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稲作から見た日本の成り立ち

2018.09.30 02:53

https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/formation/【稲作から見た日本の成り立ち】より

米作りの歴史を「石器〜古墳時代」「飛鳥〜鎌倉時代」

「室町〜江戸時代」「明治〜令和時代」という4つの時代に分けながら、

稲作から見た日本の成り立ちをたどっていきましょう。

石器・縄文・弥生・古墳時代

稲作が始まった「石器時代」から、農具や水路が発達して広範囲で田んぼが作られるようになった「古墳時代」まで、稲作の歴史とともに日本の成り立ちをたどります。

野生の種子をまき、稲作が始まった「石器時代」(約3万年前)

稲の栽培は、原始時代に野生の稲の種子をまいて収穫したのが、始まりです。

木の木の実や獣、魚、貝をとって食べる時代から、食糧を生産する時代へと大転換を果たし、人々は一定の土地にとどまるようになりました。

中国から稲作が伝わった「縄文時代」(約1万2,000年前~2,500年前)

今の「日本のお米」であるジャポニカ米の栽培は、中国大陸の長江の中・下流域で始まったとされています。稲作の日本への伝来と伝播には、インド・アッサムや、中国・雲南の山岳地帯で始まった稲作が

・長江に沿って東へ進み、やがて朝鮮半島を経て西日本に上陸した。

・長江下流から北九州の対馬を越えて直接海を渡ってきた。

・台湾を経由し島伝いに来た。

・朝鮮半島から直接日本海沿岸にたどり着いた。

などさまざまな説があります。アジアの稲作圏に最後に仲間入りした日本へは、一つではなく複数のルートで伝来したのかもしれません。

日本に上陸した稲作は、各地に広がって定着していきます。それは余剰を生み出す社会の始まりであり、日本という国家の始まりでもありました。

国内に稲作が広まり、「日本」が形成された「弥生時代」(紀元前5世紀~紀元後3世紀半ば)

弥生時代中頃には、東北地方の北部まで稲作が広がっていたと思われます。

1943年に静岡県で発見された登呂遺跡の弥生水田は、矢板や杭で補強した畦(あぜ)できちんと区分され、用水路や堰(せき)も整備されていました。12戸の竪穴式住居の跡のほかに、約7万㎡の田と、2つの高床式倉庫の跡が発見されていることから、美しい農村風景が見られたようです。

弥生時代の農具のほとんどは、カシ材を加工した木製品です。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕し、干し草などの肥料は田下駄(たげた)や大足(おおあし)によって田んぼに踏み込まれました。

籾(もみ)は田んぼに直にまかれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取りました。脱穀(だっこく)には、木臼(うす)と竪杵(たてぎね)などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床式倉庫に保管されました。

お米は貯えることができたため、その貯えの多さによって、貧富の差が生まれました。また、農業に必要な治水、灌漑(かんがい)などの共同作業のために村ができ、それを統率する首長があらわれました。

村同士は戦ったり、協力したりしながら、より大きな村になり、やがて小さな国になっていきました。

紀元後3世紀の日本には30の国があり、最強の国が女王・卑弥呼(ひみこ)が統率する邪馬台国(やまたいこく)だったと伝えられています。

国々はやがて統一されて「日本」という大きな国がつくられていきます。お米は日本の社会の基礎となりました。

水路の整備が行われ、広範囲で田んぼが作られた「古墳時代」(3世紀半ば~7世紀半ば)

田んぼの生産力が上がり、食糧が安定して供給されるようになると、社会が発達して各地に豪族が生まれました。古墳時代の水田に牛の足跡が残っていることから、家畜を利用した農作業が始まり、それにともなって馬鍬(まぐわ・マンガ)や中国の華北地方の犂(すき=カラスキ、長床犂)も伝えられたようです。また、九州北部を中心に鉄製の穂摘具(ほづみぐ)や鉄鎌もあったようです。

