破滅とは薄桃色のかけらである
「そこのおにーさん、ちょっと着いてきてくんない?」
「……」
無造作に伸ばされた黒い髪の隙間から、好戦的で挑発を意図した三白眼が見えている。
アルバートの使いで街へ出ていたルイスのすぐ隣に来たその男は、その声に足を早めたルイスにぴたりと張り付いてきた。
振り払おうと思えば振り払えたけれど、足に力を込めた瞬間にまたも聞こえてきたそれに思わず歩みを止めてしまう。
そうしてゆっくりと視線を合わせれば、男は強調するように同じことを言ってきた。
「ウィリアム・ジェームズ・モリアーティについてミルヴァートンから話がある。…こう言えば分かるよな?ルイス・ジェームズ・モリアーティ」
分かりやすく顎を上げて舐めた態度を取るその男に苛立ちを覚えたが、それを悟らせることなく静かに彼を見る。
どちらの名前にも覚えがある。
覚えがあるどころか、ウィリアムはルイスにとって最愛の人だ。
そして「ミルヴァートン」とは以前フレッドが知らせてきた計画の脅威になり得る存在の名に違いない。
調査を進めている最中ではあるが、おそらくモリアーティ家が抱える秘密に気付いた知将こそが彼だ。
そのミルヴァートンが知り得た情報をどう扱うかは未知数だったけれど、こうして接触を試みてきたのならば可能性は一つしかない。
「…僕に何の御用でしょうか」
「うちのボスがあんたと話をしたいんだとよ。着いてきてくれるよな、兄思いの弟さん」
人の目がある中で男を振り切るには目立ちすぎる。
それを見越した上で声を掛けてきただろうことにまたもルイスの苛立ちは増したけれど、ここで男を野放しにしてしまってはウィリアムの計画に支障が出ることは間違いない。
ウィリアムは屋敷で今後についての詳細を詰めている最中だし、現状彼に危険はないはずだ。
ならばここは付いていき、ルイス自らミルヴァートンという人間について探ってきた方が良い。
己の危険を顧みないその性質をウィリアムが気にしていることなど知らないまま、ルイスは一度だけ瞳を伏せてから力強く頷いた。
「良いでしょう。案内を頼みます」
「はっ、話が早くて助かるぜ」
男が顎で示した先の路地裏に簡素な馬車がある。
ルイスは大柄な男が御者を務めるその馬車に乗り込むが、閉じ込めるように籠の外から鍵をかけられた。
窓のない閉塞的な空間に大きく息を吐いた瞬間、ミルヴァートンの手下らしき男二人は勢いよく馬車を走らせた。
「やぁ、これはこれは初めまして!ルイス・ジェームズ・モリアーティ!」
「…あなたがチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン卿ですか。メディアで目にする姿よりも、随分と快活な御方のようですね」
「ほう、私について知ってくれているのなら話は早い」
体感的にそう遠くない場所に連れてこられたこの屋敷は彼の別邸なのだろう。
付き人のような人間がすぐそばにいる以外は誰もおらず、手下だろう二人の男も部屋の外で待機している。
ルイスは初めて会うはずのミルヴァートンが間違いなくウィリアムの脅威になることを確信した。
好奇の中に見える狂気は澱んでいて、およそ真っ当な人間でないことが分かる。
初対面の人間一人を連れ出しておいて実に楽しそうなその姿、ルイスが嫌う身勝手に他者を蹂躙する貴族と同類でしかない。
「それでミルヴァートン卿、私に何の御用でしょうか。あなたのお仲間からいささか乱暴な誘いを受けましたが、それほど私にお会いしたかったのですか?」
「それはもう会いたかったさ、ルイス。何せお前はあのウィリアム・ジェームズ・モリアーティの実弟なのだからな」
「私ではなく、兄に御用で?」
「あぁ。養子たるお前と血の繋がった、モリアーティ家の次男坊にこそ私は用がある」
過去の裁判記録を持ち出しただけあって、やはりモリアーティ家の三兄弟が抱える秘密には気が付いているらしい。
