瞑想の基本四要素
http://anzenmon.jp/page/10243156 【その5 瞑想の基本四要素】より
すべてのことは、今というこの瞬間に起きています。あなたが生きているのは、この瞬間、今この時です。自分の内外で生じるあらゆる体験は、今この瞬間に起きているのです。もっと充実した人生を送り、ストレスや(恐怖、不安、パニックなどの)人生の難問により効果的に対処し、人生に対する畏敬の念をさらに深めるためには、自分が今という瞬間とつながり、そこに存在できるようになることが重要です。
注意を向けながら今を生きる力をはぐくむことは、困難であると同時にすばらしいことでもあります。今に注意を向けぬまま上の空で過ごしてしまう習慣は確かにてごわいものですが、人生の一瞬一瞬の体験は実に貴重なのです。
マインドフルネスの価値
一九九七年のベストセラー『モリー先生との火曜日』(邦訳、NHK出版)で、ミッチ・アルボムは慕っていた大学の恩師モリー・シュワルツ教授との会話をつづっています。モリーは筋萎縮性側索硬化症で死の床にありました。ミッチは火曜日ごとにモリーを訪ねていきました。ある火曜日、二人は死について話します。ミッチは、死について考えることはなぜ難しいのかと、モリーに尋ねます。モリーの答えはこうでした。「なぜかっていうと、みんなまるで夢遊病者なんだな。われわれはこの世界のことを心底から十分に体験していない。それは半分眠っているから。やらなければいけないと思っていることを無反省にやっているだけだから」
死に直面すれば、すべてが変わる?
「そうなんだ。よけいなものをはぎとって、かんじんなものに注意を集中するようになる。いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっと変わるよ」。そして、はあっと息をつく。「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」(別宮貞徳訳)
モリーはさらに、いかに死ぬかを学ぶこつは自分が「いつ何どき死んでもおかしくない」ことを受け入れることだと、ミッチに教えます。その真実ゆえに、モリーが生を尊ぶ気持ちが深まるのです。モリーはこう言います。「自分の寿命がほとんど尽きているために、かえって自然を見るのはこれがはじめてみたいに引きつけられるんだな」(同)
モリーは彼一流の知恵で、人生の一瞬一瞬の尊さを心から味わうよう教えてくれています。
けれども、恐怖や苦痛に満ちた瞬間についてはどうでしょう。そうした瞬間も貴重なものなのでしょうか。そうした瞬間に意識を向けることで何か得るものがあるのでしょうか。
有名な瞑想指導者であるペマ・チョドロンは、著書『チベットの生きる魔法』(二〇〇一年、邦訳・はまの出版)のなかで、苦痛に立ち向かうことについて、自分の子ども時代のエピソードを紹介しています。ペマが六歳ごろのこと、「だれも愛してくれない寂しさに腹を立てて、目につくものは何でも蹴飛ばしながら」通りを歩いていました。ある老婦人がペマを見て、笑いながら言いました。「お嬢ちゃん、物事は悪くとってはいけないよ」。明白な教えでした。「そのとき、私はこの教えの核心をつかみました。何事も悪く受け止めれば、ますます苛立ち、不安がつのります。一方、柔軟に受け止めれば、もっと心優しくなれ、恐れに対しても心を開いていられます。私たちは、いつもどちらかを選ぶことができるのです」(えのめ有美子訳)
人として、あなたは一瞬一瞬の尊さを味わうのに必要なものをすでに持っています。ものごとを悪くとって怒りや恐怖にとらわれる代わりに、恐れに対して心を開くのに必要な資質は、すでに備わっているのです。
その資質がマインドフルネスです。マインドフルネスは本当の意味で今を生きる力を与えてくれます。
マインドフルネスは体験するものです
