日本の政治家をみな呼び捨てにする韓国メディアの傲慢
菅総理に代わる次の日本の首相を決める自民党の総裁選挙で、岸田文雄前政調会長が選ばれたことは、韓国でも大きな関心をもって伝えられた。しかし、韓国メディアの伝え方で、怒りを禁じ得ないのは、仮にも日本の次の総理候補である総裁選立候補者や当選者に対して、敬意の欠片も示すことなく、その名前をすべて呼び捨てにしたことだ。
(YTNニュースに出演・解説する保坂祐二)
岸田氏の選出が決まった直後の29日午後、24時間ニュースチャンネルのYTNニュースに、韓国に帰化した保坂祐二(世宗大教授)が生出演し、長時間にわたって解説していたが、最初から最後まで「きしだ」「きしだふみお」、「こうのたろー」、「たかいち」などとすべて呼び捨てにし、肩書きを付けることも、日本語の「氏」に当たる「シ(씨)」さえ付けることもなかった。「慰安婦」や「徴用工」問題でも韓国政府の主張にべったりで、何の根拠もなく日本を批判する保坂祐二にような「“反逆”元日本人」が、率先して韓国人の日本に対する偏見を煽り、感情的対立に拍車をかけているのである。
岸田新総裁選出を韓国メディアはどう伝えたか、を韓国の新聞・テレビ各社の報道に目を通して分析したコリア・レポート編集長の辺真一氏によると、「韓国メディアは日本の新政権発足による関係修復に期待を寄せているものの岸田新政権下でも困難との見方で一致していた。なお、ほとんどのメディアが文中で岸田氏に敬称を付けていなかった」と書いている。
<岸田新総裁選出を韓国のメディアはどう伝えたのか? 速報で伝えた韓国メディアの「論調」>
つまり、私が見たYTNテレビだけでなく、KBSやMBSなどの主要テレビ、中央日報や朝鮮日報など大手紙も、呼び捨ては同じだったことがわかる。
日本のメディアだったら、「敬称略」とあらかじめ断った特集記事や専門コラムなどを除いて、一般記事やテレビ・ラジオの放送では、人の名前を呼び捨てすることはほとんどない。たとえ犯罪者であっても、人権への配慮から名前に次に「容疑者」や「被告」「受刑者」の肩書きをつける国である。そうした習慣に慣れた身には、呼び捨てにされた人の名前を聞くと、違和感しかない。それが他国の指導者や政治家であったらなおさらで、文在寅大統領がたとえどれだけ嫌いな存在でもあって、せいぜい「氏」ぐらいの敬称はつけるものだ。
ところが韓国メディアで北朝鮮の金正恩や金与正を呼び捨てにしている場面にはお目にかかったことがない。かならず「国務委員長」や「党第一副部長」など長ったらしい肩書きをつけている。文政権と韓国メディアにとって、北朝鮮はそれだけ畏怖する特別な存在なのだろう。
日本の政治家に対して、敬称をつけない韓国人の風土、伝統的態度が、いつから始まったかは知らないが、それが極端な傾向で現れたのは、2019年8月、韓国に対する半導体製造材料の輸出管理が強化されたことを契機に、韓国でNO JAPAN運動が盛り上がったときだ。このときソウル中心部の光化門広場では、連日のように大規模な反日集会が開かれたが、彼らが掲げるプラカードやのぼりには「アベ糾弾」の文字があふれ、会場のシュプレヒコールは「Noアベ」の大合唱だった。
日本の輸出管理強化は経済産業省の所管であり、安倍総理が単独で決定したことではない。韓国を輸出優遇国「ホワイト国」から外すというアイデアは、参議院議員の青山繁晴氏が最初に提唱したものだと本人が明らかにしている。解決済みの「慰安婦」や「徴用工」問題を蒸し返し、日韓関係を悪化させる原因をつくったのはすべて韓国側、文政権だが、韓国人はその責任をすべて安倍総理一人に押しつけ、安倍氏を日本の「極右勢力」の代表として、ほとんど「極悪人」扱いだ。日本では、少なくとも朝日新聞や東京新聞の熱心の読者か固定的な信奉者を除いて、安倍元総理をそこまで毛嫌いする、偏った見方の人はいない。