確信めいた言葉には自信だけがあり、否定も肯定も意味をなさないことがよく分かる。
ルイスは兄とよく似た瞳を鋭くさせて目の前の彼を睨みつけた。
「あいつこそがこの大英帝国を揺るがす犯罪卿なのだろう?そしてルイス、お前もその片棒を担いでいる…お前の義兄、アルバートもそうだな?」
「……」
「図星ゆえのダンマリか?ふ、まぁ良い。今更そんなことを確かめるために呼び寄せたわけじゃない」
ミルヴァートンはルイスの睨みなど気にも留めずに歪んだ笑みを浮かべている。
むしろ心地良さを覚えるほどにその瞳はミルヴァートンを刺激した。
もっと感情を露わに激昂すれば良い。
そうして見られる苦痛に満ちた表情こそが、ミルヴァートンの渇きを潤すたった一つの泉なのだ。
愉快そうに口元を歪ませたミルヴァートンはルイスから背を向けて、窓の外に視線をやりながら声低く静かに語り出した。
「私は彼、モリアーティ教授にとある楽しみを奪われてしまっていてね…彼には何としてもその報いを受けさせたいと思っている」
「…それで?」
「その報いにこそ君が必要なんだ、ルイス・ジェームズ・モリアーティ」
「……」
「犯罪卿たる彼は私の計画を悉く潰してくれた…ホワイトリーの一件もそうだ。奴さえいなければホワイトリーは今も尚多くの人間から糾弾され悪意を向けられていただろうに、死んだ今となっては真相が明かされることのないまま英雄となってしまった。これではつまらないだろう?私が」
「…まさか、議員の周辺で起きた事件は全てあなたが…?」
「おっと、これはいけない。つい口が滑ってしまったな、忘れてくれたまえ」
「…っ…」
白々しく笑いながら言うその背中に明確な殺意を覚える。
ホワイトリーの人となりなどルイスにはどうでも良かったけれど、彼はウィリアムが感嘆するほどの善人だった。
彼の存在はウィリアムの価値観を大きく揺らがせ、しかしその真っ直ぐかつ真っ白い精神が見せた末路はやはりこの罪深い道を行くしかないのだと、改めて決意を固めてくれたのだ。
ウィリアムに迷いを与えるきっかけになったホワイトリーの凶行は全て目の前の人間が原因だったらしい。
それを知った今、ルイスは殺意だけを抱いている。
あの凶行がなければこの道が断たれていたことなどどうでも良い。
間違っていることを承知で進んできたのだから後悔などしてはいけないと分かっている。
そうだとしても、もしホワイトリーがこの国を変えられるのならば計画の最後に待つ受け入れ難い結末を回避することが出来たのかもしれない、というイフが何よりルイスの癪に触るのだ。
「まぁあの白騎士のことなど今は置いておこう。さてルイス、君に一つ頼みがある」
「私があなたの言うことを聞くとお思いですか、ミルヴァートン卿。あまり私を見くびらないでいただきたい」
「ふ…見た目にそぐわず好戦的じゃないか」
ルイスはゆっくりと足を進め、背を向けているミルヴァートンへと近付いていく。
そばに佇む男の気配にも注意を払いながら、けれどこの二人程度ならば多少の怪我を覚悟で仕留めることは可能だろう。
油断はない。
ミルヴァートンとその付き人が百戦錬磨の手練れだろうと、十分な致命傷を与えられるだけの自力が自分にはある。
ルイスは師と兄に鍛えられた己の能力に自惚れることなくそう評価を下す。
部屋の外に待機している戦闘狂らしき手下二人の相手までは流石に厳しいが、最低でもこのミルヴァートンだけはウィリアムのために殺してみせると、ルイスは袖口に隠し持っていた小型ナイフを取り出した。
そして一歩踏み出しては彼目掛けて腕を払おうとした瞬間。
「ウィリアム・ジェームズ・モリアーティがここにいる」
「…何?」
聞こえてきたその名前に手が止まる。
少し振り払えばルイスが持つナイフはミルヴァートンの頸椎を抉るだろう。
けれどこの場所にウィリアムがいるというのならばルイスにその手は動かせない。
いないのかもしれない。
