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『養生訓』に学ぶ

2018.09.25 03:30

https://www.asahi.com/articles/ASNDB6QFXND9ONFB00P.html 【流行り病に江戸期の知恵 資料展がコロナ禍で注目 三重】より

 コロナ禍の収束が見えない中、三重県多気町の多気郷土資料館で、はやり病や健康法についての江戸期の書物などが展示され、来館者の関心を集めている。本草学者で儒学者の貝原益軒(1630~1714)が著した「養生訓」もある。

 町の偉人で本草学者の野呂元丈(げんじょう)(1693~1761)、西村広休(ひろよし)(1816~89)に関する資料を紹介する企画展「本草学とふるさと」の一部。元丈は幕府の採薬使となり、蘭学(らんがく)の先駆者ともなった。豪商の広休は植物園を造り、収集した植物の研究に励んだ。

 「流行(はや)り病」と題したコーナーでは、コレラや麻疹、天然痘の対応方法、治療法、養生について記録した資料を紹介。「飢饉(ききん)に備える」では、本草の知識で野草を食べてしのいだ先人の知恵がうかがえる。

 養生訓は、益軒が長寿のための心得を指南した書で実体験に基づいて健康法を説いた。「老人病あらバ先(まず)食治(しょくち)すべし。食治応ぜずして後、薬治(やくち)を用ゆべし」と投薬の前に食事の見直しを勧めるなどしている。

 13日まで、午前9時~午後4時、入館無料。問い合わせは多気郷土資料館(0598・38・1132)。(中川史)


https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00582619 【産業春秋/『養生訓』に学ぶ】より

儒学者の貝原益軒は平均寿命が40歳に届かなかった江戸中期、85歳の天寿を全うしてみせた。認知症や寝たきりにならず、83歳の時に『養生訓』を書き上げている。

健康のための技術や知識を述べた単なる体験記ではない。ほのぼのとした人間愛が立ち上る「人生の指南書」といえる。養生で肝要なのは「人慾を畏れてつつしみ忍ぶにあり」と自身の欲望を戒め、我慢の大切さを説いている。

「万の事、一時心に快き事は必ず後に禍となる。(中略)欲をこらえすまして、後は、よろこびとなる也」。新型コロナウイルス禍の現代人に、生き方の心得を諭してくれているかのようだ。

第3波の渦中で迎える年末年始は我慢のしどころになりそうだ。帰省を控え、マスク着用と換気を励行し、家族とこたつを囲んで静かに過ごす。制約が多くても、それなりの楽しみ方はある。家族の絆を強める時にしたい。

「内慾をこらゆるを以て本とする。本をつとむれば、元気つよくして外邪おかさず」。今日に当てはめれば、畏れるべきはコロナより人間の内なる欲望か。健康な生き方の基本には普遍性があると気づかされる。300余年を経ても『養生訓』の精神は温かく人の心を包む。


https://mainichi.jp/articles/20200610/k00/00m/040/052000c 【新型コロナ 打ち勝つヒントに「養生訓」 福岡市博物館が貝原益軒の名言掲示 SNSでも発信】より

毎日新聞 2020/6/10 10:32(最終更新 6/10 13:12) 有料記事 592文字

「『養生訓』ナナメ読み」の一つを手にする宮野さん。館内では江戸時代に出版された「養生訓」(左手前)が常設展示されている

 福岡市博物館(福岡市)は、新型コロナウイルス感染症に打ち勝つヒントにしてもらおうと「『養生訓』ナナメ読み」と題し、江戸時代の儒学者で福岡藩の藩医を務めた貝原益軒の健康指南書「養生訓」からえりすぐりの名言を館内に掲示している。

 益軒は福岡藩士の家に生まれ、儒学や歴史学、医学などの研究に努めた。一方で「養生訓」をはじめ日本初の本草書「大和本草」「筑前国続風土記」などさまざまな分野の著作を残した。同館には当時出版された「養生訓」などが常設展示されている。

 新型コロナの影響で休館していた同館が5月19日から再び開館するにあたり「地域の皆さんに役立つ情報を」と、「養生訓」から10編を選んで要約を添え、館内に掲示することにした。その中の一つ「病ある人、養生の道をば、かたく慎(つつ)しみて、病をば、うれひ苦しむべからず」――と長く続く文は、末尾に「心配のし過ぎは体に良くない」と分かりやすくまとめている。他にも正しく恐れることや、毎日体を動かすことの大切さ…


https://www.axa.co.jp/100-year-life/health/20181029/ 【貝原益軒の『養生訓』。江戸時代のベストセラーが教えてくれる、健康長寿の心得とは?】より

