、電力事業に投下した資産の合計に一定の倍率(2008年からは3%)をかけたものとされた。」(P208)資本主義における市場では、常に競争があるので、費用については常にコスト削減を行い、モノを安く供給する努力をし、競争力を維持するわけですが、電力料金に関しては、このような「コスト削減」という考えは全くなかったのです。また前述したように、これまでは地域独占という供給体制もそれに輪をかけた、料金体系になっていたのです。
しかし、というか当然というか、こういった傲慢で利権依存の経営体質の会社は永続できません。皆さん御存知の通り、2011年3月11日、東日本大震災による津波で、東電の福島原発は歴史的な事故を起こします。これは、他者の意見に耳を傾けない東電の傲慢経営、東電の謙虚のない経営姿勢が引き起こしたのかも知れません。。(または神様が天罰を与えたのかも知れません。)実際、本書において、上川さんは次のように指摘しています。「福島第一原発事故は、けっして『想定外』の天災によるものではなく、事前に数多くの警告が発せられていたにもかかわらず、それへの対応がとられなかったがゆえに起きた『人災』であったことはすでに数多くの文献や、2017年の前橋地裁判決や、東京地裁での冒頭陳述などでも指摘されている。(中略)東電および『原子力ムラ』の道義的責任は否定できないであろう。」(P194)
上川さんが福島原発事故が「人災」であると話す理由を要約します(本書、第4章「原子ルネサンスの到来」(P194-204)において、詳述)。 1993年の北海道南西沖地震などをきっかけに、通産省は原発の津波想定の再検討を電事連(*1)に指示します。この頃になると地震学の進歩により、以前から想定してきた地震がより大きな規模で起きる可能性があることが分かったり、想定される津波の最大規模もそれまで以上の大きさになるとこがわかってきたのです。実際、「2008年10月頃に東電社内で作成されたとみられる資料では、『地震本部の知見を完全に否定することが難しいことを考慮すると、現状より大きな津波を考慮せざるを得ないと想定され、津波対策は不可避』という文言が記されていて、この資料は、当時の福島第一原発所長らが出席していた会議で配布され、そこには注意事項として『機微情報のため資料は回収、議事メモには記載しない』と書かれていたという。」(P201)更に「2011年3月7日に、東電と原子力安全・保安院は非公開の打ち合わせを行う。この場で東電は初めて、三年前に計算していた想定される津波の大きさは最大15.7メートルという結果を示す。(中略)この日、東電と保安院は、住民に津波リスクが周知され、福島第一原発にその備えがないことが明らかになったら、どのように対応するかについて、打ち合わせを行っていたのである。」しかし時すでに遅く、その四日後に東日本大震災が発生します。。(P202) 実は東北電力女川原発も、日本原子力発電の東海第二原発も、地震学の近年の研究成果から得た最新の知見に従い、敷地を高くしたり防潮壁をかさ上げするなどの対策を東日本大震災前に行っていたのです。「結局、長期評価の津波地震に備えていなかったのは、東電だけだったのである。」(P203) 東電から見れば、地震学による最近の研究成果のアップデートをいうのは、「後だしじゃんけん」のような感じもあったのでしょう。当初は、しっかりと安全対策を講じ、努力の末、やっとその事業が軌道に乗ってきたら、「実はもっと巨額のコストがかかります。」と言われたら、どの企業の経営者も正直いい顔はしないでしょう。。でも、原発の周りにいは多くの住民もいる、地域の安全もある。そいうった責任を負っているからこそ、電力市場という巨大市場でビジネスを行うの資格もあるのだと思います。
今回紹介した、東電や原子力村の体質(その他紹介しきれなかった、政治、官僚、電力会社、学界の開発・利権関係)は、「福島第一原発事故が発生するまでは、覆い隠され、一部の例外を除けば、極めて限られたものしかなかった。だが福島第一原発事故の発生により、ジャーナリストや関係者たちから、これまで語られることのなかった多くの事実関係が明らかにされるようになった。」(「まえがき」より)と上川さんは話しますが、もし、福島原発事故がなかったら、こういった原子力開発における産・官・学のなれ合い、依存、利権の体質は、世間に公表されていなかった可能性が大きいと思います。 丹羽 宇一郎さんは自書「習近平はいったい何を考えているのか」で、日本の「報道の自由」のなさを指摘しています(*2)。この状況を丹羽さんは、「これはある意味、一党独裁よりも根が深く始末に負えない。外部からの圧力ではなく、自己規制によって民主主義がないがしろにされているからだ。これは明らかな知的衰退であり、より危険で深刻な状況かもしれない。」と語っていますが、本書の「原子力村」のマスメディアへの影響力や、彼らの巧みな「世論対策」などを読むと、丹羽さんが言う、「日本の報道の自由」のなさとは、こういうことなのか、と強く実感します。
戦後の日本が貧しい時期には、中央集権で政策を強力に、迅速に推進するやり方は、ある程度は許容されたとしても、今後はこのようなやり方は通用しないですよね。未だ処理の決まらない汚染水、廃炉の問題、核最終廃棄物の問題(換言するなら全くサステナブルではない)。このような問題を、国は原子力開発の過程で徐々に解決してくつもりだったのでしょうが、未だ解決方法もなく、世界の潮流はすでに再生可能エネルギーへ向かいつつある。しかも「国策民営方式」でやってきたため、責任の所在はあいまいなまま。。。やはり、福島のような原発事故が起こっても「日本の原発は安全でしょう、、、」というような態度は改めるべきだと思います。なぜなら、日本の将来を考え、丁寧な話し合いや議論をしなければいけない時に、適切な情報開示もなされず、(その結果)誰も適切な判断を下せず、一部の利権者だけで国民全体の生活に係る大切な物事が決められてしまう、日本の健全な民主主義も育たず、経済における健全な市場競争もないがしろにされる。そして、最終的には、日本が(日本国民が)前進するチャンスを逃してしまうからです。(原子力村関係者だけで、原子力政策が推進カスタマイズされ、周囲の国民は何も知らない、これも広い意味では「ガラパゴス化」ですね。また、たいへん残念ですが、こういった巨額の利権が絡み、国民に情報が伝わっていない問題は他にも国土交通省河川局のダム建設、国土交通省道路局の道路下の空洞調査などでも見みられるようです。)
(東日本大震災の福島第一原発事故後、東電は、実質的に国有化されその権力は大きく損なわれました。その結果、電力自由化が進展し、脱原発の世論も強くなっています。原発事故後の原子力政策については、本書の下巻のブログで紹介します。)
(*1)電力会社10社で構成された「電気事業連合会」の略称。
(*2)2016年の国際NGO「国境なき記者団」のまとめより。日本の報道の自由度ランキングでは日本は180カ国中72位で、韓国よりも下位にあり、72位の前後にはタンザニア(71位)、ソレト(73位)というアフリカの国々と並んでいる。