だがいないと断言出来るだけの証拠がない。
この短時間だけでもミルヴァートンがあまりに卑劣な手段を好むとよくよく理解出来てしまったのだから、ルイスは万一に存在する最悪の可能性について考慮しなければならないのだ。
ウィリアムが捕らえられるなど迂闊な真似をするとも思えないが、彼はモリアーティ家のトップシークレットに辿り着いた唯一の人間。
現状、あのシャーロック・ホームズよりも一歩先を行っている男なのだ。
「もう一度言おう。ルイス、君に頼みがある。頼みを聞いていただけないのであれば、こちらとしても少々手荒い方法を取るしかないな」
「既に手荒いとは思わないのですか?」
「これのどこが?君は自分の意思でここに来たんだろう」
「…要件とは何だ」
「簡単な話さ」
ナイフを翳したままのルイスに怯むことなく、ミルヴァートンは顔だけを動かして殺意に満ちた赤い瞳を見る。
良い瞳だ。
とても強く美しい色をしている。
この色をあのウィリアムが好んでいるのだなと、ミルヴァートンはそう確信を抱きながら口を開いた。
「ウィリアム・ジェームズ・モリアーティを破滅に追い込む。そのためには君の存在が必要不可欠なんだよ、ルイス」
そう言った瞬間に付き人であるラスキンがルイスの背後を取り銃口を向けた。
ミルヴァートンはルイスの方へと向き直し、押し当てられた銃口にも顔色ひとつ変えずに己を見据えるルイスを見ては愉悦に満ちた表情をその顔に浮かべている。
そしてナイフを掲げるルイスの手をゆっくりと押し戻した。
抵抗なく降ろされるその手からナイフを取り床へ落とせば、もう武器らしい武器は持っていないだろうとより一層厭らしく笑ってみせる。
「モリアーティ家の次男、若き天才数学者たるウィリアム・ジェームズ・モリアーティ…彼が特別大切にしているのはお前だな、ルイス。お前こそが奴の弱点たり得る存在だ。私の楽しみを邪魔した奴が絶望に満ちた表情になる一番効率の良い方法は、お前を使うことなんだよ」
弱点、という単語に思わず目を見開いた。
あれだけウィリアムの足手纏いになるまいと懸命に研鑽を重ねたというのに、ろくに存在も知らなかったような人間から弱点だと認定されてしまうほど、自分は未熟なのだろうか。
何故ウィリアムがこの場所にいるのかは分からないけれど、それがもし自分のせいならば、こうしてのこのこ着いてきてしまった自分こそがあまりに愚かだろう。
計画の邪魔になるのならば始末してしまおうと考えたのはあまりに早計だったのかもしれない。
動揺を隠せず赤い瞳を晒したルイスはラスキンに促されるまま部屋を出る。
向かった先はすぐ隣の部屋、開けた中には言葉の通り最愛の兄がいた。
「ルイスっ!」
「兄さん…どうして…」
「君こそどうして」
「待たせたね、モリアーティ教授。君最愛の弟を連れてきたよ」
駆け寄ろうとするルイスをラスキンが腕だけで静止し、ミルヴァートンだけが部屋の中へと足を進める。
振り切ってウィリアムの元へ駆け寄るのは簡単だが、ラスキンの手元にある銃がルイスの行動を制限させた。
自分が撃たれるだけならともかく、その銃口をウィリアムに向けられては困るのだ。
無表情であるその顔を横目で睨みつけてから、ルイスは靴音を響かせて部屋の中央へと歩くミルヴァートンに視線をやる。
「来い、ルイス」
呼ばれる名前に強い不快感を覚えながら、舌打ちをしてからルイスはミルヴァートンの元へと歩き出す。
背後には銃口を向けたラスキンが張り付いていて鬱陶しいことこの上ない。
そうしてウィリアムから距離を取った位置に行き、ミルヴァートンの背後から兄を見た。
何故ウィリアムがここにいるのだろうかという疑問はあるけれど、それはおそらくウィリアムも抱いている疑問なのだろう。
「喜ぶと良い、モリアーティ教授。君の弟は君のためにここへやってきてくれたよ。嬉しいだろう?大切な弟に思われているというのは兄冥利に尽きるはずだ」
