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株式会社 陽雄

論語読みの論語知らず【第94回】 「丘 未だ達せず。敢えて嘗めず」

2021.10.01 08:00

筆名は「二畳庵主人」、号は「孤剣楼」を使われる加地伸行氏は漢文学者であり、かつて若かりし頃に出版された「漢文法基礎」は、1970年代から今日まで何度かお化粧直しをしながら売れ続けている。本文の語り口調は軽妙でスムーズ、漢文の文法書という重々しさを巧く薄めている。加地氏がこの本を執筆された理由の一つは、世の中に出ている漢文参考書の多くはひどいもので役にたつとも思えないから、ここは一つ自分が書くとしたという。本来、漢文の受験対策のために書かれた本なのだが、大人になって漢文にもう一度触れてみようと思う人にも十分に通じる構成と内容だ。


私自身は漢文と向き合うことは多く、時折、思い出したかのようにこの本を読み直すが、そのなかでハッとさせられる文があった。それは受験に失敗し浪人した人が、もう一度基礎から始めると称して、初歩的テキストからやり直すことが多くあり、これは初歩と基礎の違いが分かっていないと喝破する文脈のなかでのことだ。


「・・初歩的なことがわかるということを、基礎ができたものと、勘違いするのだ。いいかい、初歩的知識というのは、単なる事実としての知識にすぎないんだ。それはそれだけのことであって、その初歩的知識には広がりというものがない。つまり応用がきかない、ということなんだ。いや応用がきかないというだけではない。ただ漠然とさまざまな知識がつめこまれるだけであって、体系的でない。個々のことは知っていても、全体としての見とおしがきかない。つまり、整理ということができていない。だから、初歩的知識に対して底の浅い気休めの時間つぶしのような反復練習をいくら行っても、実力などつくはずがない・・」(「漢文法基礎」講談社学術文庫より)


自らのことを省みると、正直なところ学校でのテストは常に苦手であった。知的好奇心が薄かったわけではない。日本史であれば、年号と事実関係をミニマムだけ覚えればテストはクリアできるが、それ以上の背景や因果を考えようとしているうちに、テストに間に合わなくなるのだ。教科書を読みふけるうちにいろいろと想像し、問題集にロクにあたることなく終わるので、成績となると振るわなかった。初歩的知識を身につけたら、問題集で問われるパターンを認識していけばよく、一方で体系的に深くは理解する必要はないと諭されても、それとうまく共生できない少年時代だった。


社会科や歴史などは好きで、何かの事件や物事を知るとそれについて調べてしまう癖があったが、これまた試験にはほとんど関係しない領域であった(91年に湾岸戦争が勃発したときは14歳だったが、当時、随分とこの問題を調べた。イラクと多国籍軍のミリタリーバランスや国情、現代戦や戦略とは何だろうと知りたくてお小遣いで書籍をいろいろと買って「研究」した。そのことを社会科教師に伝えるとあまりよい反応は得られずに、このとき少しだけ大人になった)。今にして思えば独善的な独学だから初歩的知識の域を出られたとは思わないし、結局学校で学ぶ勉強とは何をどこまで覚えて理解すればよいのかを、なかなか掴むことができない一人の少年がいただけのことだ。


日本の伝統である「道」がつくものは、入門したばかりの頃、いちいち深い意味合いなどは教えてくれない。これまた私事だが小学2年のとき空手道場の門を叩いた。空手道にもいろいろな流派があるが、最初に入門したのは伝統空手と呼ばれるもので、そこではまずは基本と型を延々と稽古する道場であった。型は東京オリンピックでも競技として取り入れられたように、仮想の敵との攻防を決められた動きで一人演じていくものだ。


平安(ピンアン)と呼ばれる初歩の型からはじまり、何年も稽古を続けていくうちにウンスー、ジオン、エンピ、カンクウなどの上級の型を稽古していき、中学に入り茶帯に昇級する頃には型をほとんど覚えることになる。ただ、型のそれぞれが敵とどのような攻防をしているのかをなかなか教えてもらえなかった。小学校低学年なら意味を理解せずとも稽古に進みゆけたが、中学になる頃にはそのスタイルを受け入れることができずに、伝統空手から直接打撃制の空手へと道を変えることになった。


ところで、加地氏は初歩的知識に対しての基礎について次のように喝破している。

「・・基礎というのは、初歩的知識に対して、いったいそれはいかなる意味を持っているのか、ということ。つまりその本質を反省することなのである。初歩的知識を確認したり、初歩的知識を覚える、といったことではなく、その初歩的知識を材料にして、それのもっている本質を根本的に反省するということなのだ・・・」
(同)


大学教育をどうにか終えて20年以上の歳月が過ぎたが、今は様々な物事の基礎を自由に研究することが許されるのが正直ありがたい。戦略についていろいろとカビ臭い古典からさらい直し、独学で研究したものが本として出版を許容され、かつて中学時代に感動した李白の漢詩を書き写し諳んじ、それを静かな楽しみにもできる(漢文の試験なども勿論ない)。また、少年時代に延々と稽古した空手型の意味も、今ではYouTubeなどで検索すれば懇切丁寧に「分解」(攻防の意味合い)を説明もしてくれるので、それを糧に一人で稽古することもできる。私自身としては初歩的知識を基礎に変えるべく努めているつもりだ。もっとも、こうしたやり方が決して効率的だとは思っていない。ただ、世の中がデジタル化していくなかで、あえてそれとは違ったアプローチを体内に持っておくことで中庸を保つことが必要な気がしている。一問一答にはめ込んで即答ばかりを求めずに、効率は悪くとも独学を大切にするスタンスを次の論語の一文と紐づけて心に沈めている。


「康子(こうし) 薬を饋(おく)る。拝して之を受く。曰く、丘(きゅう) 未だ達せず。敢えて嘗(な)めず、と」(郷党篇10-10)


【現代語訳】
(魯国の大夫の)季康殿が老先生に薬をお贈りなされたことがあった。先生は拝してお受け取りになり、(使者に)こうおっしゃられた。「(本来ですと、さっそく服用するのが礼でありますが、)私め、この薬につきましてはまだ知識がありませぬゆえ、今すぐの服用をいたしませぬ(ことをお許しください)」と(加地伸行訳)


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。