マインドフルネスという言葉はもともと英語ですが、どんな言葉も、また、その言葉が意味するどんな概念も、伝えられる内容には限界があります。マインドフルネスについて別の本を読んだり別の人から話を聞けば、おそらく違う定義に触れることでしょう。ある概念を表すのに用いられる言葉やシンボルが文化によって異なるのと同様、その概念の用いられ方も文化によって異なります。ですから、マインドフルネスについてただ話したり、考えたり、読んだりするだけというのは、マインドフルネスを理解するのにふさわしい方法とは言えないことを、最初に承知しておいてください。
マインドフルネスという概念を伝えるのに私たちが用いる言葉は、単にシンボルであり、一種の地図にすぎません。実際にマインドフルネスを体験するというのは言葉や概念を超えたものです。この体験は、直接実践することでしか得られません。自分自身の直接的な体験という真実をとおして、初めてマインドフルネスを本当に理解することができるのです。
とはいえ、マインドフルネスという概念についてお話しすることで、直接的な体験についての大まかな感触はつかんでいただけることでしょう。
マインドフルネスの定義
最近では、いたるところでマインドフルネスという言葉を見聞きします。ところが、マインドフルネスを正反対の意味の「注意を払わないこと」という言葉と混同したり、マインドフルとは、心を何かでいっぱいにすることだと思っている向きが見られます。そのため、実際には単純なことがわかりにくくなりかねません。ここで、マインドフルネスという語をより明快かつ正確にとらえ、この語の由来や本書での用法などを見ていくことにしましょう。
ウェブスターの英語辞典(New World College Dictionary )はmindfulness という見出しを載せていませんが、mindful を「心にとどめる、気づいている、注意深い、気を配る」と定義し、mindless を「注意しない、知力・知性を働かせない、無分別な、思慮の浅い」と定義しています。
社会心理学者のエレン・ランガーは、さまざまなありふれた人間の活動における精神状態と行動との関係を研究した貴重な著作のなかで、マインドフルネスという言葉を用いました。ただし、ランガー自身が指摘しているとおり、この研究は完全に西洋科学の観点からなされたものです。
ランガーはマインドフルネスという言葉を瞑想トレーニングという文脈ではなく、気づきという東洋的な考え方に結びつけています。実のところ、ランガーの著書ではまず、マインドレスネス、つまり、日常生活に多大な困難をもたらしかねない習慣的で不注意な行動を検討しています。ランガーは、固定化したものの見方や考え方を持つことで、目の前のものごとがいかに見えなくなるか、そのためにどれほど大きな代償を払うことになるかを説明しています。
マインドフルネスについてのこうした定義や実例は西洋文化の観点に基づいたもので、思考やものの見方、知的知覚に重きをおいています。こうした定義・実例は実に貴重なもので、本書で紹介するマインドフルネスの概念とも著しい類似点があります。けれども、一点、大きな違いも見られます。
瞑想から生まれるマインドフルネス
違っているのは、本書で紹介する手法が、マインドフルネスは瞑想をとおしてはぐくまれるという考えをよりどころとしている点です。瞑想に基づくこうした手法は、思考のほかこの瞬間の体験のあらゆる側面に注意を向け気づいていくという直接的な体験を基盤としています。マインドフルネスへの理解やマインドフルネスから得られる恩恵は、瞑想を実践する個人の体験から直接的に生じてくるものです。実際に瞑想しなければ、得るところはありません。
マインドフルネス瞑想のトレーニングをたゆみなく続け、よりどころとしていくことで、注意を向け気づきを得るすべを学びます。
本書には、瞑想トレーニングを開始し、逃れようのない障害にぶつかったときも続けていくためのヒントがたくさん詰まっています。けれども、実際に瞑想しなくてはならないのは、ほかならぬあなたです。本書を読んでも、実践が伴わなければあまり役には立たないでしょう。
瞑想はだれにでもできるものです
仏教徒は瞑想、とりわけマインドフルネス瞑想を二五〇〇年以上にわたって実践し、その実践に役立つ膨大な情報を蓄積してきました。本書で紹介するマインドフルネス瞑想には、そのように蓄積された経験や知恵が詰まっています。
