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Kazu Bike Journey

東京 (06/10/21) 江戸城 (23) 内曲輪16門 / 内濠 (6) 日比谷見附門

2021.10.07 08:28


桜田門から日比谷見附


今日は昨日終えた桜田門から、内堀沿の史跡、文化財を巡る。まずは桜田門にもどり、その周辺の文化財からスタート。



米沢藩上杉家外桜田上屋敷 (法務省旧本館)

江戸時代は、桜田門の目の前には米沢藩上杉家上屋敷があった。

米沢藩上杉家上屋敷は桜田門の正面に1603年 (慶長8年) に建てられ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしていた。上杉謙信の養子の初代米沢藩主上杉景勝 (中) は越後から移封後、会津若松120万石を領した大大名だったが、関ヶ原の戦いでの西軍に味方をした為、出羽米沢30万石までに減封され、その後、15万石にまで減封された。藩の財政は常時苦しい状態だった。この財政難の米沢藩を立て直したのは、九代藩主 上杉鷹山 (右) だった。

米沢藩上杉家藩上屋敷跡には、1895年にドイツ・ネオバロック様式で旧司法省庁舎が建てられた。1923年の関東大震災では煉瓦外壁が鉄材補強されていたのでほぼ無傷だったが、1945年の空襲では壁面と床以外を全て焼失している。再建改修では、以前から変更が加えられ、1950年に法務府庁舎、1952年からは法務省本館として再利用された。

1994年にも改修工事が行われ、創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び法務図書館として利用され、同年には国の重要文化財に指定されている。もっと古い建物かと思っていたが、意外と新しい建物だ。最も設計は明治時代と同じ。

今でも法務省の事務所として使われており、建物の一部が法務史料展示室として明治維新で司法卿となった江藤新平からの司法、裁判の歴史などが説明されていた。


法務省のメインのオフィスはこの日本館の裏の高層ビルにある。

[米沢上杉野家江戸屋敷: 外桜田上屋敷、麻布中屋敷、芝白金下屋敷]



西大平藩大岡家上屋敷

米沢藩上杉家外桜田上屋敷の南側には西大平藩大岡家上屋敷があった。

大岡越前でお馴染みの大岡忠相が初代藩主だった西大平藩の上屋敷だ。1748年 (寛延元年) に三河国西大平1万石を拝領し大名となった。(町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみ)この後も忠相の子孫が、代々、西大平藩を継ぎ明治時代まで続く。大岡忠相は八代将軍 徳川吉宗の時代に享保の改革を南町奉行として支えた。東海道を旅した際に三河国西大平藩陣屋跡を訪れた。その時に知ったのは、大岡忠相は一度も領地を訪れなかったそうだ。生まれ故郷であれば訪れただろうが、江戸での業務で追われ、知行地は家臣がうまくやっていた。機会と動機が無かったのだろう。この様なケースは江戸時代が進むにつれて多かったと思う。明治維新後、西大平藩大岡家上屋敷も含めこの一帯の大名屋敷跡地は、陸軍近衛師団練兵場となり、その後、この跡地には官庁集中計画で、1896年 (明治29年) に丸ノ内から大審院 (現 最高裁判所)、東京控訴裁判所 (現東京高等裁判所)、東京裁判所 (現 東京地方裁判所) の三つの裁判所が移された。

大審院は、1945年 (昭和20年) の東京大空襲で被災。1947年 (昭和22年)、大審院は最高裁判所に変わり、1949年 (昭和24年) にかけて復旧工事が完了。復旧後は最高裁判所としてのみ利用され、大審院 (東京高等・地方・簡易裁判所) が置かれていた。

西大平藩大岡家上屋敷跡は地方裁判所、弁護士会となっている。

[西大平藩大岡家江戸屋敷: 外桜田上屋敷赤坂中下屋敷]



凱旋道路、凱旋濠、祝田橋

桜田門の東側の内濠は江戸時代は日比谷濠だったのだが、1906年 (明治39年)、日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する幅の広い凱旋道路が造られることになった。

外苑南の祝田町の石垣の一部を崩し、内濠を埋め、土橋の祝田橋が架けて祝田口を造った。この土橋の石垣をよく見ると、明治39年に造られた部分は石の積み方が異なっている。石の大きさも同じで、規則正しく隙間なく積まれている。昔の積み方の方が趣がある。

