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「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 明治時代になっての「大名」と「家臣」のあるべき姿を描いた名作

2021.09.28 22:00

「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 明治時代になっての「大名」と「家臣」のあるべき姿を描いた名作


 水曜日は「大河ドラマ 青天を衝け」について書いている。青天を介は、今回駿府にいた渋沢篤太夫が、その名前を返上し、そして新政府に出仕を求められる場面を描いた。だいたい明治二年の冬か明治三年の初めの頃の事である。

 さて、史実では渋沢栄一は、士分の時は「渋沢篤太夫」と名乗っていたが、明治になり徳川慶喜が赦免されれば、その時に士分を返上し「渋沢栄一」に戻ることになる。現在で言えばあまり大きな内容ではないかもしれないが、この当時はかなり大きな内容である。まだ「家」という制度が重要視されていたが、その「家」が「武士の家」なのか、あるいは庶民(商人・農民など)の家なのかということはかなり大きな内容になる。「家格」の違いが出てくるということになる。

 渋沢栄一は、自ら士分を捨てたということになるのだが、この後、廃刀令・四民平等となって武士がいなくなってしまうので、少し時代を先取りしたかのような感じだ。

 ドラマにもあるが静岡で株式会社を作り、それで富をためる。1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。

 実際にこの渋沢栄一の行動が、日本での銀行に繋がり、なおかつ、日本の投資市場ができるようになる。ここから、日本の資本主義が始まるということになるのではないか。

 さて、この時代には、まだ「薩長」が中心で、政治に慣れていない公家と、少数の薩長が政府にいて、幕臣の多くが失業している段階であった。薩長もそのことがよくわかっていたので、明治2年から徐々に幕臣を雇った。それが大久保利通によって「官僚組織」というようになったのである。その先駆けとなったのが、幕臣、そして徳川慶喜の直臣であった渋沢栄一の登用である。

『青天を衝け』“慶喜”草なぎ剛、“篤太夫”吉沢亮に最後の命 2人の別れに視聴者涙「最終回くらい泣ける」

 俳優の吉沢亮が主演を務める大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合/毎週日曜20時ほか)第28回「篤太夫と八百万の神」が26日に放送。慶喜(草なぎ剛)が篤太夫(吉沢)に下した最後の命と、2人の別れに「最終回くらい泣ける」などの声が相次ぎ、反響が集まっている。

 篤太夫は新政府から大蔵省への出仕を求められたが、直接断るために東京の大隈重信(大倉孝二)の元へ向かい、辞任を申し出る。しかし、大隈から「君は新しか世ば作りたいと思うたことはなかか?」と尋ねられると、篤太夫は「この世を変えたい」と思っていた自分の気持ちを思い返す。大隈は国をひとつにまとめるのはこれからだといい、篤太夫を“八百万の神”の一柱に例え、どんなに篤太夫が必要なのかを熱弁。大隈の熱弁を聞いて、篤太夫の胸は高鳴ってしまう。

 一方、慶喜はようやく謹慎を解かれ、自由の身に。篤太夫が慶喜に東京でのことを話すと、慶喜は「行きたいと思っておるのであろう。日本のためその腕を振るいたい、と」と篤太夫の胸の内を読み「ならば私のことは忘れよ。これが最後の命だ。渋沢、この先は日本のために尽くせ」と篤太夫に最後の命を下す。

 篤太夫は頭を下げ、徳川の家臣になった際に平岡(堤真一)から与えられた篤太夫の名を返し、元の名に戻すことを告げる。慶喜が「元の名はなんだ」と聞くと、篤太夫は「渋沢栄一と申します」と慶喜の目を見ながら回答。慶喜は「渋沢栄一…」と、かつて馬に乗っていたときに「渋沢栄一でございます!」と後ろから走って追いかけてきた栄一の姿を思い返し「そんな名であったかなぁ」とほほ笑む。栄一は「今までありがとうございました」と感謝。慶喜が「渋沢栄一。大儀であった。息災を祈る」と伝えると、栄一は目を潤ませながらも笑みを浮かべ、より深く頭を下げるのだった。

 大隈の熱弁ぶりに視聴者からは「大隈さんの勝ち~」「栄一が口で負けた」「栄一くん論破された」「言い負けちゃった笑」などの声が続出。慶喜の篤太夫への最後の命と、2人の別れのシーンには「栄一との出会いを思い出す慶喜の表情…」「栄一の名前を聞いて、出会いを思い出す慶喜にジーンときた」「すごく切ない」「最終回くらい泣ける」「めっちゃ寂しくてたまらんかった」などの声が殺到し、反響を集めている。

2021/9/27 クランクイン

https://www.crank-in.net/news/94488/1

 さて「青天を衝け」では、徳川慶喜に会いにいった渋沢栄一と徳川慶喜のある意味で「今生の別れ」に近いような会話がなされる。当時の幕臣は皆そうだったのであろうと思うが、「忠誠心」ということと「自分の生活」ということが大きな関係になってくるのではないか。現在もそうであるが、会社や組織に対する忠誠心がいくらあったとしてもその会社や組織が生活費を払えなかったり、あるいは倒産してしまったりした場合には、それでも忠誠心を優先するのか、あるいは、自分の生活を優先するのか、あるいは、新たな会社に対して忠誠心を尽くすのかということが、非常に大きな内容になってくるのである。そのようなことはよく言われることになるのではないか。

 徳川慶喜は、その元の組織のトップとして、その古い組織に忠誠心を誓う渋沢栄一に対して、「日本のために尽くせ」と命ずる。このようなことを言えるトップは本物のトップであるといえるし、全体を見ることのできる人であったと思う。一方、それで涙を流しながら頭を下げる渋沢栄一は、やはり忠誠心を持った武士であったのであろう。渋沢栄一は、平岡円四郎に拾われるように登用され、そして、忠誠心を培って、この時を迎えたのではないか。

 この時代、「農民出身」の方が忠誠心が高い傾向がある。武士にあこがれて武士になった人と、先祖伝来な武士では、武士の世界の良い物と悪いところが全て見えてしまっているであろう。農民出身でありながら幕府に最後まで尽くし、新政府に抵抗した新選組は多くが農民出身であったし、また、私が書いた「山田方谷伝」の主人公山田方谷も、お家復興であり幼少の頃は農民であったのだが、最後まで最後の老中であり主君であった板倉勝静に忠誠を誓っているのである。そのようなことを考え合わせると、この慶喜との会話は非常に心に響くものがある。

 一方、大隈重信と渋沢栄一の会話は非常に面白い。この中で、慶喜との会話を引き立たせるために、こちらの会話をコミカルにした演出は、なかなか興味深い。一方、さすがに大河ドラマであるというような伏線の付け方も面白かった。「島津久光と西郷隆盛は薩摩に帰ってしまった」という、岩倉具視のセリフは、今後西南戦争に向けての様々な話になってくるのではないか。もう一度戦争を描く大河ドラマのことがよくわかるような気がするのである。

 なかなか明治になっても面白い内容になったのではないか。