本日、ピクニック日和
ロンドンの一頭地に新しく建てたモリアーティ邸に住まうのは当主ではなく、幼い養子の末弟だった。
じきに爵位継承の儀を執り行う予定のアルバートはイートン校へ復学し、その弟たるウィリアムも今年からイートン校へと通い始めている。
年齢的にも学校へ通うことのない末のルイスは、アンティーク調の様式美と広く実用的な機能美を兼ね備えた屋敷で日々勉学に励んでいた。
兄達とはまめに手紙のやりとりをしていたけれど、今日は二人とも短期間だけ帰省してきてくれたのだ。
一昨日はずっと三人で近況報告をしながら語り合い、昨日はルイスの案内の元この屋敷内を散策した。
そうして今日は近頃貴族間でブームだというピクニックに出かけようと、昨日のうちにアルバートが提案してくれた。
ゆえにルイスは寝ているウィリアムの腕の中を抜け出して、朝早くから張り切って持ち運び出来るランチの用意をしているのだ。
「ウィリアム兄さんのすきなスモークサーモンのサンドイッチと、アルバート兄様のすきなオリーブのピクルス、どちらも美味しく出来ました」
ふふふ、と自分で作ったお弁当を見たルイスは満足げに微笑んだ。
数種類のサンドイッチに付け合わせのピクルスやポテトやフライ、デザートにはフルーツとヨーグルトを用意した。
ポットには香り高く温かい紅茶が入っているし、足りなかったときにつまめるようマフィンとチョコレートもバスケットに収めている。
今日はこれを持って景色の綺麗な草原まで行き、アルバートとウィリアムの三人でピクニックに行くのだ。
外で食べるランチはきっと美味しいだろうし、用意した二人の好物を見て喜んでもらえたらルイスはもっと嬉しくなる。
空いた時間で散策をして、ウィリアムに花の種類を教えてもらったりアルバートと木々を眺めたりするのも楽しいはずだ。
ずっと昔に「ルイスはお花で冠を作るのが上手だね」とウィリアムに褒められたことがあるから、二人に作ってあげるのもいいかもしれない。
ウィリアムとアルバートが寮に行ってしまう前にたくさん思い出を作るのだと、ルイスはわくわくした気分で両手を洗う。
浮き足立つルイスの気持ちとは裏腹に、屋敷の外ではどんよりとした雲が覆っていた。
「今日は冷たい雨が降っているね」
「えぇ。止むか止まないか危ういところです」
「仕方ない…今日の予定は中止にしようか」
「えっ」
「そうですね。雨の中を出掛けて体調を崩してはいけませんし」
そうだというのに、ルイスがウィリアムとアルバートを起こして共にリビングへ向かったとき、想像もしていなかったことを言われてしまった。
朝一番にルイスがカーテンを開けたときは曇り空だったはずなのに、今はしとしとと雨が降っている。
窓を開けてその雨に手を伸ばしたアルバートの顔は険しく、ウィリアムも残念そうにしてはいるがもう結果は決まっているのだと迷いのない表情をしていた。
「で、でも、この程度の雨なら普段と変わりありません。出掛けている最中に止むのではないでしょうか」
けれど、兄達に反してルイスだけがその決定を覆そうと懸命だった。
英国では雨など日常だし、少しの雨ならば傘すらさすこともせず外を出歩くことも多い。
天気の良い日にピクニックに行けるのがベストかもしれないが、そんな日を待っていてはいつになるか分からないのだから、土砂降りでなければ構わないはずだ。
今日を逃してしまうと二人と一緒にピクニックに行けるのは大分先になってしまう。
せっかく二人と一緒に過ごせる機会なのだからルイスは絶対に諦めたくない。
朝早くから二人のためにお弁当も用意したし、一緒に自然いっぱいの景色を眺めながら食べたかったのに。
「ルイス、無理に出かけて風邪を引いたら大変だろう?」
「ピクニックはいつでも行ける。今日は諦めよう」
「でも、でも…!」
いつでも行けるとアルバートはそう言うけれど、いつでも行けるほどルイスは二人と一緒にいないのだ。
アルバートもウィリアムもこの屋敷から遠く離れたイートン校で過ごしており、ルイスだけが真新しい屋敷にいる。
ピクニックに行けるのだって二人が次に帰省してくれないと行くことが出来ないし、そのときに雨が降ったらまた延期になってしまうのだろう。
ルイスはウィリアムとアルバートと一緒にいつもとは違う日常を過ごしたかったのに、二人はそう思わないのだろうか。