一方で、当時の人々の脅威となったのが洪水です。お米が実った田んぼで洪水が起こると、その後の1年間、食糧が不足します。そこで豪族たちは鉄器を活用して、灌漑用の溜め池を掘らせ、水路の整備も広範囲に行いました。そうして、川からずいぶん離れた平野や盆地にまで、田んぼが作られるようになったのです。後に豪族たちはこの土木技術を応用して、古墳を作ります。

やがて、豪族たちの小さな国が統一されて大和朝廷となり、今の日本の基礎ができました。

飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代

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お米を税として徴収した「飛鳥時代」から、田んぼの土地支配が武士になった「鎌倉時代」まで、 稲作の発展によりお米が富と権力の象徴となっていった時代に迫ります。

お米を税として徴収する制度があった「飛鳥時代」(592年~710年)

お米は栄養価が高く生産性に優れ、長期間の保存に耐え、おいしく食べられる食糧でした。そのためお米を基本通貨とし、「税」として納めるという社会が始まります。 飛鳥時代後期より行われた「班田収授の法」は、田地を分け与えるかわりに、収穫した稲を徴収することを定めた法です。

当時は全ての土地と人が国家のものとされていました。大和朝廷は人々に一定の田=口分田(くぶんでん)を与え、籾米(もみごめ)で租(税)を納めさせました。口分田は売買を禁じられていました。

また、この時代の農具は、田んぼを耕すことが目的のきわめてシンプルなものがほとんどでした。穂を刈り取るのではなく、現在のように根っこの部分を刈り取るやり方が一般的となり、そのための農具として鉄製の鎌が普及していきます。

田んぼを増やすための開墾が進んだ「奈良時代」(710年~794年)

奈良時代における国家の繁栄はめざましいものでしたが、粗・庸・調や労役の負担に苦しむ農民のなかには、口分田や家を捨てるものが増えてきました。また人口も増加したので、722年(養老6年)、朝廷は田地を増やすために百万町歩開墾計画を立て、723年(養老7年)には、三世一身法を出して開墾をすすめました。

さらに、743年(天平15年)の墾田永世私財法によって、開墾した個人が田を永久に所有できることになりました。これは、律令制度の土地公有の原則を破る重大な改革でした。この結果、有力な貴族や寺社は先を争って開墾を始め、私有地である荘園が広まっていきます。

奈良時代には田植えが本格化します。人々は手強い雑草であるヒエと戦いを続けるうちに、水田の雑草を抜いてから、別の場所で大きく育てた稲を植える方法を編み出しました。こうすれば、次のヒエが芽を出したときには稲は大きくなっており、倒伏(とうふく)も少なくなります。

また、農地を広げるために地方への進出が繰り返されました。稲栽培に向かない寒い土地にも、稲作を広げようとしたことから、結果的には寒さに強い品種が開発されました。

田んぼの面積は、現在の3分の1である100万ヘクタールに達していたようです。

国が所有する田んぼが減り、農民が武装していった「平安時代」(794年~1185年)

墾田永世私財法を受けて貴族や寺社が開墾した土地は荘園と呼ばれ、荘園領主は稲作を奨励します。10世紀から12世紀にかけて荘園は増え続け、国家の土地である口分田が減り、政府はしだいに無力化していきました。

荘園の境界をめぐる土地争いや地方役人の税の取り立てから身を守るために、農民は武装をするようになります。ふだんは農業をしながらも、武士となり、武士団をつくって軍事力を養っていったのです。

田んぼの土地支配が、武士へと移っていった「鎌倉時代」(1185年~1333年)

朝廷が地頭を設置して警察権と年貢徴集権を主張するなど、荘園の権利関係が複雑になるなかで、貴族や寺社の支配は弱まり、形式化していきます。そして実際上の支配は、もとは農民である武士(在地領主・開発領主・根本領主)の手中に移っていきました。

