イラッとしたら、我慢が見える。|お金を忘れて3日目、その記録
昨日、とある友人とLINEのやり取りをしていた。
具体的なことは言えないが、僕はその相手の発言に少しイラッとしてしまった。
計画性のない無謀なことをやりたいと言っていたからだ。
僕の心の中では、「そんなこと無謀だろ」「もう少し考えて行動しなよ」ということを思っていた。
もちろん応援したい気持ちはあるのだが、浮かび上がってきた感情はこれだった。
イラッとしたり、怒りの感情が生まれたら、それは相手の問題ではない。
その相手に反応してしまっている自分の心に問題がある。
なんでその友人の発言に反応してしまったのか、自分の心に向き合ってみた。
僕の心は羨んでいた。
そうやって先のことを考えないで、やりたいことをやりたいと言って行動できてしまう、その相手を。
いやまぁ、羨むといっても僕だって同じタイプの人間だ。先を考えない無謀なタイプだ。でも羨んでいる。不思議な話だ。
僕は無謀な行動を恐れている。
そして、無謀なことをしたら失敗すると思い込んでいる。
行動には計画が必要だと思い込んでいる。
というか、社会人になってそうやって教わったので、その通りにしてきた。
それを、我慢してやっていた。
そう、ここに我慢があった。
我慢して計画を立てて、ロジカルに考えなければならないと思い、我慢しながらその通りにしていた。
やりたくもないことをやっていた。
それをいとも簡単に打ち破っている、その友人を見て羨ましかったのだ。
そして、イラッとしてしまったのだ。
といっても、果たしてその友人がいとも簡単に打ち破っているかなんて分からない。
実際にこれまで書いたような本音を伝えたところ、やっぱりその友人も辛い思いをしていたし、不安を抱えていた。
不安の中で、勇気を踏み出そうとした。
その勇気を僕は踏みにじってしまうところだった。
計画性の無い行動に対して、沢山の人たちはそれを「無謀だ」「やめたほうが良い」「何考えてるの?」と必死に引き留める。
それは相手のことを考えての行動かもしれない。
でも、本当に本当の心の中には、ただそのルール違反に思われる行動を止めたいだけだ。
これまでそのルールに則ってきた自分たちの”我慢”が無駄になってしまうことが悔しいだけだ。
僕らは自分を正当化することに必死だ。
その正当化の裏には必ず"我慢"が隠れている。
我慢しているから、人を羨む。人を憎しむ。人を傷つける。
今回の我慢は「無謀なことに挑戦すること」だった。
我慢しているということは、それをやりたいということだ。
だとしたら、行動に移せばいいだけだ。
勇気が必要だが、ただそれだけのこと。