本書の瞑想法は仏教の伝統に端を発するものですが、実際のトレーニングはごく一般的なものです。特別な信念体系も宗教的見解も必要としません。マインドフルネスはどんな宗教の束縛も受けないのです。
ジョン・カバット= ジンは『生命力がよみがえる瞑想健康法』(一九九〇年、邦訳・実務教育出版)のなかで、マインドフルネスを次のように定義しています。「注意を集中するということは、〝一つひとつの瞬間に意識を向ける〞という単純な方法です。この力は、今まではまったく意識していなかったことに、意識的に注意を払うことによって高まってきます。つまり、『マインドフルネス瞑想法』は、リラクセーション(緊張がゆるみ、安らいでいる状態)や注意力、意識、洞察力をもたらす潜在的な能力を活かして、自分の人生を上手に管理する新しい力を開発するための体系的な方法なのです」(春木豊訳、ルビは本書訳者)
経験があなたの最良の師です。瞑想を日々の習慣とすることで、ぜひマインドフルネスを体験してください。
マインドフルネスについて詳しく見てみましょう
マインドフルネス瞑想とはどんなものか、理解を深めるために、さまざまな角度からマインドフルネスについて詳しく見ていくことにしましょう。
マインドフルネスは忠実な鏡です
マインドフルネスはすべての人間が持っている、ものごとを忠実に映しだす能力だと考えられます。あいにく、多くの人々は自分がこの能力を持っていること、また、この能力を伸ばすことができ、そうすべきでもあるということに気づいていません。瞑想指導者のラリー・ローゼンバーグは『呼吸による癒し――実践ヴィパッサナー瞑想』(一九九八年、邦訳・春秋社)で、マインドフルネスのこうした側面について言及しています。
私たち人間には、あらためて関心を向けてみるまではあたりまえだと思いこんでしまっているような、とてつもない才能があります。すなわち、この世界でそれぞれの命を生きているほかの生き物たちとは違って、私たち人間には何かをしながらそのプロセスを意識することができるという能力があるのです。
気づきはしばしば鏡に喩えられます。鏡はそこにあるものをただ映し出すだけです。それは考えるプロセスではなく、概念以前、思考以前のものです。思考について気づいていることができます。考えることと、思考が起こってくるのを知ることとの間には大きな違いがあります。前者は思考が心の中で追いかけっこをしている状態であり、後者はそうしたプロセスが私たちに映し返されている状態です(井上ウィマラ訳、ルビは本書訳者)。
マインドフルネスは能力として常に存在していますが、あなたはこれをいつも利用しているわけではない(あるいは、頻繁に利用しているとさえ言えない)かもしれません。それはまさに、この能力に気づかずこれを活かしていないからです。そのために、自分が人生の非常に多くのことを見落とし、習慣的な知覚、思考、感情、行動にとらわれていることに気づかないのです。
マインドフルネスは資質です
マインドフルネスは能力ではなく資質として論じられることがあります。
判断せずに心を開くこと
資質としてのマインドフルネスには、判断を加えない、干渉しない、あるがままに任せるといった一定の特性があると言われます。
また、マインドフルネスは、努力せず、拒絶せず、否定しないことであるとも言われます。
マインドフルネスというのは、ちょうど鏡がその前にやってくるあらゆるものを映しだすのと同じように、生じてくるすべてのものに心を開き、これを受け入れることです。何事にも賛成も反対もせず、決して付け加えたり差し引いたり、改善させたり変化させたりしようとしないことです。
思いやりと親密さ
瞑想を通じてマインドフルネスを訓練し培う際、親密さと思いやりもマインドフルネスにかかわる重要な特性となってきます。
ローゼンバーグは先の著書で一三世紀の禅僧、道元について触れています。道元は目覚めた心とは「すべてのものと親密な心」であると言いました。ここで言う親密さとは、今この瞬間に起きていることから離れずに、そのただなかで人生の直接的な体験に意識を向け、心を開くことです。マインドフルネス瞑想を行う際には、生じてくる体験に超然と距離をおいたりせず、その体験に意識を向け、これと触れ合います。