今や人生100年とされる時代ですが、わずか300年前、江戸時代の日本人の平均寿命はその半分にも満たなかったといわれています。

いわば人生50年時代。そんな“短命社会”にあって84歳まで生き、晩年に著作を連発するなど精力的に活動したのが儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)。亡くなる前年、83歳の頃にはその健康長寿の心得を著した『養生訓』を出版し、当時のベストセラーに。今も現代語版や解説書が繰り返し出るなど、世代を超えて読み継がれています。

果たして、貝原益軒が指南する「養生」とはいかなるものなのか?いつの世にも通じる普遍的なその考え方について、養生訓と貝原益軒の研究分析を行う武蔵野学院大学の謝心範教授に伺いました。

身体が弱かったからこそ養生に努めた貝原益軒

養生とは日々の生活に留意し、健康の増進を図ること。摂生に努め、病気を予防することです。貝原益軒もまた、若い頃から徹底して養生に務めてきたといわれています。

「貝原益軒は、じつは生まれつき身体が弱かった。若い時に重病を抱え、強壮の状態ではない人生でした。でも、だからこそ順風満帆な人よりも余計に身体に注意しながら人生を送ってきたと考えられます。彼は平均寿命50歳未満の時代にあって、80歳を超えても歯は一本も落ちず、暗い夜でも小さい文字の読み書きができたと自ら書き残しています。そして、それこそ『養生』の賜物であると」(謝心範教授、以下同)

身体が弱かった貝原益軒は幼い頃から書を読みふけったといわれています。なかでも興味のあったテーマが医学や薬学、そして「健康」であったのではないかと謝教授は推測します。

「貝原益軒も最初から『養生』というテーマに行き着いたわけではないと思います。最初は自分の身体が弱かったことから医学や薬学といった『治療方法』の追求に興味を持ち、それを段々と深めていくうちに養生という思想、価値観が固まったのではないでしょうか。薬よりも日々の食事、栄養バランスや運動バランス、身体の使い方、お酒の飲み方が大事であると、自らの体験を通じ解釈してきた。治療法を勉強するより養生方法を追求することにシフトしていったわけです」

まずは何より「心の養生」が大切

では、具体的に貝原益軒が説く「養生」とはどんなものなのでしょうか?古くは古代中国、老子の時代からその考え方は広まっていったと言います。

「養生文化をそのルーツにまで遡ると、中国古来より長い年月をかけて蓄積されてきたものだとわかります。貝原益軒の養生訓も漢籍、つまり中国の古典の本の影響を強く受けています。その特徴は、できるだけ病気にならないこと。病気になってから対応するのではなく、病気にならないためにどうするか、いかに健康に気を配り心身を維持していくかということです。それは、死因リスクの割合の約6割を生活習慣病が占める現代社会においても、改めて見直すべき考え方。今の時代こそ、養生のノウハウの重要性を知ること、貝原益軒から学ぶことは社会的に意義があると思います」

では、具体的にはどうすればいいのでしょうか?養生訓には食欲、色欲を慎み、運動、栄養、休息を過不足なく生活すること、かかる医者を吟味すること、薬と効能と害など具体的な養生の指南が記されていますが、なかでも最も大事なのは「心の整理」であると謝教授は言います。

「養生訓には考え方、心を整理することが人生で最も大事なことであると何度も書かれています。それは、自分と他者の身体や精神に、深く心を配ること。つまり『思』であり、それは『心』の働きに関わっていると。養生のためには飲食の欲、性欲、睡眠の欲を抑制しなければなりませんが、それには心のコントロールが必要不可欠だからです」

心は不動のものではなく、社会や外部環境との相互作用によって大きく変化します。そのため心をコントロールすることは容易ではありませんが、だからこそ「養生とは何より心の養生である」と貝原益軒は説いています。以下、『養生訓』第105項・第59項目より引用します。

“養生の術は、まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものだ。心を静かにして落ちつけ、怒りをおさえて欲を少なくし、いつも楽しんで心配をしない。これが養生の術であって、心を守る道でもある。心法を守らなければ養生の術は行われないものだ。それゆえに、心を養い身体を養う工夫は別なことではなく、一つの術である”

“心を平静にして徳を養う 心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。その方法は同じなのである。口数多くお喋べりであること、心が動揺し気が荒くなることは、徳をそこない、身体をそこなう。その害をなす点では同様なのである”

貝原益軒の晩年に学ぶ、人生100年時代の老後

なお、貝原益軒は84歳でその生涯を閉じますが、その晩年は大変価値あるものであったと謝教授。彼のエネルギッシュな老後は、人生100年時代の今だからこそ見習うべきところが多いと言います。

「貝原益軒は70歳まで黒田藩に努め、以後は退任して死ぬまでの間にさまざまな本を書きました。彼の著作の大半は70歳以降のものです。毎年一冊以上、それも全く異なる種類の本を出しているんです。それはまさに、それまでに培った人生の価値観の実演。老後を迎えるまでに得た知識やノウハウ、価値観を放棄せず、高齢になってなお努力して形に残したわけです」