きっとルイスが万全の健康体ならば、この程度の雨など気にせずピクニックに連れて行ってくれたのだろう。
定期検診では問題ないと言われてはいるけれど、ルイスは未だ体調を崩しやすい。
自分を気遣う兄の気持ちが嬉しいはずなのに、その分だけ病弱な自分の体が嫌になる。
「…僕、ピクニック、楽しみにしてたのに」
「次の休暇のときに行こう。今日は温かくして過ごそうね」
「ルイス、ピクニックは逃げないよ。そう残念がることはない」
「……はい…」
ウィリアムは目に見えてしょんぼりと落ち込むルイスを慰めるためにその丸い頭を撫でる。
ふわふわした髪は湿気のせいかいつもよりも癖が強いように思う。
ぴょこんと跳ねている髪の毛を撫で付けるように整えてあげると、ルイスは悲しそうにウィリアムの胸に手を当てて衣服をぎゅうと握りしめる。
日頃一緒に過ごせない弟が寂しがる様子は兄としての気持ちに影を落とすけれど、雨降る中で無理にピクニックを強行したところで、待っているのはルイスが体調を崩して苦しむ未来だ。
我慢しては聞き分けの良いルイスを褒めるべく、アルバートは小さな背をぽんぽんとさすってあげた。
「で、何で俺のところに来たんだよ」
「……」
「黙ってちゃ分かんねーよ。ったく、不細工な顔しやがって」
「…兄さんも兄様も、可愛いって言ってくれますもん」
ぶすくれた顔をしたルイスは大きなバスケットを両手に、モリアーティ家の居候であるモランのところにやってきた。
現状、モリアーティ邸はルイスとモランの二人が住んでいる。
兄が二人とも寮に入る以上ルイスは一人屋敷に残るはずだったのだが、新しい屋敷に住まう直前にジャックから紹介されて同志となったモランがルイスの面倒を見てくれることになったのだ。
面倒を見るといってもルイスは身の回りのことどころか屋敷の管理すらも一人でこなしてしまうのだから、モランはルイスの護衛がてら療養を兼ねて居候をしている。
ウィリアムとアルバートが帰ってくる間は三兄弟の時間を邪魔しないよう部屋に篭るか町に出ていたのだが、そろそろ出掛けるかと支度をしていたら突然ルイスがやってきて、今日はそれどころではなくなってしまった。
「そうかよ。そんで、その可愛い顔したルイス坊ちゃんはどうして兄貴らのところに行かないんだ」
「…可愛いじゃなくて格好良いって言ってください」
面倒くせぇなおい。
モランはそう思ったけれど、かろうじて声には出さず顔にだけ出すことに成功した。
バスケットをサイドテーブルに置いてベッドにうつ伏せたルイスにはモランの顔が見えないから気付いていない。
それを幸いだとばかりに渋い顔をしたモランはルイスの丸い後頭部を見た。
無性に格好良さを求める年頃なのは分かるが、日頃子ども扱いするなと言っているくせに言動そのものが子どもだ。
うつ伏せたまま岩のように丸くなるルイスの背中を見て、モランは大きな溜息を吐いて渋々この茶番に付き合うことにした。
「格好良いルイスは、どうして俺の部屋にいるんだ?」
「…今日、ウィリアム兄さんとアルバート兄様と一緒にピクニックに行くはずだったんです」
「あぁ、そのバスケットの中身は弁当か。随分大きいな」
「いっぱい食べて欲しくて、二人の好物をたくさん作ったんです」
「そりゃあいつらも喜ぶな」
ウィリアムもアルバートもルイスにはとんと甘いのだからそれは間違いないだろう。
知り合った期間は短く、現在二人とも寮にいるのだからまだまだ知らない一面もあるのだろうが、それでもモランが知る二人は末の弟であるルイスをとても大切にしている。
ジャックに鍛えられて真面目に鍛錬をこなしているルイスはそこらの暴漢にも立ち向かえるほど強いはずなのに、それでも護衛としてモランをルイスのそばに置いているくらいなのだから相当だ。
かくいうモランもルイスを守るに相応しいかどうか、ウィリアムとアルバートから慎重に見定められた過去を持っていた。
あの試験はハードかつ厄介だったため、モランは早々に記憶から抹消している。
「一緒に草原を散歩して、二人にぴったりの花冠も作るつもりだったのに、今日のピクニックは中止になってしまったんです」
「何でだよ」
「雨が降ってるからまたにしようって」
「別に雨くらい…あぁ、なるほど」
丸くなっていた体からもそもそと顔を上げ、バスケットを腕に抱いてからぽつりぽつりルイスは呟く。
その顔は寂しげでありながらも納得のいっていない不満げな顔をしていて、ぶすくれた顔が不細工だった。
