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Baby教室シオ

偉人『津田梅子』

2021.12.03 00:00

2024年からの新紙幣の刷新により5千円札の肖像画が津田梅子になる。彼女は日本初の女性留学生、明治時代の女性の高等教育の先駆者でもあり、津田塾大学の創立者、そして現在の女性教育に多大な功績を成し遂げた人物である。彼女は時に強く逞しく、そして厳しい人物のように取上げられるが、そう評価されるのも女子教育への熱量が漲っていたからである。

梅子が生きた時代は明治政府が欧米に追いつくために『優秀な人材の育成には教養ある母から』という賢母政策のために募ったものであった。多くの優秀な逸材を生み出すためには賢い母親の育成が必要だということであって、決して女性の地位向上や教育の普及を推進したものではなかったのである。また選ばれた5人の少女たちは全て戊辰戦争で一家没落を余儀なくされた旧幕府の臣下の娘である。津田梅子もその一人であった。

梅子の父津田仙は当初梅子の姉に留学の話を持ちかけたが断られ、ならばと満6歳の梅子が行くことになったのである。岩倉使節団としてアメリカに向かった子女は、6歳から13歳までの少女たちで晴れ着を着て横浜港から旅たった。5人は自分自身の意思で留学したのではなく家族の説得でこの使節団に参加していた。旧幕府の臣下は江戸城無血開城で一文無しとなり、豊かな暮らしから娘を芸妓に売らなければ生活が出来ない者もいたのである。よって少女たちの使節団参加はお家復興の大博打であった。

23日間の船旅で少女らは船酔いやホームシックでかなり落ち込んでおり、同船している伊藤博文に励まされながらサンフランシスコに到着した。

アメリカに到着したばかりの頃梅子が話せる英語は『 thank you 』の一語、ワシントンの弁務官で働く子供のいないチャールズ・ランマンと妻アデリンに預けられた。身振り手振りの意思疎通の中でランマン夫妻は我が子のように梅子を可愛がった。言葉が分からないままジョージタウンの小学校に通い、帰宅後は父仙の英語入門書と英和辞典を片手に猛勉強をした努力家である。

根を詰めて学ぶ7歳の少女を心配したランマン婦人はその理由に驚かされた。

「もし私が良い子であればアメリカの人々は良い父と母の存在を思うでしょう。しかし私が悪いことをしたら私の両親も悪い人だと思われます。そして日本人はみなだめなのだと思われるかもしれません。」

梅子がそのような発言をしたのは、父仙が深く関係している。そのことにつては後で記すことにする。

梅子の英語力は猛勉強によりめきめきと上達し地元の新聞に記事が載るほどであった。女子教育が進んでいるアメリカでの中等教育で梅子は、数学・物理学・天文学・フランス語・ラテン語学び、ラマン家にあるシェイクスピアなど多くの文学も読破した。ラマン夫妻は梅子の可能性を広げるために有名に詩人や文学者と面会させ、万博や旅行へとに連れ立ち将来を見据えた新しい学びを多く経験させたのである。

アメリカで年数を重ねるうちにこの恵まれた経験を日本の女子教育に活かそう、学校を作ろうとの決意していくのである。

梅子はランマン夫妻の温かな思いの中で芯の強い思いの中で全力を尽くし多くを吸収した。この芯の強さはやはり父仙譲りであると考えている。梅子の熱量を知るには父仙について知っておく必要がある。


梅子の父仙は佐倉藩士の子として誕生し、蘭学や英学を修め江戸幕府の外国方奉公通弁役となり、30歳で遣米使節の通訳として渡米し男女平等や西洋の農業を学んだ人物である。

実はこの父は一般的に知られていないが、彼の回りにいた人物は名だたる人物ばかりである。軍艦の引渡し交渉の通訳として共に同行したのが福沢諭吉であり、内村鑑三や新渡戸稲造らとの交流、足尾鉱毒事件では田中正造を助けるなど他にも多くの文化人との交流がある国際派の人物である。


父仙は幕臣としての職を失ったものの明治政府の意向で英語力を買われ築地ホテルに勤めた。幕臣時代にアメリカでの見聞きし経験の中で、これからの時代には教育が重要だということを肌で感じ、帰国後は西洋的農業を学ぶ農学校を設立し、また青山大学の創設や視覚障がい教育へも携わり現筑波大学付属視覚特別支援学校設立にも携わった人物である。父仙は大平民と言われ娘梅子のように有名ではないが、先見があり日本の近代化の立役者である。また梅子が女学校設立を願い行動を起こせたのは、やはり国際派で直情快行、義侠心溢れる父の存在が大きく関係し、この父あって娘ありといえる。

父仙はとても大らかで困っている人がいると放っておけず、直情的に行動を起こしその行動力は群を抜いていたという。また天真爛漫な一面があり同時に情が深く涙もろい人物であったそうだ。この天真爛漫さは梅子にも受け継がれ「ハハハハ」と笑う姿が印象的だったそうだ。彼を慕う人は多く官界、外交、実業家、教育や宗教家など幅広い人が集まり、社会事業や福祉活動も精力的に行った。梅子の日本の女子教育のために力を尽くすバイタリティーはこの父から得たものだと考える。

また年端も行かぬ幼い梅子が言葉も分からず、慣れないアメリカで信望強く頑張ることが出来たのは、母初がアメリカに着いたら開ける様にと渡した木箱の中に入っていた手作りの人形である。決して人前では泣かない梅子であったが、母が持たせてくれた人形を抱いて泣いた夜は幾晩もあったそうだ。母の細やかなる思いを感じ異国での生活を謳歌できたことは両親の愛情の形成があったからこそである。

父仙や母初の躾や教育あってこそ梅子は目指すことを実現できたと言えよう。親は子供の土台になり、親の生き方を見て育つ子供の生き方などに否がおうにでも反映されていることを日々目にしているからこそ気付くことであるが、そのことに気付き子育てをしている親御さんはどれだけおられるだろうか。親の背中を見て育つ時代ではなく、親の一挙手一投足、発言や物の見方、感じ方、考え方全てが影響を与えてしまうことを心しておくことが肝心だ。

父仙、娘梅子は教育という共通の大きな目標を置き土産として日本に残してくれた。その熱量をまた心にし、今日もまた幼き生徒さんへと相対そうと考える。