お米をもつものは富と権力を持ちました。武士が天下を支配できたのは、この頃の武士がお米の生産者でもあったからです。

鎌倉時代には、お米の生産高も大きく伸びました。領主が税であるお米を早く手に入れようとして、早米を作らせたという記録もあります。

普通の農家でも、牛や馬の力を利用して土地を耕す傾向が見られるようになりました。水田に水を引くために水車が使われ、金属製の鎌(かま)、鍬(くわ)、鋤(すき)などを専門に作る鍛冶も生まれました。案山子(かかし)もこの頃に登場しています。

室町・戦国・安土桃山・江戸時代

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農民の管理組織が発達してきた「室町時代」から、自給自足文化から商人文化へと変貌を遂げた「江戸時代」まで、お米をめぐる権力争いと統制の歴史を紹介します。

農民が団結して一揆を起こし始めた「室町時代」(1336年~1467年)

室町時代になると治水技術の発達とともに管理組織も発達し、寄合・村掟が強固になっていきました。農民の自治組織である惣(そう)が発達し、農民が荘園という枠を超えて団結。力をつけて大規模な一揆を起こすようになりました。

1428年(正長元年)に起こった正長の土一揆がその代表的なものです。一揆は続発して大規模化していき、幕府の力は衰えていきました。

また、室町末期に始まった治水と新田開発の事業により、日本中の川は作り変えられ、不毛の土地を緑の沃野(よくや)に変えていきました。田植えの合間に笛や鉦(かね)、太鼓にあわせて踊り、歌う田楽(でんがく)が広く社会に浸透していきました。

大名が領土を拡大し、田んぼを守る工事を始めた「戦国時代」(1467年~1574年)

応仁の乱後、大名が入り乱れて争う戦国時代になると、戦国大名は自分の領土をいかに拡大し、いかにお米の収穫量を上げるかに腐心しました。農業を奨励しながら、農民の自治組織である「惣」の解体に力を注ぎ、農民から武力を奪いとって、一部の農民を家臣としていきました。「自然村」を「行政村」に切り替えていったのです。

また、お米をより多く収穫するには、荒れ地開発を奨励して田んぼの面積を増やし、田んぼを水害から守らなければなりません。そのために戦国大名は、田んぼを守る工事を始めるようになりました。 甲州の武田信玄は、1542年(天文11年)に起きた釜無川の大洪水の後、今も残っている有名な堤防である「信玄堤」を築きました。「信玄堤」の特徴は、川の流れに逆らわず、各種の造形物で勢いを弱めることによって堤防の決壊を防ぐというものです。

肥後の加藤清正は「乗越堤」という方法で、田んぼを水害から守りました。これは低い堤防で水の勢いを弱め、水がおだやかに堤を越えていくという方法です。

太閤検地によって土地制度が大きく変わった「安土桃山時代」(1574年~1603年)

新田が開発され、新たな村ができ、農家戸数も増える中、戦国大名たちは自己の領地で田畑の調査を行っていました。それを統一して全国的に行ったのが豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)です。

1582年(天正10年)、太閤検地によって全国の土地、収穫量、年貢量などを定めて記録し、さらに「一地一作人」の原則を定めました。それまでの荘園制では、農民と領主の間に荘官や地頭、守護など、土地に権利を持つ者が幾重にも入りくんでいたのですが、秀吉は中間搾取を排除して、その土地の年貢はその土地を耕す農民自身に受け持たせることとしたのです。土地台帳に農民の名を記し、農民の自立心を促して、同時に富の集中をはかりました。

古い荘園制の名残をとどめていた土地制度は、太閤検地によって大きく変わることになります。

大規模な新田開発が次々と行われた「江戸時代」(1603年~1868年)