「…何故、僕達をここへ呼んだのですか?ミルヴァートン卿」
「何、君に用があったのさ。私の仕事を悉く邪魔してくれた"犯罪卿"たるモリアーティ教授にね」
「ならば僕だけで良かったでしょう。何故ルイスの名を語り僕を呼んだのです?どうしてルイスがここにいる」
「答えは簡単だ。ルイスが必要だったんだよ、君に最大の苦痛を与えるためにはね」
ぴくり、とウィリアムの目元が動いたことにミルヴァートンだけが気が付いた。
鋭く睨みつけてくる理由はルイスにあるのだろうことがよく分かる。
それこそがミルヴァートンには蜜のように濃厚な愉悦だった。
ウィリアムが本物のモリアーティ家次男と入れ替わったのは間違いない事実であり、ならば養子と銘打っているルイスはウィリアムの実の弟であるはずだ。
彼の身辺調査をした限りでは、ウィリアムという人間は実に弟思いの良き兄だった。
学生時代の関係者及び現在居住を構えているダラムの町民がこぞって彼をそう評価しており、社交界での振る舞いも、なるほど過保護と言って良いほどに彼はルイスを囲っている。
そういった家族の情を大切にする人間を不幸にするのは実に容易い。
ミルヴァートンが掲げる理念として、その不幸の原因が己にあるのであれば尚更良い表情を浮かべるというのが定説である。
つまりこのウィリアムを最も効果的に破滅に追い込むためには、最愛の弟であるルイスを使うのが正解なのだ。
自分のためにルイスが貶められたとなればウィリアムは間違いなく破滅に向かう。
そしてそれをどう演出するかこそが、ミルヴァートンという人間が持つ腕の見せ所だった。
「ホワイト・チャペルでの一件にホワイトリー議員の暗殺…見事な采配で私の思惑を外してくれたこと、まずは褒めておくとしようか」
ミルヴァートンの舌に乗った白々しい言葉にウィリアムもルイスも嫌悪を滲ませた。
彼の口から出てくるほぼ全ての言葉が偽りなのだろう。
いや、本心の大半こそが狂気に満ちているのだから、偽りだらけの舌こそが安らぎなのかもしれない。
ウィリアムとルイスがそう考えていることなどさして興味もないまま、ミルヴァートンは前後にいる二人へ交互に視線をやった。
よく似た容姿の兄弟が揃って同じ表情で憤怒を表しているのは趣深いが、求めているのはそんなありふれた表情ではないのだ。
計画を台無しにしてくれたウィリアムを破滅に追い込むため、わざわざ手間をかけてルイスを連れてきたのだから。
ミルヴァートンが指で合図をすると部屋の外で控えていた手下が二人ともに入ってくる。
そうしてウィリアムの背後に立ち、下手な動きをすれば即座に始末するといったように手元の銃とナイフを突きつけてきた。
苦痛に顔を歪ませたルイスに咄嗟の笑みを見せ、向けられた武器を恐れることなくウィリアムは再びミルヴァートンを睨みつける。
「君が介入したせいで私は望んでいた結果を見ることが叶わなくなってしまったものでね…その代わりとして、モリアーティ教授に私が求めていたものを見せてもらいたい。ルイス」
「…何ですか」
「君の手でモリアーティ教授の腕を折れ」
「っ…な、にを…」
「余計な真似をすれば後ろのハリーとゴズリングが教授に致命傷を与える。せめて君の手で軽い怪我を負わせてやれ」
「……く…!」
「ルイス、僕は良いから」
「兄さん…ですが…!」
ミルヴァートンの提案は良いルイスの表情を引き出してくれた。
兄思いの弟が兄を傷付けるなど身を裂かれるほどつらいことだろう。
怒りと屈辱に満ちた表情がとても心地良いと思ったのも束の間、ウィリアムの表情は少しも変わらないどころか僅かな安堵を滲ませていることに気が付いた。
まるで、ルイスの身に危険がないのであれば全て問題ないとでもいうような、そんな感情が垣間見える。
どうやら最愛の弟に傷付けられることは彼の琴線に触れる行為ではないらしい。
「ふむ…」
動揺したままウィリアムを見ては首を振るルイスを、ミルヴァートンは己の肩越しに見る。
