Okinawa 沖縄 #2 Day 139 (30/09/21) 旧小禄村 (8) Akamine Hamlet 赤嶺集落
旧小禄村 赤嶺集落 (あかみね、アカンミ)
- 赤嶺自治会館
- 赤嶺緑地公園、赤嶺御嶽
- 西ノ御嶽 (イリヌウタキ)、上ノ御嶽火神 (ウィーヌウタキヒヌカン)、上ノ御嶽 (ウィーヌウタキ)
- 火神殿内ノ御嶽 (ヒヌカンドゥンチヌウタキ)
- 金満 (カニマン) アジシー、金満御嶽 (カニマンウタキ)、安里之殿 (アサトゥヌトゥン)
- 井戸拝所
- 仲本のアジシー
- 石シーサー広場、雨乞い広場
- 竜宮神
- 小禄尋常小学校跡 (当間学校跡)
今日は新型コロナの二回目の予防接種で、集落巡りの時間は限られている。接種会場に近くを選んで訪れる。今は旧小禄村を巡っているので、その中で東側の赤嶺集落とした。ここには先日 (9月27日) に訪れたのだが、見落としているところもあり再訪することにした。ここからだと接種会場までは5km程なので、ギリギリまで時間が使える。
赤嶺集落訪問ログ
旧小禄村 赤嶺集落 (あかみね、アカンミ)
赤嶺集落村立ての元祖は並里大主 (並里ウフヌシ) と言われ、赤嶺の最初の住人で、仲本門中の祖でもある。佐敷村字新里の並里按司の六男として生まれている。長男 辺土名大主、次男 豊見城大君、三男 金城按司、四男 東風平大君、五男 大里大君、六男小禄大君 (並里大主赤嶺の祖)、七男 南風原大主、八男 上江田南捷、九男柄良大主の兄弟と各地に散らばった一族であった。小禄村では非常に古い歴史をもった集落にあたる。
字赤嶺は1903年 (明治36年) に字金城とともに字安次嶺村に合併されたが、それは行政便宜上の事で、実際の運用は独立して行われていた。1956年 (昭和26年) に、赤嶺と金城が再び独立行政区となっている。
いつ頃から土地が返還され始めたのは書かれていなかったのだが、人口統計データでは1960年代には少人数ながら、住民登録がある。 (30人~70人) 1970年代に入ると、住民が増え始めている。1950年半ばから、少しづつ土地返還なされていたのではないかと推測できる。1984年から1987年まで、人口は数十名二減っているが、その後は小禄金城土地区画整理事業が壇愛的に完了し、入居が始まり、一気に人口は増える。この前の人口が減少している期間は事業工事のために住民が一時的に転居したためではないかと推測できる。2004年以降は人口世帯数とも増加は収まり微増となり、近年は僅かに減少傾向にある。
1980年 (昭和55年) には国道331号以東の軍用地が開放され、小禄金城土地区画整理事業で近代的な街に生まれ変わった。ゆいレールの赤嶺駅も開業され、大型ショッピングセンターも近くにあり、ここも那覇のベッドタウンとして人気が高い。
赤嶺駅の直ぐ北側にはゆったりとした空間の県営赤嶺市街地住宅 (280戸) も建てられている。戦前はここには小禄尋常小学校が建っていた。(後述)
国道331号以西は沖縄本土復帰後も、海上自衛隊沖縄航空隊、航空白衛隊那覇基地として継続使用され、返還は叶わなかった。ただ、この場所は元々は畑地帯で、民家は無かったので、やはり、旧小禄村の全域接収された他の集落に比べ恵まれている。
赤嶺自治会館
小禄金城土地区画整理事業で新しくつくられた住宅街の中に赤嶺自治会館がある。他の集落の自治会館程豪華なものではないが、綺麗に整備されていた。
赤嶺緑地公園、赤嶺御嶽
元々の集落内があった安里之殿 (アサトゥヌトゥン) と安里之井 (カー)の近くに赤嶺御嶽 (神名: ナヱカサノ御イベ) があったが、慶長の役後、経済的に困難な状態となり、首里王府は農業政策である地割制度が寛文年間 (1661 - 1672) 施行され、農地に適した地にある集落は農地不適合地に移住させられた。赤嶺集落も安里原 (現在のモノレール沿線赤嶺安里原バス停付近) から赤嶺原へ移住。御嶽も元の場所から、上ヌ毛 (ウィーヌモー) と呼ばれた丘陵地移された。字赤嶺全域が米軍軍用地として接収された際、住民は宇栄原に住み始め、1953年に赤嶺御嶽と集落に点在していた拝所を合祀し、宇栄原 佐安志原に移動した。
軍用地が返還された後、小禄金城土地区画整理事業の当初の計画では、かつて御嶽があった上ヌ毛は削り平坦地と造成して住宅地となる予定だったが、元集落民達の反対運動で、御嶽のある部分は造成を免れた。1998年 (平成9年) に、ここに赤嶺緑地公園を造り、その一画に元々集落内にあった他の拝所も集めて祀られている。公園のてっぺんに那覇市水道局の赤嶺配水池の配水タンクがあり、遠くからでもよく目立っている。
西ノ御嶽 (イリヌウタキ)、上ノ御嶽火神 (ウィーヌウタキヒヌカン)、上ノ御嶽 (ウィーヌウタキ)
御嶽内には幾つもの拝所がある。手前から見ていくと西ノ御嶽 (イリヌウタキ)、上ノ御嶽火神 (ウィーヌウタキヒヌカン)、上ノ御嶽 (ウィーヌウタキ) とある。御嶽内には西と上の二つの主要な拝所があったようだ。この上ヌ毛全体が聖域としての御嶽だったのだろう。