江戸時代も経済の中心はお米でした。生産されたお米は年貢として納められ、大名はこれを大坂や江戸で売って収入としていました。

大名がもつ領地の広さは石高(こくだか)で表され、一石は約180リットル(約150kg)で、1人が1年間に食べるお米の量にあたります。

江戸時代に入ると、他の国に攻め込んで領土拡大をすることができなくなり、大名たちは自分の領地で水田を増やすようになりました。このため、江戸時代初期にはそれぞれの領地での新田開発ブームが起こります。工事は大規模化し、平野が広がりました。

徳川幕府も大規模な開発を行いました。たとえば関東平野の台地をひらいた武蔵野新田、下総国(しもうさのくに)の沼を干拓した飯沼新田などです。

また、東京湾に注いでいた利根川を徐々に東に向かわせ、千葉県の銚子へと流れを変えてゆき、常陸川に合流させて、太平洋に注ぐ川に変える大工事も行いました。

また、江戸幕府は農民を厳しく統制しました。お米が社会の土台であったからです。

1643年(寛永20年)には田畑の売買を禁止する「田畑永代売買禁止令」を、さらに1673年(延宝元年)農地の分割相続を制限する「分地制限令」を出しました。そして農民支配に対する幕府の姿勢を総合したものが、1649年(慶安2年)、3代将軍家光のときに出された慶安の御触書です。これは五人組の制度をはじめ、農民の生活まで細かく規定したものでした。

農民はほぼ50~60戸で1村落を作りました。村はしだいに行政組織となり、村の有力者を村役人に命じて行政を担わせました。それが名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)で、この3つを村方三役と言います。

稲の品種改良が進んだのも江戸時代です。民間の篤農家(とくのうか)が、たまたま冷害のときなどに田んぼで元気に育っている数少ない稲を取り上げて、それを何年間も繰り返し栽培していったのです。新品種はお米の収穫量を増大させました。

各種の農機具も開発されました。扱竹(こきたけ)という、竹を箸のようにした道具に替わって千歯扱き(せんばこき)が発明されました。千歯扱きはその作業効率を10倍以上も高めたことから、瞬く間に全国各地に普及していきました。農民たちは、つねに効率の良い農機具を追い求めていたのです。

他にも耕作のための備中鍬(びっちゅうぐわ)、お米を選別する唐箕(とうみ)・千石どおし、田畑に水を引くための龍骨車(りゅうこつしゃ)、足で踏んで水車を動かす踏車(とうしゃ)などが発明されました。

さらに、肥料も変化していきました。江戸時代に入り、江戸、大坂、京という大都市が生まれたことで、都市周辺の近郊農業が必要となりました。農民たちは農産物を都市にもって行き、帰りは糞尿を持ち帰って肥料にし、リサイクルしていました。他にも油かす、汚水、緑肥、堆肥、泥肥、魚のあらなどが使用され、とくに干し鰯は動物性の肥料として抜群の効果をもたらしました。

しかしながら、長い鎖国のせいもあってか、災害や害虫に対する知識は不足しており、虫送りや鳥追い、風祭り、雨乞い(あまごい)という行事で無事を祈るしか方法はありませんでした。そのため災害による凶作の年も多く、江戸時代には150回ほどの飢饉(ききん)があり、そのうち大飢饉は30回も発生しています。その結果、農村は荒れ果てて、農民の都市への流入が激しくなりました。

・亨保(きょうほう)の飢饉

1732年(亨保17年)夏に長雨といなごが大発生したことによって起こり、西日本一帯でお米の収穫量が平年の15%しかありませんでした。全国で264万人以上の人が飢え、1万人以上の人が餓死したと伝えられています。

・天明(てんめい)の飢饉

1783年(天明3年 )の霜の害によって起こり、数年間続きました。この飢饉によって餓死した人の数は、全国で50万人以上にも及んだと言われています。

・天保(てんぽう)の飢饉

1833年(天保4年)に冷害、洪水、大風雨などが原因となり、1836年(天保7年)頃まで続きました。農村では百姓一揆が続き、都市でも貧しい町人たちが、米屋・質屋を襲う打ちこわしが起きましたが、幕府や諸藩にはこれらを完全におさえる力がありませんでした。幕府の衰えは、誰の目にもあきらかになりました。