このままルイスがウィリアムの腕を折るかどうかはともかく、これではウィリアムを破滅に追い込むには些か不十分だろう。
最愛の弟の手で自らが怪我を負うのはウィリアムにとって大したダメージではない。
二人の雰囲気からそう判断したミルヴァートンは拳を握りしめているルイスの手元を見て、少しのスパイスを加えるべく自らの命令を翻した。
「ルイス。今そこで自分の爪を剥ぎ取れ」
「なっ…」
「…随分と僕への要求が多いのですね。優柔不断にも程があるのでは?」
「あぁ、教授の腕はもう良い。お前はともかく彼には大した効果もなさそうだ。それより…」
何気なく口にした提案は思いのほかウィリアムの心を揺さぶったらしい。
なるほど、ここが彼一番の弱点か。
ミルヴァートンは瞳を見開き怪しく笑っては悪魔の如く笑い声を上げる。
「ハハハハハ!なるほど、ここか!ここがお前を最も効果的に破滅に追い込むポイントなんだな!?そんなに嫌か?大事な弟が自分の前で己を傷付けるのは!」
「…っ…」
「返事は要らない。その顔だけで十分だよ、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。さぁルイス、爪を剥ぎ取れ。さもなくばお前最愛の兄は背後からその心臓を貫かれるぞ」
私が見たかったのはその顔だよ、教授。
なぶるようにそう言ったミルヴァートンよりも、ウィリアムの興味はルイスにばかり注がれていた。
ルイスはミルヴァートンの新しい指示に対し、明らかにその緊張を緩ませた。
緩ませたと言ってもウィリアムにしか分からない程度の気の緩みで、ゆえにルイスがどんな行動を取ろうとしているのかが手に取るように分かってしまう。
ウィリアムの腕を折るなどルイスには出来ないからこそ動作に合わせて自分で腕を折る算段だったのに、このままでは何の介入も出来ないままルイスは自ら爪を剥ぐ。
誰より守りたいはずの人が自らを傷付ける姿など、ウィリアムは絶対に見たくないし許せもしない。
勢いのまま突発的に行動してしまう性分の弟を思えば思うだけ嫌な予感が全身を襲う。
そしてウィリアムが背後にいる手下二人に構うことなくルイスの元へと駆け寄ろうとした瞬間、ぶちんと生々しい音がした。
「…爪はどうしますか?」
「目の前に捨てろ」
コツン、と小さな音がしたかと思えば小さな赤い点と薄桃色のかけらが落ちる。
それを見たウィリアムは思わず肩が跳ね、驚くほどに心臓が脈打つのを実感した。
赤い点に負けないくらいに真っ赤な瞳を見開いて、僅かに視線を上げればルイスの手元が目に入る。
細く白いはずの指先は、一部分だけが真っ赤に染まっていた。
「る、いす…何を…」
痛みを感じさせない涼しげな顔をした弟を、ウィリアムは絶望に満ちた表情で見る。
一切の躊躇なく左手中指の爪を剥いだルイスは間違いなく最愛の弟であるはずなのに、まるで得体の知れない別人のようだと思ってしまった。
肉の見える指先に滲んだ血液が段々と溜まりを作っては床に落ちる。
跳ねたそれに構うことなく、ルイスは静かに周りの気配を窺っていた。
この状況を打破する一手を探っているのだろうことは分かるけれど、今のウィリアムにとってこの場から逃れることよりもルイス自ら怪我を負った事実こそが重要事項だ。
「ハハハっ、良い顔だなぁウィリアム・ジェームズ・モリアーティ!最愛の弟がお前のために傷付く瞬間を見るのは初めてか!?良い弟じゃないか、兄のために身を呈して行動出来る素晴らしい弟だ!」
「ミルヴァートン、卿…!」
「ルイス、お前の兄はお前が傷付くことにこそ最も心抉られている!私のおかげで最愛の兄に大層大事に思われていることが分かって嬉しかろう!」
「……」
「あぁその顔だ。その顔が見たかった…犯罪卿、実に良い顔をしている。ルイス、もう一度爪を剥ぎ取れ」
間髪入れずにぶちん、と音がしたかと思えばまたもルイスの指先からは血が滴り落ちる。