思いやりはマインドフルネスに欠かせない特性です。多くの瞑想指導者は瞑想中に生じるすべてのことに好意的な温かい心を向けることが重要だと力説しています。
思いやりや好意といった温かく迎え入れる精神によって、一瞬ごとの体験に心を開きやすくなります。また、判断を下す、嫌悪を抱くといった根深い習慣は無意識のうちに強く作用し、意識的に注意を払うことの妨げとなりがちなものですが、こうした習慣も克服しやすくなるのです。
著名な瞑想指導者ティク・ナット・ハンは、瞑想中にほほえむことを勧めています。著書『仏の教え ビーイング・ピース』(一九八七年、邦訳・中央公論新社)のなかで、ハンはこう述べています。「人生は、とても嫌なものであるとともに、素晴らしいものです。瞑想を行なうということは、この両面とかかわることです。どうか、瞑想が、もったいぶったものだと考えないでください。実際は、うまく瞑想するためには、たくさんの微笑をしなければならないのです」「今のこの瞬間が、唯一の真実の瞬間です。今、ここで、生き、現在の瞬間を楽しむことが、私たちの、もっとも重要なつとめです」(棚橋一晃訳)
慈しみの心で苦しみと向き合いましょう
すべてのものと親密になりこれを受け入れるというのは、マインドフルネスを実践するのに勇気がいることを意味しています。今ここにあるものに対する意識が深まるにつれ、つらく不快なことへの意識も深まります。そうした苦しみと向き合うには勇気や忍耐力が必要です。ここから、ペマ・チョドロンが言及したのと同じ選択肢が生じてきます。ものごとを悪くとっていらだちを募らせるのか、柔軟に受け止めて心を開くのか。慈しみとは、今にとどまることで苦しみが和らぐことを願って、進んで今にとどまり、生じてくる苦しみに心を開こうとする気持ちです。
変化には痛みも伴います
マインドフルネス瞑想は苦しみや恐怖をも含めたありとあらゆるものに対する意識と感受性を高めるため、初めのうちは以前よりつらくなることがあると承知していてください。けれども、これは癒しと変化のプロセスのほんの一段階にすぎません。瞑想体験が深まるにつれ、恐怖や不安、パニックが生じているときでも、リラックスして今を生きられるようになるでしょう。これは意志の力のなせるわざではなく、瞑想をとおしてはぐくまれる能力です。
心に安定と調和が訪れます
マインドフルネス瞑想から得られる収穫の一つは、やがて、自分の中心に安定と調和という核を見いだせることです。この核は頼りになる揺るぎないもので、心の平安の源です。つらい体験にも、この核に足場を据えて向き合うようにしていけば、今を生きる力が高まります。
マインドフルネスを発揮できれば、恐怖や不安、パニック、心配といった、ひどく心をかき乱す感覚・感情・思考・体験でも、自分と同一視したり、絶対の真実だと思ったりせず、もっと広い視野から、心を通り過ぎていくできごとなのだと考えることができます。このように、ただ今に意識を向けていくことで、心からの癒しが促されます。そして、自分の中に平安と落ち着きに満ちた空間を発見し、そこに確実にとどまれるようになるでしょう。
瞑想指導者はしばしばマインドフルネスを、親密さと思いやりを示しながら心をこめることだと言います。心や思考に重きをおいたマインドフルネス(mindfulness)という英語由来の言葉には表現の限界があります。中国語でマインドフルネスを表す文字は「念」、つまり「今」と「心」という部分から成り立っています。
この心をこめるという観点からすると、マインドフルネスは「今ここにあること」と言ってもいいでしょう。今ここにあるというのは、あなたという存在の本質とともにここにあるということです。気が散って心が留守になっていれば、あなたは本質的にはここに存在しないのです。ですから、マインドフルネスとは、心を開いて今という瞬間に意識を向けながら、本質的に完全な形でここに存在することを意味するのです。
瞑想とは?