反日デモの現場を私自身、何度か観察し、そこまで安倍総理一人への憎悪を煽り、大衆を極端な偏見に駆り立てる、韓国世論や韓国メディアの危険性に、身震いするほどの怖さを感じた。韓国では、一つの見方・考え方が、どれだけ事実から離れ偏向しているとしても、それが自分たちに有利であり、そうあらねばならないと決まった瞬間から、その一方的な見方、偏った考え方以外に、異なる意見や情報がメディアに流れる余地はなくなるのだ。
親文在寅派・左派系のハンギョレ新聞の東京特派員は、「事実上日本の100人目の首相を選ぶ29日の自民党総裁選の勝負を分けたのは、一般の日本人の「民意」ではなく、党内派閥の力学関係と安倍晋三前首相の影響力だった」と論じた。
<ハンギョレ新聞9/30 「岸田新総裁、民意より「派閥の力」で当選…「安倍路線」継承の見込み」>
自分たちの思惑どおりに河野太郎氏が当選しなかったからといって、岸田氏を選出した結果が「一般の日本人の民意」ではない、などと分かったようなことを、どの口が言えるのか。偏見に満ちた色眼鏡でしか見ることができないハンギョレ新聞ごときに、日本人の民意が那辺にあるかなど、論じて欲しくもないし、岸田氏を選んだ選択が「日本人の民意」と違うなどと、根拠もなく断定して恥じることもない、そんな与太話しか書けない三文新聞の傲慢さには反吐がでる。
そもそも韓国でも来年の大統領選挙の候補者選びの真っ最中だが、ハンギョレ新聞が「一般の韓国人の民意」とやらが分かるとしたら、与党候補と野党候補が誰になり、次の大統領は誰なのか、簡単に言い当てられるはずだが、それができないから、ああでもないこうでもないと毎日、騒いでいるのであろう。よその国のことだから好き勝手なことが言えるのだろうが、自分の足元をしっかり見つめたらどうか?
ハンギョレは「日本人の民意ではなく、派閥力学と安倍前総理の影響力」だというが、民主主義は数の力であることは確かだ。政治理念を同じくする人たちが結集して多数派を形成することを、単に「派閥」という言葉で否定することは、民主主義の否定にもつながる暴挙だ。今回の総裁選の特徴は、派閥横断的にそれぞれの信念に従ってそれぞれの候補を応援する動きが広がり、各候補の主張する政策の違いから、それを応援する政治家一人ひとりの政治信条も好く理解できたことだ。つまり、派閥の力学などという強制力のようなものは働く余地はなかったことが分かる。
派閥による強制でもなんでもなく、安倍総理の政治理念を高く評価する人々は、自民党内にはかなりの程度いて、国民の間にもそれなりの人気があることは、今回の総裁選で安倍氏が押した高市氏の獲得した議員票(114票)と党員・党友票(74票)を見れば分かる。党員・党友票の各候補の得票数は、河野氏が335046票,岸田氏219338票,高市氏147764票,野田氏57927票だった。決戦投票で見せた「岸田・高市連合」の党員票を集計すると48.3%で、河野氏の44.1%を上回り、民意は岸田氏にあることは明らかだ。そうした分析力もなく、「安倍独裁」とか「安倍極右路線」などと、いまだにステレオタイプの断定で済ませてよしとしているのが、遅れた韓国メディアの習性なのである。
岸田氏は、外相時代に韓国には何度も煮え湯を飲まされてきた。その一つが、端島炭鉱など明治産業遺産のユネスコ世界遺産の登録であり、「最終的かつ不可逆的解決」を約束したはずの慰安婦合意を簡単に反古にした文政権の仕打ちだった。
