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パフィン物語

パフィン物語 No.7 鳥人間コンテストと日大理工学部

2017.03.25 13:14

                      

~秋の田の 刈り穂の庵(いお)の とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつつ~ 

百人一首、最初の和歌は、 近江の国に都を築いた天智天皇が詠みました。


(前原氏作 歌仙人形 天智天皇)


 

 近江の国、滋賀県には、国内最大面積で、楽器の琵琶に、形が似ていることから 名付けられた

琵琶湖があります。


 琵琶湖は太古から、都に物資を運ぶ大切な水路であり、水産資源の宝庫であり、 

周囲の近江平野からは豊かな実りがもたらされてきました。 


万葉の野心家、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)こと、天智天皇がクーデターをおこし、 

近江遷都としたのも頷けるほど、琵琶湖は魅力的な存在なのです。 


さまざまな、顔を持つ琵琶湖に、毎夏、全国から飛行機好きが集まる ビッグ・イベント鳥人間コンテストが行われます。 


鳥人間コンテストの第1回目は1977年7月2日、 琵琶湖畔 近江八幡 宮ヶ浜水泳場で、行われました。

 コンテストのルールは、動力をいっさい使わないこと、 自作機で出場することです。

  

琵琶湖水面から、高さ10メートルのプラットフォーム上で、パイロットが機体を持って助走し、 沖に向かって飛び出し、滑空距離を競います。



 第1回目は、約千人の応募者から設計図審査と機体審査を通過したのは37機、 複葉機あり、ハングライダーあり、 費用も100万円もかかった機体から1万5千円までのものと、 実にさまざまでしたが、優勝したのは、宮崎監督映画 「風立ちぬ」にも登場した本庄季郎氏が設計した機体でした。 


本庄季郎氏は、第二次世界大戦中に、 海軍のために優秀な機体 一式陸攻を設計した人です。


 優勝機体のパイロットは ハンググライダー世界大会に出場経験のある岡良樹氏でした。

 本庄設計、岡操縦の双胴固定翼ハングライダーは、 2位以下、航続距離40~50メートルの記録が並ぶ中、 82メートルという抜きん出た好記録で、圧勝しました。


 鳥人間コンテストの当初は、コミカルな部門もありましたが、姿を消し、次第に純粋に航続距離を伸ばすことに焦点を絞り込んだチーム参戦が、定石となってきました。

  

上位に名を連ねるチームには、いくつか常連チームがあり、ほとんどが理系大学チームです。 


その中でも群を抜いて高い技術をもった学生チームがあります。 


それは日大理工学部のチームです。


この日大チームは、第1回目から参戦しており、 歴代の記録を何度も塗り替えてきました。


 当初、大会目標は、航続距離100メートルでしたが、その壁を最初に超えたのは、 日大チームで、1980年第4回大会優勝記録101.60メートルでした。


 1990年の第14回では、1位2位ともに日大チームが独占し、 優勝記録は1810.54メートルの大記録でした。


 2003年には、出発点からはるか遠く、到達不可能と考えられていた琵琶湖大橋まで航続し、 34キロメートルの大記録を出しました。


 この大記録により、ルートに折り返し地点が設置されるようになりました。 


では、なぜ、こんなにも日大チームが強いのでしょうか?  


それは、ある一人の先生の存在によるのです。


 先生のお名前は木村秀政です。 


木村先生は、ライト兄弟が動力飛行機を成功させた翌年、1904年生まれです。 


 徳川好敏、日野熊蔵 両大尉の日本人初飛行時、先生は6歳でした。


 日本の飛行機が産声を上げ、成長するとともに少年時代を送った先生は、 飛行機が大好きな青年になり、東大の航空学科の学生となりました。


 同学科には、零戦開発の堀越二郎、飛燕開発の土井武雄がいました。


 大学卒業後は、母校の東大で教鞭をとりながら、国の航空研究所で、飛行機開発をしていました。


 しかし、第二次世界大戦で、敗戦国となった日本は、飛行機に関わるすべてを禁止されました。

  

学校教育に組み込まれていた模型飛行機作りまで禁止です。 


先生は、働いていた航空研究所と東大を辞めなければなりませんでした。 


大好きな飛行機の仕事を取り上げられ、意気消沈した日々を送っていた先生のもとへ、 日本大学からのお誘いがあったのは、終戦後2年目、1947年です。

 

こうして、木村先生は、日本大学、通称、日大で教えることになりました。


 先生が日大で、教鞭を取り始めた5年後の1952年に、やっと日本で飛行機が解禁になりました。


 早速、先生は、日大に航空専修コースを創設し、 若者たちが、専門的に飛行機のことが勉強できる環境を整えました。


 次に先生は、日大の航空専修コースの卒業研究として、学生たちだけで人力飛行機を作り、 飛行させる、という課題を与えました。


 学生ひとりひとりが、自分の能力を、生かし、協力して飛行機を作りあげていくことは、 ものづくりの楽しさと、達成感を味わえる、最高の教材だと、木村先生は考えたからです。 

 

先生のその想いは学生たちに浸透していき、飛行機好きの若者たちが日大に集まりました。


 日大の卒業研究の人力飛行機は、正式に世界記録に挑戦していたので、その成果が、 しばしばマスコミに取り上げられ、全国の小中学校の掲示新聞、 「学研こども新聞」にも大きく掲載されました。


 倉敷で模型飛行機に夢中になっていた中学3年生の石井さんの耳にも、 もちろん日大の人力飛行機のニュースは届いていました。 


しかし、まさか数年後、自分が、その日大の卒業制作の人力飛行機の中心的存在になるとは、 想像さえしていなかったでしょう。


 石井さんは、受験勉強そっちのけで、模型飛行機にのめりこんだ結果、 第一志望の県立高校に入学できず、倉敷の日大付属高校に通学することになったのです。 


 2017年3月25日 ~つづく~