「宇田川源流」<現代陰謀説> 日本人の政治に無関心な性質は誰が作り出したのか?
「宇田川源流」<現代陰謀説> 日本人の政治に無関心な性質は誰が作り出したのか?
金曜日は現代陰謀説をお届けしている。陰謀にはさまざまなものがあり、そして長期間時間をかけて、その国の国民性などを利用して作るものであるとされている。そのような状況であるから、ある現象が「結果」として存在していてもそれが「国民性」なのか「陰謀による結果」なのか全くわからない状態であるというようになってしまうのではないか。そのように完全になじんでしまって、いったい何が陰謀であったのか全く分からなくなってしまったということが、特に時間などが多くたってしまうと出てくることがある。そのような内容が出てくると、「陰謀というのは恐ろしい」と思うものである。
さて、そのような感じで「ならされてしまった」ということで言えば、まずは日本人の「パン食」であろう。そもそも小麦があまり主たる栽培商品ではない日本で、米が主食であるというときにおいて、日本に「朝はパン」というような感覚を付けさせた。現在、米の自給率はしっかりとしている煮の大して、小麦の多くは輸入に頼らざるを得ない。そのうえ、バターなどもかなり値上がりしている状況でありながら、パン食をやめられない(私もそうなのであるが)というのは、まさに「パン食という習慣」をつけられてしまっているからではないか。
もちろんそれが良い悪いという話ではないが、実際に「日本人に食料自給率を下げさせるため」または「小麦を輸入させるため」になど様々な目的で、日本人の食生活を長年かけて買えたという陰謀論がある。実際に、アメリカなどからそのような文献が見つかるなどで話題になったのであるが、そのようなことをいまさら言われても、生活習慣を変えることはできないというようになる。
これは、もともと、日本には「お弁当」つまり「携帯食料」という観念がある。これは日本が移動を自由に行えたことと、街道が安全であったことの表れなのであるが、そのことから、見れば、当然に「その携帯食の簡易版」ということでパン食があっても違和感がない。しあkし、それがい私の幼少期における「給食で強制的に」ということになると、話が変わってくる。自由選択ではなくパン食を強要される状況を作り出したのはどのようなことなのか、そのように検証してゆかなければならないということになるのである。
政治に無関心な日本人に海外から呆れ声「文句を言うのに具体的に説明できない」 家族で議論する国も
現在、日本では自民党総裁選へ向け候補者らが日々メディアを通して政策をアピールしているが、そもそも近年、政治自体に興味を示さない若者は珍しくはない。そんな日本人を見て、海外の人たちは違和感を覚えるようだ。
日本に留学経験があるという20代のドイツ人は留学中に、同年代の日本人が政治の話をしないことに驚いたという。多くの日本人は誰が首相や議員になっても同じと考えていたことに「引いた」と明かし、「こんなふうに国民が考えていると国民が政府からなめられると思った」と警告していた。また別の20代のドイツ人留学生は「多くの日本人が国に不満があり文句を言うのに、具体的に何が不満なのか説明できなくてびっくりした」と明かす。
さらに日本に長年住んでいたという30代のフランス人男性は職場で政治の話をしたところ、周りの日本人が口ごもったことが「あり得ない」と話し、税金や失業率などは自分たちの生活と直結する話なのに「日本人は興味もなければ知識もなかった」と振り返った。
日本人の政治への無関心さは海外の人から見ると異質に映るようだが、そもそも海外では人々は政治にどれほど興味を示しているのだろうか。例えばドイツでは、老若男女関係なく、政治の話をすることが多い。バスで隣同士になった人と世間話の延長で政治の話になったり、家庭で家族と政治の話をすることもあるそうだ。家族の間で支持する政党や政策が違うこともあるが、それも議論のためにはいいことと捉えられる。中学生くらいになると子どもも大人の政治の話に割って入る。フランスでも友人同士で政治の話をすることがあり、カフェで貧富の差の解消や環境のために政府ができることなど、具体的な話をすることも多い。「今から議論をしよう」と一人が言い出し、あえて今の国の問題について話し合うこともあるという。
さらにスウェーデンでも政治の話が日常的に交わされ、特に夕食をとりながら家族で話すことが多い。その際、子どもも交わるが、大人は子どもたちに自分で考えさせ、大人の意見を押し付けないようにするという意味で子どもに政治について教えようという態度は見せず、ただ自分の意見を主張し、子どもに意見を求めることもあるそうだ。政策などを批判することもあるが、ただ批判をするのではなく、問題がなぜ起きているか、それに対して責任者はどのような対応をしていて何が間違っているのかという部分まで掘り下げる。
このように、日本と比べ海外では政治の話が身近であるようだが、その背景には国が政治に興味を持ちやすい仕組みを作っていることもあるだろう。例えばドイツでは自分の考えと似た政党が分かるマッチングアプリのようなものがある。これは連邦市民教育庁が提供しているもので、いくつかの質問に「イエス」「ノー」「どちらでもない」の3つの選択肢から答えを選んでいくと最後に各政党と自分の考えの一致率が表示されるのだ。これは選挙の際に活用されるが、選挙の関心を引くことはもちろん、選挙後も自分が支持した政党が主張した政策に沿って動いているか追うきっかけになる。『DW』の2017年9月の記事によると、ドイツでは有権者の3人に1人が選挙の際にこのようなマッチングアプリを使用するようだ。同じように政党の考えと自身の考えがどれほど一致しているかを調べるマッチングサイトは日本でもあり、新聞社などが提供しているが、ドイツに比べると認知度や利用度が少ないといえよう。