顔色ひとつ変えない弟がいっそ恐ろしくて、ウィリアムは首を振ってこれ以上ないほどに顔を歪ませた。
ウィリアムはずっと昔から誰かがルイスを傷付ける世界を許せなくて、この国ごとルイスに相応しい場所へと浄化させようとしている。
何よりもルイスの安全を望み、全ての穢れから守ると決めて生きてきたのだ。
そうだというのに、従わずともどうにかやり過ごせるはずの状況でルイスは自傷することを厭わなかった。
己を人質に取ったミルヴァートンの作戦とはいえ、その誘いに乗ってしまうなんてウィリアムは少しも望んでいないのに、ルイスはウィリアムのためにいくらでもその身を差し出してしまうのだ。
そういう気質の子だと分かっていたけれど、いざそれを目の当たりにするとなると自らの腕を折るよりもよほど痛い。
ルイスが傷付くくらいなら自分こそが代わりたいし、自ら傷を負うような真似をするルイスの価値観なんて邪魔でしかなかった。
ウィリアムが今までにないほどの動揺と絶望を抱いていることを知るのは、この場ではミルヴァートンくらいのものだろう。
「…ルイス、どうして…っ」
ルイスが傷付く瞬間を二度も見てしまったウィリアムの衝撃は計り知れない。
足が震えて仕方がないし、どうやって立っているのか呼吸をしているのかすら分からなくなりそうだ。
ルイスだけがウィリアム唯一の希望だというのに、その希望自らが欠けてしまった。
それが自分のせいだということが何よりも許せない。
この状況を作り上げたミルヴァートンよりも、躊躇なく自分を傷付けたルイスとその原因になってしまった自分こそが最も許せなかった。
ふいによろめいたウィリアムを視界の端に収めつつ、ルイスはこの現状に満足していた。
ウィリアムに危害を加えるくらいなら、爪の二枚どころか両手足の指全てを犠牲にしても良いくらいなのだから。
実に楽しげな高笑いを上げているミルヴァートンの後ろ姿を眺めつつ、ルイスは背中に押し当てられていた銃口に意識を集中させる。
「どうして!?お前を守るために決まっているだろう!ルイスはお前を守るために自ら傷を負うことを選んだんだよ、モリアーティ教授!愛を感じて嬉しいだろう!?もっと喜んだらどうだ、破滅に落ちるお前の顔に歓喜が混じったとしても私は満足なのだから!」
「…っ!」
「ハハハハハ!」
ぽたりと落ちる血を見つつ、雑音に等しいその声を聞き入れる。
的確に心の隙間を突いてくる言葉を聞き流すのは難しい。
こんな形で愛を感じるなど喜ぶどころか、これが愛なのならばそんな愛などウィリアムは少しも欲しくなかった。
ただルイスの安寧だけを望んでいたはずなのに、そんな些細な願いすら叶わないことにこそ破滅を覚えそうだ。
笑うミルヴァートンと苦しむウィリアム。
傷付いた指先を庇うことなくそんな二人を見ていたルイスは今がチャンスだと、腕を背後に伸ばして当てられていた拳銃に触れる。
動かしづらいだろう指の動きはとても滑らかだった。
「なっ、!」
「近接での銃の扱いは不慣れなのですか?相手の体に銃口を触れさせるなど、愚行極まりないっ」
「お前っ…!」
直接銃口を押し当てられればラスキンとの距離を掴むことなど容易い。
その銃を頼りに腕を伸ばして奪い取られるリスクを考えていなかったのなら、こいつらはよほど生ぬるい世界を生きてきたのだろう。
ルイスはラスキンから瞬時に銃を奪い取り、奪ったそれが最も効力を発揮するだろう距離を取るためその足で彼の体を蹴り飛ばした。
思っていた以上に手応えは軽かったから蹴られると同時に後ろへ飛んだらしい。
だがそれで十分だと、ルイスは威嚇のためラスキンに向けて銃を放つ。
「ルイス、お前っ」
「動くな!」
「ぐっ…!」
そして状況を察したミルヴァートンに近付いてはタイに隠していた棒状のナイフを手にしてその首元を掠め取る。
このまま彼の喉笛を抉ってしまうのは簡単だ。