「ま、お前が風邪引いちゃあいつらも気が気じゃねぇよな」
「風邪なんて平気なのに」
「どうせお前は風邪引いたところで隠すんだろうが」
「以前は失敗したけど、今度こそ隠し切ってみせます」
今のルイスは風邪を引かないという自信よりも、風邪を引いたとしてもそれを隠してみせるという自信に満ち溢れている。
自分の体を過信していないという点では評価すべきなのだろうか。
だがウィリアムとアルバートの留守中に体調を崩していたことを隠してはバレて怒られた過去を考えるに、評価は出来ないだろう。
赤い瞳が嫌に鋭く光ったけれど、感心するほどにルイスは反省していなかった。
「もう兄さんも兄様もピクニックに行くつもりがないから僕が説得することも出来なくて、今日のピクニックは中止になってしまったんです…行きたかったのに」
「ふーん。で、何でお前はここにいるんだ?ピクニックじゃなくてもウィリアムとアルバートと過ごせば良いじゃねぇか」
「…今二人といたら、ピクニック行きたかったって恨み言を言ってしまいそうで…それに、このお弁当を見た兄さんと兄様に申し訳なさそうな顔をさせたくなかったから」
ルイスなりにウィリアムとアルバートの気持ちを尊重しようとしているらしい。
二人の決定については理解しているのだ。
雨の中でサンドイッチを食べても美味しくないだろうし、散歩も花冠を作るのも楽しくないだろう。
ただでさえルイスはピクニックに行きたいと駄々を捏ねたのだから、これ以上食い下がって二人に嫌な気持ちを抱かせたくなかった。
でもすぐに切り替えられるほどルイスも大人ではなくて、二人のいない場所で頭を冷やしたくてモランを訪ねたのだ。
普通ならば一人になりたいと思うのだろうが、ルイスは一人に慣れていない。
だからさほど気を遣わなくても良い居候であるモランの存在は都合が良かった。
「兄さんと兄様と一緒にピクニック、行きたかった…うぅ」
バスケットを抱きながらめそめそするルイスを横目に、モランはどうしたものかと頭を掻いた。
子どもの慰め方など知らないし、そもそもモランが下手に慰めたところでルイスは一蹴するだろう。
ここはルイスの気の済むまで放っておくのが正解だ。
かといって一人放置していくのも気が咎めるため、モランは着ていたコートをハンガーに掛けて乱暴にソファへ腰を下ろした。
習慣のように煙草を取り出そうとしたけれど、ふいに過ぎるウィリアムとアルバートの良い笑顔がその手を止めさせる。
仕方なくモランはぐずぐずしているルイスを見た。
ウィリアムとアルバートのためにと、二人のいない時間でも丁寧に屋敷の清掃をしては毎日のように机に向かって勉強している。
そんなルイスはこの休暇中ずっと二人といるのだと、事前に炊事以外の全ての業務を終わらせていた。
それほど兄を求めていたルイスなのに、今こうして時間を無駄にしていて良いのだろうか。
後になって悔やんだところで時間は取り戻せないけれど、ルイスの言うとおり頭を冷やす時間は必要なのだろう。
モランは健気な子どもを見ては何となしに心が痛み、早く引き取りに来ないだろうかと二人の兄それぞれの顔を思い浮かべる。
「サンドイッチもピクルスも、せっかく美味しく出来たのに…」
「あいつらの好物か?」
「ウィリアム兄さんはお魚がすきなのでサーモンのサンドイッチを作ったんです。兄様はオリーブがすきなのでピクルスにしました。本当は紅茶じゃなくてワインに合わせたかったんですけど、ピクニックにワインを持っていくのは重くなると思って」
「へぇ、美味そうだな」
「…食べますか?」
「良いのかよ」
「どうせピクニックには行けないし、これからランチは別に作るので。無駄になるくらいなら食べてもらった方が良いです」
「そういうことなら貰うか。…と言いたいところだが、やめとく」
「?」
ルイスが起き上がってバスケットをモランに差し出そうとした瞬間、コンコンとノックが聞こえてきた。
この屋敷にいるのはルイスとモランと、後は二人しかいないのだから自ずと誰か分かってしまう。
開けていいぜ、と言うモランの返事を聞いて開けられた扉からはウィリアムとアルバートが顔を見せた。
「ルイス、ここにいたんだね」
「ウィリアム兄さん」
「急にいなくなって心配したじゃないか。休暇中は一緒に過ごすと約束しただろう?」
「アルバート兄様」