端島炭鉱(通称「軍艦島」)のユネスコ世界遺産登録の経緯は、かつてこのブログでも詳細に書き残している。「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録を目指していた日本は、世界遺産委員会開催半月前の2015年6月21日、日韓外相会談で、韓国側が登録を推進していた「百済歴史地区」の登録を日本が支持し、互いに協力していくことで合意し、韓国側は明治産業遺産への反対を撤回した。ところが、それからまもなく、ドイツ・ボンで開かれたユネスコ世界遺産委員会(7月5日)で、韓国側は登録に協力するとした前言を翻し、展示資料などに「強制労働」の文言を入れるよう強く要求し、議論は紛糾、登録決定は一日、先送りされた。韓国との協議で日本側は、登録施設の一部において「意思に反して(against their will)」連れてこられ、厳しい環境の下で「働かされた(forced to work)」朝鮮半島出身者がいたことを認めた上で、「情報センター」の設置など、犠牲者を記憶にとどめる措置を行うこととした。これについて、韓国メディアは一斉に「日本は、国際社会で初めて強制労働を認めた」などと報じた。登録決定の翌日、日本側代表団が出した声明では、「働かされた(forced to work)」という表現は、「強制労働(forced labor)を意味するものではない」と苦しい弁明をし、岸田外相も「こうした措置が、日本企業への賠償請求訴訟に使われることはないと信じる」と表明したが、すべては「あとの祭り」だった。日韓外相会談での合意とは何だったのか、完全な騙まし討ちだった。この問題をめぐるその後の韓国国内での展開は、徴用工をめぐる裁判でも明らかだ。
<当ブログ「デタラメ映画と徴用工のウソ」2017.08.08>
オバマ大統領が仲介した2015年12月の慰安婦合意という国際約束の一方的破棄は、すべて文政権の責任で、岸田新総裁が「韓国政府が解決策を示すべきで、ボールは韓国側にある」というのは、まったくそのとおりである。韓国側は、岸田新総裁の誕生をきっかけに冷え切った日韓関係をなんとか改善したいと考えているようだが、岸田氏個人の韓国に対する恨みは骨の髄までしみこんでいるはずで、関係改善には時間がかかることは間違いない。
それよりも、国と国の関係を好くしたいと望むなら、まっとうな国、当たり前の人間として、相手国の政治家には敬意を示し、せいぜい肩書きか敬称をつけて呼ぶことから始めるべきだろう。
保坂祐二とは逆に、「帰化日本人」を目指す韓国人ブロガー・シンシアリー氏の新著『日本語の行間』(扶桑社新書2021・9)は、日常の日本語を材料に日本的精神を分析したユニークな日韓比較論になっている。
日本語は「言霊(ことだま)」といわれるほど言葉に宿る力を大切にする文化だが、日本語は世界でももっとも進んだ「高文脈(High Context)」の言語文化なのだという。「高文脈言語」とは、実際にことばにした内容より多くの情報が盛り込まれた言語のことで、具体的に言わなくても社会に共通する「感覚」によって伝わるような、それこそ「行間を読むべき言語」なのだという。そうした「行間」は文字の世界だけでなく、街や人間関係など社会の中にもあふれているというのが、日本をつぶさに観察したシンシアリー氏の考察でもある。そして、次のように述べる。
<言は事なりて、世の中の「こと」、すべてに影響します。言語で書かれた文章に「行間」があるのと同じく、その言語が溢れている街にも、社会にも、行間があります。具体的に言わなくても観念的に分かり合える何かが、そこにあります。「敬」を示す言葉の行間は敬で溢れ、人も敬に馴染み、その行間は神の居場所となります。「蔑(べつ)」の言語の行間には蔑が溢れ、人も蔑になじみ、神はその行間から去っていきます。>(同書p9)
言葉は文化であり、生き方そのものなのである。敬語の使用に厳しいといわれる韓国だが、実は人を敬う文化には乏しく、敬語の使用も、相手の格が上か下かの差別をつけ、人間関係に順序を付けるためだけの手段に過ぎないといわれる。いずれにしても、外国の政治家を呼び捨てにして恥じない、そうした言語文化をもつ国に、豊かな人間関係や信頼ある外交関係が生まれるはずがない。