フランスでは政治家がSNSを活用していて、最近ではマクロン大統領がTikTokを使って新型コロナウイルスのワクチン接種を呼びかけたことが話題になった。日本でもSNSを利用して国民に情報を発信している政治家は多いが、FacebookやTwitterを使用している政治家も多く、政治に関心がない世代に注目されない場合が多い。
マクロン大統領の場合TikTokでワクチンに関する質問を募集し、それに答えていたのだが、FacebookやTwitterではなく、近年、フランスの若者が最も関心のあるツールであるTikTokを使用していた。フランスでは若い世代のワクチン非接種が問題視されているが、TikTokへの投稿で注目度が増し若者らがマクロン大統領の投稿を拡散。ワクチン接種や政府のコロナ対策について意見が交わされることもあった。マクロン大統領は自撮りでTikTokに投稿したのだが、こういった若者が興味を持ちやすいような演出も功を奏しているといえよう。
日本でも政治家のSNSの投稿がきっかけで議論が広まることもあるが、フランス在住の日本人によると、日本ではやみくもに批判をしたり、政治家という人に対して批判を向けることが多いが、フランスの場合は「人ではなく政策」に対する意見をきちんと持ち、批判をするという。批判をする前に自分で調べてSNSなどでつぶやくそうで、「フランス人の議論好きという気質も詳しく調べて議論するという姿勢を作り上げているのかもしれない」と推測していた。
スウェーデンでは小学生の頃から政治を身近に感じられる仕組みができている。多くの学校がニュースについて生徒が話し合う機会を毎日設けたり、学校では投票に行くことはもちろん、デモをすることも大切だと教えられる。さらに小さなことでも大人が決めるのではなく、子どもたち自身に決めさせ、一人ひとりが意見を持つことが大切で、それが決定に反映されることを学ばせる。例えば学校の予算で新しい本を買う時にどの本がいいか投票で決めたり、幾らかの予算を新しい遊具に使うのか学校の備品の修復に使うのかまで生徒に聞いて投票で決めるのだ。
他国から見ると、日本人の政治に対する意識の低さはこっけいに映るのかもしれない。日本人も一人ひとりが自ら政治に関心を持つことも大切だが、国や教育が政治に目を向けさせる仕組みを作ることも必要だろう。
2021年09月21日 06時00分 リアルライブ
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-200153560/
パン食と同様に出てくるのが、「日本人の政治離れ」である。はっきり言って、政治の場に優秀な人材が現れず、ほとんどが外資系に行ってしまったり、あるいは、海外の現場に行ってしまうというような状況で、日本の政治にあまり興味がない。そもそも、「政治」そのものに興味がないような教育しか出てきていないのである。
幕末のドラマなどを見ると、例えば新選組・例えば薩長の若者達(西郷や大久保など)、さまざまな階層の様々な人物が政治に関して語り、またそのために学問を行っている。もちろん、その中で過激化してしまう人も少なくない。私が小説で書いた天狗党などはそのようなものであるし、究極では戊辰戦争そのものが、下級武士から平民などに至るまで、多くの人が政治に関して考え、そして態度を明らかにして両社が歩み寄れなかった結果であるといえる。
つまり、少なくとも幕末は、日本全体が政治を語る雰囲気があった、つまり、日本国民がその国民性から政治を毛嫌いしているというものではないということが明らかなのである。このことは、明治時代もそうであるしまた、その後もそうであり民権運動なども大きく盛り上がったのは、まさに、日本の国民が政治に関して興味があるということを意味している。
では日本人はいつから、「政治に興味が無くなったのか」ということを関上げれば、明らかに「敗戦後」であることに間違いがない。
ここで問題になるのは「政治的な議論があり一致団結した日本は強い」ということである。日露戦争であっても「臥薪嘗胆」太平洋戦争においても「欲しがりません勝つまでは」などの標語で、国民が一丸となって戦う状態は、まさに、外国にとってはかなり脅威に映る者であった。そして進駐軍はその日本の国民性から「天皇」「歴史」「政治」を取り上げた。この結果日本人は「地域の和」を大切にするため、もっと言えば「お互いが表面上で仲良くする(心から分かり合える状態ではない)状態を作るためにlということで「政治(イデオロギー)」「宗教」「軍事(安全保障を含む)」を語らない世の中を作り上げたのである。ちなみに、日本以外の国では、これら三つのことを話せないことは「アイデンティティがない」ということを意味し、自分の意見を隠しているとされて、信用されないようになっている。
まさに祖尿な状況を作り出したのは進駐軍であるが、その進駐軍が昭和26年に日本から出て行った後も、そのことをずっと続けている。これは「日本の教育」つまり「アイデンティティを日本人に持たせない」という教育をすいしんしている人々である。
今回の陰謀は、まさに「アメリカが一番初めに行ったが、それを時代の流れに応じて、日本の差yく団体が引き継ぎ拡大させている」ということに他ならない。陰謀主体が変わった陰謀の成果でありそしてそれが習慣化してしまった。日本人の勤勉さを経済などに向けて政治ということや国家観ということから目を離させるということになったのである。
まあ、そのような陰謀が今も尚日本を犯しているということが気づくようにならないと困るのである。そして、そのような指摘もしないで「陰謀論」を語られても困った者であろう。