この土橋の祝田橋で元々の日比谷濠が東西に分断された。祝田橋から西の桜田門までが凱旋濠 (写真)。東は日比谷交差点で北に折れて馬場先門跡までが日比谷濠となった。


凱旋門

1906年 (明治39年) に、日露戦争を記念して皇居外苑を縦断する凱旋道路 (古写真左) が造られた。日清戦争は1895年 (明治28年) に下関で講和条約を締結し終戦となった。その際に、明治天皇が広島より東京へ還幸する際には現在の日比谷公園の西幸門あたりに仮設の木造凱旋門 (古写真右) が造られ戦勝が祝われた。

凱旋門は仮設なので、今は残っていないが、これが設置された場所は現在の日比谷公園の東南の角にあたる。

ここから皇居に向けて凱旋道路が走っていた。


日比谷濠

凱旋道路の祝田橋が架かる内濠の東側が日比谷濠になり (写真上)、日比谷見附門の北で直角に北に曲がり (写真下)、馬場先御門に続いていた。

徳川氏の江戸城入城時には、日比谷あたりは、日比谷入江と呼ばれ、海岸線だった。その後、日比谷の入り江が埋め立てられ、大名屋敷が造られた。日比谷濠は、この入江の埋め立てと江戸城整備に伴って1608年ごろまでに出来上がったとされる。かつては外濠の山下橋付近に向かってかぎ状に濠がつながっていたが、埋め立てられている。インターネットでこの位置関係がよく分かる図があった。これを見ると江戸時代にこれ程大規模な埋立事業を行なっていたのは驚きだ。


萩藩毛利家日比谷御門外上屋敷 (日比谷公園)

日比谷濠に沿った南側は現在は日比谷公園となっている。この公園は江戸時代には萩藩毛利家日比谷御門外上屋敷と佐賀藩鍋島家上屋敷があった所。

毛利家上屋敷は1603年 (慶長8年) に拝領し、長州征伐で1864年 (元治元年) に没収解体されるまで、261年間この地にあった。1772年 (明和9年) に目黒行人坂大円寺から発生した行人坂の大火で上屋敷と中屋敷のほとんどすべての施設を失った。麻布龍土下屋敷に、殿舎、住居、施設を増築し、藩主家族や江戸詰藩士が移住し、上屋敷、中屋敷再建に取りかかった。翌1773年 (安永2年) に上屋敷と中屋敷の殿舎以外は完成。資金難で殿舎は1783年 (天明3年) にようやく完成した。

[萩藩毛利家江戸屋敷: 日比谷御門外上屋敷、清山中屋敷、麻布龍土下屋敷]



佐賀藩鍋島家上屋敷 (日比谷公園)

肥前国佐賀藩は鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩とも言われ、幕末藩主鍋島閑叟の時代には明治維新を推進した薩長土肥のひとつとされているが、個人的には鍋島閑叟は自己中心的に思え、あまり好きにはなれない。その事は佐賀城の訪問記に記している。確かに、鍋島閑叟は逸材で、当時最も西洋の科学工業技術を取り入れ、最強兵器を保有していたが、佐賀藩のみの保身を最重要にし、他藩に対してはほぼ鎖国状態だった。中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。明治維新後、副島種臣、江藤新平、大隈重信などは元佐賀藩士だったが、討幕明治維新に鍋島閑叟が直接貢献したかは疑問に思う。

鍋島氏は元々は戦国時代に九州で勢力を誇った龍造寺氏の家臣であったが、主君の龍造寺隆信の戦死後、龍造寺は豊臣秀吉から領土は安堵されたが、鍋島直茂が龍造寺氏領の支配を委任され実権を握った。関ヶ原では西軍に参加するが、関ヶ原の直後徳川方に味方し、同じく西軍で梁川城に籠城していた立花宗茂を攻略した。この功績で、鍋島直茂は龍造寺に代わり、佐賀藩初代藩主となった。藩の成立後も龍造寺分家との対立がおき、鍋島騒動は歴史上よく知られている。これを題材にしたのが佐賀化け猫騒動という話。


佐賀藩鍋島家上屋敷跡は、他の大名屋敷跡とともに、陸軍近衛師団の練兵場になり、その後、明治36年に日本初の洋風公園として日比谷公園が開園している。佐賀藩邸は現在の日比谷公園ない噴水前広場や小音楽堂付近と考えられる。日比谷公園については後述。



陸軍近衛師団練兵場、大審院 (東京高等・地方・簡易裁判所)