本書で紹介しているマインドフルネスは瞑想をとおしてはぐくまれるものです。ですから、先に進む前に、瞑想とは何なのか、本書ではどんな意味で用いるかを明らかにしておくべきでしょう。
瞑想指導者クリスティナ・フェルドマンは瞑想の意味を的確にとらえ、その著書でこう述べています。「どのような瞑想法にも共通する中核的な要素がいくつかある。注意力、気づき、理解、慈しみはあらゆる瞑想法の基本と言える」
注意力は、「自分を今の瞬間に結びつける手段」です。
気づきを得ることで「苦しみがなく、軽やかで鋭敏で明晰な意識がはぐくまれ、直観
的で平静な精神状態がもたらされ」ます。
理解は、「内的世界と外部の世界とをじかに感知することから生まれて」きます。理解
は「人生の新たな道を歩む可能性」を与えてくれるもので、「深まる知恵の一部をなすもの」です。
慈しみとは、判断を加えない優しい気持ちで、自分に、ひいては生あるすべてのもの
に注意を向けることです。
したがって、瞑想とは次のようなことを伴う変化のプロセスだと言えます。
・穏やかな安定した気持ちで注意を向ける
・軽やかで明晰な意識をはぐくむ
・自分や人生に対する理解や知恵をはぐくむ
・慈しみや思いやりといった資質を根づかせる
瞑想法は文字どおり何千とあります。瞑想は精神修養として発達したもので、その目的は私たちを人として変化させ、目覚めさせることです。瞑想を実践することで、経験に基づく学びが得られ、この学びが変化と覚醒をもたらすのです。瞑想は、恐怖や不安、パニックといった体験を変化させる手段としても有効です。
瞑想法は数々ありますが、大まかに二つのカテゴリーにわけることができます。一つは、限られた一つのことに注意を集中させる「一点集中型の瞑想」、もう一つは今の瞬間のすべてに意識を向けることを重視する「マインドフルネス瞑想」です。これから見ていくように、マインドフルネス瞑想は恐怖や不安に対処するのにきわめて適した方法と言えます。それは、この瞑想法が今この瞬間の恐怖や不安に対して異なる取り組み方をすることを重視するものだからです。
過去二五年ほどの間に西洋医学が研究対象としてきた四つの主な瞑想法のうち、三つ(超越瞑想、ベンソンの考案した瞑想法、臨床標準化された瞑想)は一つの事柄への集中を重視していますが、マインドフルネス瞑想法は今を意識することを重視する点でほかの三者とは異なっています。
マインドフルネス瞑想は集中力に支えられるものではありますが、単なる集中と同じものではありません。実際のところ、どの瞑想法も必ず集中することと意識を向けることがかかわってきますが、二つのアプローチの重点の違いを知ることで、マインドフルネス瞑想法が不安への対処になぜそれほど威力を発揮するかを理解できるでしょう。
一点集中型の瞑想
注意の集中を重視する瞑想法の場合、たいていは一つの対象だけに的を絞ります。対象は心のなかにあるものでも外部にあるものでもかまいません。呼吸の感覚や外部の物音でもよければ、心のなかで繰り返し唱える簡単な言葉でもいいのです。
宗教的な修行であれば、神聖な文句や祈りの言葉。精神修養なら、聖人の肖像や絵画、火のついたロウソク。(血圧を下げたいなど)健康のための瞑想なら、もっと日常的で中立的なもの――呼吸の感覚や物音、宗教的な意味合いのない言葉の繰り返しなど、といったぐあいです。
このタイプの瞑想では、注意が対象からそれたら、静かに戻すようにします。注意のそれた先に気づいても、そこにとどまるのではなく、できるかぎり穏やかに忍耐強く注意を元に戻すのです。これは心を鍛えるのに必要なことと考えられ、文字通り何千回も繰り返すことになります。注意を一点に集中させることによって、リラクセーション反応が引き起こされるのです。