しかし片手で銃を向けた先にはラスキンがおり、ウィリアムの背後にもハリーとゴズリングが控えている状況でこれ以上刺激するわけにもいかない。
爪を二枚失っているのだから普段通りの動きは出来ないことを含め、慎重に行動すべきだろう。
ルイスは動揺して普段の冷静さを無くしているウィリアムを助けるため、最善のルートを導き出すため取り引きを持ちかけた。
「僕をみくびるなと言ったでしょう。一歩でも動けば躊躇なくその首を切り裂きます」
「ルイス、貴様…!」
「ミルヴァートン卿、取り引きをしましょう。兄に武器を向けている二人にこの場を離れるよう御命令を。そうすれば僕はこのナイフを下ろします」
「…は、私が犯罪卿の正体に気付いていると知って尚、優先するのは兄か」
ミルヴァートンはルイスこそがウィリアムの弱点だと指摘した。
事実、それは正しいのだという確信がある。
ルイスという存在の自傷行為はウィリアムの心を正確に抉ってみせたし、破滅に相応しい絶望に満ちた表情を見せて落ちてくれた。
だがこいつは弱点という簡単な存在ではないのだと、ミルヴァートンは突き付けられたナイフに舌打ちをする。
微かに痛みを感じるから切先は既に皮膚を破っているのかもしれない。
ここでルイスが持ちかけた取り引きに応じることで命が助かるのかを思案するが、盲信的なその様子から察するに、彼はまず間違いなく兄のためにミルヴァートンを見逃すことだろう。
兄の命以上に優先するものはない。
ウィリアムもルイス以上に優先するものはないだろうから、ここで深追いしてまでミルヴァートンを追い詰めることはないはずだ。
このままルイスの心臓を撃ち抜く瞬間でも見せればウィリアムの心を打ち砕くことが出来たかもしれないが、もう十分に面白いものは見られたのだからここが潮時だろう。
ウィリアムこと犯罪卿を最もセンセーショナルな形で世間にその正体を暴く方が、今と同じくらいにきっと楽しい結果が見られるはずだ。
そうすれば最愛の弟が傷付く瞬間を見て脆くなった心を、世間体ごと潰してしまえるに違いない。
「…良いだろう。ハリー、ゴズリング、出ていけ」
「あぁ。行くぜ、ゴズリング」
「……む」
「…ルイス」
二人はミルヴァートンの指示を聞いて出て行き、やっとウィリアムは自由になる。
同時にラスキンが動き出す気配がしたため、ルイスは持っていた銃の引き金に指を掛けていつでも撃つという覚悟を見せてウィリアムへと近付いた。
そうしてウィリアムの前に立ち、ラスキンからミルヴァートンに銃口を向け直して再び指示をする。
掲げた銃を支える指先は固まった血がこびり付いていた。
「今すぐこの屋敷から立ち去ってください。それまでここは動きません」
「…行くぞ、ラスキン。興が醒めた」
「はい、ミルヴァートン様」
引き際を心得ているようにミルヴァートンはあっさりとその場を去るべく靴音を立てる。
まだ油断は出来ないとルイスはじっとその後ろ姿を睨みつけ、いつでも銃を撃てるよう呼吸を整えた。
そうしてカツカツと響く音が止んだかと思えば、ミルヴァートンは苛立ちと狂気がない混ぜになった表情で言い放つ。
「よく聞け、犯罪卿。貴様らは必ず私が破滅に追いやる。せいぜい束の間の余暇を楽しんでおくことだ」
ばたん、と重苦しい扉が閉じる。
厄介な相手に目を付けられたものだと、ルイスは唇を噛み締めながら銃を落とす。
自由になった指先をすぐにウィリアムに取られたかと思えば、泣きそうなくらいに歪んだ顔と言葉にならない声でたくさんの心配と叱りと愛を受けることになった。
(中々面白いものが見られた。大罪人であるモリアーティの正体を最も効果的に暴くにはホームズが最適だが、万一の保険としてルイスの奴も巻き込んでしまった方が楽しそうだな。あの様子では奴がルイスを離して行動することはないだろう。ハリーにルイスの相手を任せて、然るべきタイミングでモリアーティとホームズとの対峙に巻き込んでしまえば…フハハ、これはまた面白いものが見られそうだ!)