自分を迎えに来てくれたのだと分かったルイスは途端に頬を染めて嬉しそうに兄を見た。
しばらくモランのそばでうじうじした甲斐あって、今は何のわだかまりもなくウィリアムとアルバートと向き合うことが出来る。
せっかく久々に会えるのだから負の感情を二人に向けたくない。
ルイスのそんな思惑は成功したようで、落ち着いた気持ちのまま急いで二人の元へ駆け寄った。
「すみません、少しモランさんに用があったのでお邪魔していました」
「そう。ありがとう、モラン。ルイスがお世話になったね」
「おかげでルイスの気持ちも落ち着いたようです」
「俺は別に何もしてねぇよ」
ルイスが抱いたもやもやについて、ウィリアムもアルバートもとうに知っているのだろう。
それを解消するためにモランが何をしていなくても、ただルイスのそばにいて一人にしなかったというだけで十分すぎるほどに役立っている。
ウィリアムは安心したように笑みを浮かべ、先ほど見た暗い表情が和らいでいるルイスを抱きしめた。
悲しい提案をしてしまったけれど、もう引きずってはいないらしい。
「ねぇルイス。ピクニックには行けないけど、代わりに温室でランチをするのはどうかな?」
「昨日案内してくれただろう?見頃ではないが、薔薇を見ながら一緒に過ごそう」
予想していなかった言葉にルイスの肩は期待で跳ねる。
モリアーティ家自慢の庭園は温室含め専門の業者に手入れを依頼している。
さすがにルイス一人ではそこまで手が回らないため、週に何度か庭師が来ては整備してくれているのだが、確かに温室であれば雨も気にせず過ごすことが出来るだろう。
嬉しくも素敵な提案にルイスの瞳は輝き出した。
「行きたいです!実は僕、今日のピクニックのためにお弁当を作ったんですよ!兄さんと兄様のすきなものを用意したんです!」
「へぇそうだったの?ありがとう、ルイス。嬉しいよ」
「もしかしてあのバスケットがそうかな?ランチの時間が楽しみだね」
「たくさん食べてくださいね!」
温室など管理が手間だとしか感じていなかったけれど、なるほど、こういう活用の仕方もあったのだ。
二人が学校を卒業して一緒に住む際には部屋の中を温室の花で彩るつもりだったが、雨の当たらない温かい空間は自然を感じるピクニックの代替として十分である。
諦めていたピクニックに行けることが嬉しくて、ルイスはぴょんと跳ねてからウィリアムとアルバートへ順に抱き付いた。
全身で嬉しさを表現する幼い仕草がとても可愛らしい。
可愛い弟の甘えん坊な様子に心癒されたウィリアムは小さな手を握りしめ、アルバートはその背を抱いて名前を呼んだ。
「温室の薔薇の種類はルイスが詳しいだろう?色々教えてくれるかい?」
「勿論です兄様!たくさん教えてあげますね!」
「さぁ行こう。晴れてくるようならそのまま庭も歩こうね」
「はい!」
まだまだ若い三兄弟が揃って穏やかに笑っている。
年相応のその笑顔は殺伐とした未来に似つかわしくなくて、けれどこういった時間こそが大切なのだろうと思わせた。
モランは三人を見守る保護者のような心地でベッドの上に置いていかれたバスケットを手に取り、浮き足立っている三人の元へ持っていく。
「ほらルイス、忘れもんだぜ」
「ありがとうございます、モランさん!あ、モランさんもピクニック行きますか?」
「俺は行かねぇよ。三人で楽しんで来い」
「じゃあ、モランさん用に準備していたランチがキッチンにあるので食べてくださいね」
「あぁ、ありがとうよ」
もう既にモランの分のランチまで用意していたとは抜かりがない。
適当に外で食べてくるつもりだったけれど、朝早くから用意してくれていたのならば食べないわけにもいかないだろう。
楽しげに三兄弟並んで部屋を出ていく後ろ姿を眺めながら、モランはようやく煙草に火を点けて深く煙を吸っていく。
そうしてしばらくしてから窓の外を眺めると、わざわざ傘をさして温室へと向かう三兄弟が目に入った。
(僕、ピクニックに行くのとても楽しみにしていたんですよ。兄さんと兄様に花冠を作ろうと思ってたんです)
(花冠?花で冠を作るのかい?)
(はい。ルイスは昔から作るのがとても上手だったんですよ、ねぇルイス)
(花冠なら兄さんより上手に作る自信があります。温室ではかすみ草が咲いていると思うので、それで作りますね)
(へぇ、花冠とは初めて聞くな。楽しみにしているよ、ルイス)