飢饉が起こった一方で、農業の発達とともに商品作物の生産が増加したのが江戸時代です。それにともなって商業や交通が発達してくると、しだいに貨幣が重要な役割をするようになり、商人が力をもってきました。商人はお米の相場を決めて、経済を支配しはじめ、日本の文化は町人文化に移っていきました。

また、江戸時代の終わり頃になると、人々を工場に集めて、水車などの動力を使う工場制手工業(マニュファクチュア)があらわれるようになりました。

このようにして農村の自給自足経済は崩れていき、また、それを土台とする封建社会そのものも揺るがされていったのです。

明治・大正・昭和・平成令和時代

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農業技術が発展した「明治時代」から、戦争によって機械化が進んだ「大正時代」「昭和時代」、そして農業人口の減少という問題に直面する「平成・令和時代」まで、米作りを基盤として発展してきた日本の歴史を振り返ります。

農業技術が発達し、お米の収穫量が激増した「明治時代」(1868年~1912年)

江戸時代は多くの藩に分かれ、藩と藩の境の壁は厚かったといわれていますが、農民たちの生き方には共通するものが多く、これが明治の統一国家が比較的容易に成立した基盤となりました。

明治新政府は財政の基礎を固めるために土地所有権を確立し、税をお米からお金に変えました。これが、 1873年(明治6年)に行われた「地租改正(ちそかいせい)」で、土地の私有権と売買を認め、地価の3%の税金を課しました。

一方で明治新政府は、農業技術の革新にも注力し、農業技術や農学を学ぶ目的で学者や技術者を欧米に派遣し、欧米の技術者を日本に招きました。1893年(明治26年)には国立農事試験場が開設されています。

稲の育種について見ると、大正年間の純系淘汰(優れたものを選抜して残していく)によって収穫量は5~10%増加しました。更に中期からは交雑(品種のかけあわせ)による育種が試みられました。

民間では老農といわれる育種家が各地に現れました。交通の発達にともなって、他の地方から稲の種を持ち帰ったり、交換を行ったりして意識的に変り穂を探しだし、その中から優秀なものを見つけ出して新しい品種を作りました。(技会資料より)

化学薬品を使った最初の除草は、明治時代の中頃に行われています。欧米の各地で、銅の化合物に除草効果があるということが発見されると、それが日本にも伝わり、田んぼでも使用されるようになったのが始まりです。

同じく明治時代の中頃に画期的な雑草取りの農機具が発明されました。田車というもので、先端には幅30cmぐらいの、小さな水車のような回転する筒がつけられていました。それを使うために、稲は幅30cmの間隔でまっすぐ平行に植えられるようになりました。稲をまっすぐ植える正条植えという植え方が日本中に普及しました。

第一次世界大戦を背景に、農業の機械化が進んだ「大正時代」(1912年~1926年)

1914年(大正3年)に勃発した、第一次世界大戦とそれにともなう好景気は、国民の生活を大きく変えました。農村では好景気のなかでお米が高値になり、地主層は景気が良くなりました。一方、土地を持たない人々が都市に出て労働者になるケースが増えました。そのため、東京をはじめとする大都市では人口が急増しました。

この頃から、人力で動いていた農業機械が電気や石油を使った動力で動かされるようになっていきます。田んぼの水の揚水と排水をはじめとして、脱穀作業、籾すり作業、精米作業、製粉作業、藁の加工作業などは、次々と機械化されていきました。

ところが、1918年(大正7年)夏、米騒動の嵐が全国で吹き荒れました。

物価全般の上昇に加えて、シベリア出兵にそなえて商人たちがお米の買い占めを行ったため、お米の価格は上昇。富山県では、お米の値上がりに対しての暴動が起こり、全国に拡大します。お米は主食としてなくてはならないものでしたから、この値上がりは人々の生活に直接かかわる問題でした。米騒動は9月中頃まで続きました。

