村上春樹 / 一人称単数
久しぶりに村上春樹を読んだ。
8つの短編集。過去の記憶についての。といってよいか。
途中でこれは小説じゃなくて、村上春樹自身の話、つまり随筆かなとも思った。
でもまあ、どちらでもよい。
同じようなテーマを8つのヴァリエーションで書き起こすことができるその実力はすごいと思った。8つともが似通っていない作品になっている。しかも全部ちゃんと村上春樹の印がついている。
前に読んでいた彼の作品より、内容的に奥行きができたように思う。年齢的にも私よりも少し先を行かれていることで余計に、歳をとるということはそういうことなのだと教えてもらっている感じがした。
実はこの本を読み始めた夜に、同じ高校で時を共に過ごした大切な友人が亡くなったという知らせを受け取った。そんな深刻な病気を持っていたことも知らなかったので、何度ももう彼女がこの世界のどこにもいないことを自分に言い聞かせるのに時間がかかった。悲しみより以前の問題だった。
最後に会ったのは今年の春で、久しぶりだったけど、そのときにそんなに短くない間2人で話をした。そして彼女が少しやせたように思って、そのことを言ったか言わなかったか、それから病気を患ったとか、今も続いているとか、良くなったとかそういう話をしたかしなかったか、情けないことに、私はその話を正確に思い出すことができない。そう言ったような気もするし、言わなかったような気もして、何べんも考えるうちに、その場面が自分の中でねつ造されたものか否かもわからなくなった。
その時は立ち話だったので、私はまたゆっくり話ができるときが来ると思っていたのだ。
でもそれは言い訳で、私はそんな大事な話をちゃんと聞いていなかったのかもしれない。とにかくそんな大事な話を忘れてしまったのだ。
彼女の告別式に参列して、亡くなったことを現実のものとして受け止められるようになった。その日の夜に、下の部分を読んで、期せずして私はたくさん涙を流した。
すこし長いけどいつかこのことを思い出せるように、引用します。
***
あれから長い歳月が過ぎ去ってしまった。ずいぶん不思議なことだが(あるいはさして不思議なことではないのかもしれないけど)、瞬く間に人は老いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。目を閉じ、しばらくしてもう一度目を開けたとき、多くのものがすでに消え去っていることがわかる。夜半の強い風に吹かれて、それらは - 決まった名前を持つものももたないものも - 痕跡ひとつ残さずどこかに吹き飛ばされてしまったのだ。あとに残されているのはささやかな記憶だけだ。いや、記憶だってそれほどあてにはなるものではない。僕らの身にそのとき本当に(「本当に」に傍点付き)何が起こったのか、そんなことが誰に明確に断言できよう?
それでも、もし幸運にめぐまれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の嵐をうまく先に送りやってしまう。そしてやがて夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公正な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。(「石のまくらに」から)