マインドフルネス瞑想
こちらの瞑想法は、今を意識すること、つまりマインドフルネスを重視するものです。マインドフルネス瞑想では、注意を払うことによって、今この瞬間と今ここにあるすべてのものへの意識を深めようとします。マインドフルネスというのは、考えることではない、概念以前の状態です。
マインドフルネスは、思考をはじめとして今ここにあるものを意識する生来の能力をよりどころとしています。意識する力は、自分の内部と外部の両方で今この瞬間に生じるあらゆるものに対して、意識的に、幅広く、奥深く、判断を加えずに注意を払うことによって培われます。今この瞬間に意識を向けることが、あなたと不安との関係を変化させるカギです。それによって、あなたは自分の不安な思考を判断を交えずに観察し、その思考が単に今この時に生じている思考にすぎないことに気づき、心の中心に恐怖に支配されない落ち着きを持つことができます。
瞑想に対する誤解
瞑想について、実にいろいろなことが言われています。ここで、マインドフルネス瞑想をめぐる誤解について目を向けておくべきでしょう。
瞑想は「ポジティブシンキング」ではありません。それどころか、考えることですらありません。瞑想とは思考に注意を払うことです。マインドフルネス瞑想では、ほかのあらゆるものとまったく同じように、思考も注意を向ける対象となります。
瞑想はリラクセーション法ではありません。落ち着いてリラックスした状態が支えになるとはいえ、マインドフルネス瞑想はリラクセーション法をはるかに超えたものです。ねらいは意識する力を高めることであり、その力によって知恵が得られ、習慣的な反応から解放されるのです。
マインドフルネスとは、トランス状態に入ることではありません。今この瞬間の体験から離れたりそれを変化させたりすることではなく、その体験とともに今を生きようとすることなのです。
瞑想は「心を空っぽに」することではありません。マインドフルネス瞑想を実践することにより、あなたはその瞬間瞬間で、自分や人生に対してより意識的になり、自分や人生と深く結びつくようになるでしょう。
瞑想は僧侶の専売特許ではありません。特別な修行も地位も必要ありません。瞑想とは、今を意識しながら生きるという、すべての人間に生来備わった資質を思いだし、それと再びつながるための方法です。
瞑想は自己本位なものではありません。マインドフルネス瞑想によって生じる変化を表現するには、自己充足と言ったほうがいいでしょう。確かに、瞑想を名目に自分の務めや人間関係をおろそかにする人もいますが、そうした姿勢は瞑想を曲解したものです。マインドフルネス瞑想を正しく実践すれば、意識を向ける力が高まり、周囲から親切で配慮の行き届いた、思いやりのある人間だと思われるようになるでしょう。
まとめ
本書で紹介する瞑想法は、注意を払う、意識を向ける、判断しない、心を開くといった姿勢が基礎になっています。マインドフルネスや思いやり、慈しみをもって恐怖や不安、パニックに対処する際に、こうした姿勢がどう役立つのか、次第にわかってくるでしょう。
本書の目的は、あなたがマインドフルネス瞑想を日々の習慣とし、普段の生活に取り入れていくためのお手伝いをすることです。瞑想を実践していくにつれ、あなたは恐怖や不安、パニックにきわめて効果的に対処するすべを学ぶでしょう。
著者等紹介
ジェフ・ブラントリー
医学博士。デューク大学医学部精神医学科顧問医師。同大学統合医学センターの「マインドフルネスに基づくストレス緩和(MBSR)プログラム」の創始者、ディレクターでもある。ラジオ、テレビ、新聞、雑誌などでMSBRプログラムに関する数々のインタビューに応じている。