第一次世界大戦が終わったのは1918年(大正7年)。それ以降、人件費の高騰や、戦争によって男手が召集されてしまったことなどが遠因となって、「農業の機械化」は国としての大きな目標になっていきます。そのため畜力や電力を使った機械が開発されるようになりました。

お米の生産が拡大、お米をいつでも食べられるようになった「昭和時代」(1926年から1989年)

1933年(昭和8年)頃、動力によって田んぼを耕す動力耕うん機が実用化されるようになりました。しかし、太平洋戦争により石油資源が極端に不足したため、動力耕うん機は多くの農家が憧れていながらも普及するには至りませんでした。

1942年(昭和17年)には、「食糧管理法」が制定されます。戦争で食糧不足になったため、お米などを国家管理にしたのです。これによって農家はお米を差し出し、人々は配給を受けることになりました。

第二次世界大戦の終戦をむかえた1945年(昭和20年)、戦争で国土は荒れ果て、労働力は不足し、日本のお米の生産高は約587万トンに落ち込みました。お米が足りなかったことから、都会に住む人々は食べ物を求めて農村に買い出しに出かけました。

動力耕耘機 動力耕耘機を使う男性

1955年(昭和30年)以降は、工業の発展にともない、農業水利の改良、ほ場整備事業が進みます。新しい栽培技術も展開されたことによって、お米の収量水準は向上しました。機械化の普及と相まって、水田経営は規模拡大の方向に見直されるようになります。

農業の機械化のなかでも、田植機は明治時代から多くの人々が身代を投げ打ってその研究をしてきました。しかし、どの田植機も長さが30cmくらいある昔ながらの大きな苗、成苗を使っていたため、うまくいきませんでした。

しかし、1965年(昭和40年)前後に、現在のような10cm程の苗、稚苗(ちびょう)を植える田植機が登場し大成功をおさめ、一気に普及します。農家の何百年にわたる悲願がここに達成されたのです。

また、除草剤の使用も一般的となりました。アメリカで開発された2・4-Dという除草剤が瞬く間に日本の田んぼに普及します。これによって夏の炎天下で行われていた、腰を曲げての長時間の除草作業から多くの女性たちを解放しました。

ちなみに、田んぼ10アールあたりの労働時間は、1950年(昭和25年)では207時間でしたが、2015年(平成27年)には23時間まで減少しています。

機械化 機械化

日本人の主食といわれながら、本当の意味で日本人がお米をいつでも食べられるようになったのは戦後20年も経ってから、つまり1965年(昭和40年)頃からです。その頃は、さまざまな分野で近代化が進み、農業では機械化やカントリーエレベーター(乾燥・貯蔵施設)の登場などによって、米の生産は拡大していきました。

平成・令和時代(1989年~)

現在、日本では農業人口が減少し、農村の過疎化が進んでいます。

こうしたなかで、懸命に農業を続けている人々は、後継者難や都市化による水の汚染などと闘いながら、米作りを基盤にして築き上げられた日本列島の土地・水・緑、そして文化・環境を守っています。

一方で、世界的には食料危機説が再燃しています。世界各地で多発している異常気象や自然災害の影響はもちろんのこと、特に中国をはじめとする、アジア諸国の急激な人口増加や耕地面積の減少・食生活の構造変化などにより、世界の食料事情は逼迫しています。

世界の穀物は、需給緩和の時代から、需給逼迫と激しい価格変動の時代に突入し、食料が戦略商品になる時代がやってくることが懸念されます。

こうした国内外の食料事情のなかで、他のあらゆる時代にも増して、今日ほど農業が高く評価される時代はありません。国際的に見ればそれは、地球環境の守りの主役であり、お手本であり、国内的には、日本の心のふるさとなのです。