火神殿内ノ御嶽 (ヒヌカンドゥンチヌウタキ)
隣には赤瓦の祠の火神殿内ノ御嶽 (ヒヌカンドゥンチヌウタキ) がある。御嶽内の火の神だ。
金満 (カニマン) アジシー、金満御嶽 (カニマンウタキ)、安里之殿 (アサトゥヌトゥン)
続いて、殿がここに移設されている。金満御嶽 (カニマンウタキ) は厳密には御嶽では無いと思う。金満アジシーの墓も祀られているので、同じ所にあった拝所が御嶽と呼ばれるようになったのだろう。
井戸拝所
仲本のアジシー
赤嶺御嶽から公園内を上に登ると途中に仲本のアジシーがある。赤嶺集落の祖とされ、国元 (クニムトゥ) である仲本門中の先祖の墓だ。ここに葬られていた勢理客大親には多くの伝説がある。
- 勢理客大親は人並はずれた力持ちの大武士と言われ、その名は遠く首里方面まで聞こえていたと言う。その名声を伝え聞いた首里の武士が、腕試しに大親のところにやってきた。そこで大親は、100キロ近くもある石造りのタバコ盆を、ひょいとその武士の前に差し出したところ、これは大変な力持ちで、とても自分の勝てる相手ではないと、乗ってきた馬にまたがり退散したという。そこで大親は、これとばかりに追いかけて行って追いついた所がクビリ毛であった。そして勢よく走る馬の後ろ足をつかまえ引き裂いたと言い伝えられており、クビリ毛が後に馬ハラサーという名がついたとも伝えられている。(この話は旧喜屋武村 束辺名のタラチーメーのヒートゥイに残っているビンタルチー伝承とほぼ同じだ。)
- 高良に内間ブサーという力持ちがいて、大親と力くらべをした。その時、大親が一鍬で打込み作ったのが中間井戸だといわれ、小禄尋常高等小学校の東側にあって戦争前まで豊富に水をたたえていた。
- 現在の空港ターミナルの近くにも、海岸に大親が握りこぶしで堀ったというテージュクンカーが残っていた。
石シーサー広場、雨乞い広場
更に上に登ると広場がある。石シーサー広場、雨乞い広場の二つがひっついている。石獅子は無かった。昔はここにあったのだろう。雨乞いと名がついているのでここで赤嶺ノロが雨乞いの儀式を行ったと思う。
竜宮神
更に登り頂上には派手な色合いの給水タンクがあり、その前に竜宮神を祀った拝所があるはずなのだが、草が腰のところまで生え放題で見当たらない。ちょうど公園の草刈り作業をしているおじいに尋ねると、その場所を教えてくれた。明日には草が刈られ直ぐ見つかったのだが… 教えられた場所に草をかき分け探しやっと見つけた。まわりの草をむしりとり写真撮影。ここは高台で昔はここから那覇港や大嶺海岸が臨めたのだろう。それで航海や旅の無事を祈り、海の神の竜宮神をここに祀ったのだろう。
小禄尋常小学校跡 (当間学校跡)
この地に建てられた小禄尋常高等小学校跡。小禄間切の小学校は、1880年 (明治13年)、小禄間切番所内に置かれたのに始まる。1891年 (明治24) 頃、小禄間切赤嶺村と当間村の境に新築移転し、小禄尋常小学校と称した。当時は、4学年制で、習字や算術の授業が主であった。1894年 (明治27年) の日清戦争勝利後、児童の就学数も次第に増え、小禄間切でも、1902年 (明治35年)、金城村に新たに学校を設置し、東部小禄尋常小学校と称し、もとからの学校を西部小禄尋常小学校と称した。翌年、西部小禄尋常小学校に高等科が設置され、小禄尋常高等小学校とした。これらの学校は、その所在地から金城学校、当間学校と称された。1923年 (大正12年)、小禄尋常高等小学校が、校舎が手狭になり改築され、赤レンガ造りの2階建て校舎2棟が建設された。沖縄県で初めてのレンガ校舎で、「レンガ造りの当間学校」として有名になった。学校周辺は、那覇と糸満を結ぶ糸満街道 (現国道331号及び県道231号線) が通り、隣接地には、「当間の機織学校」 と称された島尻女子工業徒弟学校 (1903年開校) や、小禄村役場が置かれ、昭和戦前期は、小禄村の中心地域であった。1945年 (昭和20年) の沖縄戦により、当間学校は消失し、一帯は、米軍基地 (那覇空軍・海軍補助施設) となった。1980年 (昭和55年) から基地が返還され、小禄金城土地区画整理事業により、小禄地区の新しい街が創られた。当間学校跡地には、1986年 (昭和61年) に県営赤嶺市街地住宅が建設された。
この後、新型肺炎の2回目の予防接種会場へ。今日もガラガラ。待ち時間無し。沖縄では他府県に比べ、接種率はダントツで最下位で芳しくない様だ。(一回目 57%、2回目 45%) 接種が終わったので、来週は半年ぶりに東京に向かう。定期検診のためだが、以前から続けていた江戸城所縁の地巡りに数日使いたい。東京出発まではその下調べに集中するので、沖縄の集落巡りは東京から帰って来てから再開する。
参考文献
- 小禄村誌 (1992年 小禄村誌発刊委員会)
- 小禄金城土地区画整理事業概要書 (1984 那覇市建設部区画整理課)