明治維新後の1871年 (明治4年) から1886年 (明治19年) までの15年間にわたり、佐賀藩鍋島家上屋敷、萩藩毛利家日比谷御門外上屋敷、西大平藩大岡家上屋敷、米沢藩上杉家外桜田上屋敷も含め、この地一帯にあった大名屋敷跡には「大日本帝国陸軍近衛師団練兵場」が設置されていた。1886年 (明治19年) に、日比谷練兵場は廃止され、青山へ移転し青山練兵場となった。跡地には、1983年 (昭和58年) に東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎が完成し、各裁判所が移転してきた。


日比谷見附

日比谷門の初期は土塁を築いた喰違いのみだったが、1627年 (寛永4年) に浅野長晟が石垣を積み、1629年 (寛永6年) に伊達政宗が枡形門を築き日比谷御門を仕上げた。日比谷見附門は濠を暗渠にして門前に橋がなく、枡形の北側の日比谷濠に面した仕切りがない。これは、濠へ追い落とす「武者落し」で、対岸の日比谷櫓から応援射撃が可能になっていた。

日比谷見附は元々は晴海通り上にあった。

現在はその面影はなく、当時の見附門の石垣は、日比谷公園の有楽門に移設している。


日比谷公園内の心字池と濠の石垣は、内濠から山下橋の外濠につなぐ中濠の跡にあたる。


日比谷公園

東京には何十年も住んでいたので、この日比谷公園は何回か来ている。ただ公園を散策したことはなく、どこかに行くときの通過点として公園内を通ったのみ。今日は公園自体を楽しみたくて、自転車を停めて、公園内を何度か休憩を取りながら散策する。今までと違ったことが発見できるだろう。

明治21年 (1888年) に日比谷練兵場跡を日比谷公園とすると決定したが、陸軍は皇居や官庁に近く、付近には多くの軍施設があったので、その決定に否定的で、15年後の明治36年 (1903年) にようやく仮開園となった。下の地図は明治16年時点のものだが、かなり多くの陸軍施設が現在の日比谷、丸の内、大手町一帯に置かれていたことが判る。


日比谷公園には幾つもの入り口があり、そこに設けられていた門は、江戸城の見附門の石垣を使用して造られている。まずは、日比谷公園の外側を反時計回り歩き、それぞれの門を見ていく。現在は9つの門があるが、明治時代に開園した当時は6つだった。


公園を囲む歩道には多分江戸城の石垣の石を利用したデコレーションがなされている。道の所々のマンホールはオリンピック仕様になっていた。無観客での開催で海外からの観光客もこれず、これを見ると少し気の毒にも思える。

公園内の施設にもオリンピックムードを高めようとのデコレーションがあった。ずっと残すのだろうか?(変則的なオリンピックだったが、これも歴史の一ページとして残してほしいが.....)

古い地図を見ると公園の外側の道は電車鉄道と書かれている。以前は路面電車が走っていたのだ。


[有楽門]  日比谷御門の石垣を再利用。「以日比谷門舊礎建造明治三十五年五月」と刻まれている。


仙台藩伊達家外桜田上屋敷

有楽門を入り、移設された日比谷見附門を通った所に伊達政宗終焉の地と書かれた案内板が建っていた。ここは江戸時代初期に、仙台藩外桜田上屋敷として1601年 (慶長6年) に、徳川家康より拝領した場所。この外桜田上屋敷は政宗から三代綱宗の時代、1601年 (慶長6年) から1661年 (寛文元年) までの間、上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷掘沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていた。その後、敷地跡は佐賀藩鍋島家上屋敷の一部、萩藩毛利家日比谷御門外上屋敷の一部と桜田御用屋敷となっている。政宗は、1636年 (寛永13年) に、ここで70年の生涯を閉じている。

上屋敷があった所は第一花壇となっている。

第一花壇の南側に小音楽堂がある。国内初の野外音楽堂で、初代は1905年に完成。現在のものは1982年に立て替えられた3代目。この辺りまでが伊達家上屋敷だった場所でその後は鍋島家上屋敷となっていた。


[桜門]  「以鍛冶橋門数寄屋橋門舊礎建造明治三十五年六月」有楽門の一か月後に造られている。

桜門を入った所には江戸時代の上水施設の跡があった。大名が江戸城に向かう際に水汲みに使われ、各大名屋敷に配水をしていたそうだ。

桜門と有楽門の間に1949年創業の歴史あるビアレストランの日比谷茶廊(写真右) があり、更に行くと日比谷公園の管理事務所として、1910年 (明治43年) にドイツ・バンガロー風に建てられ、1976年 (昭和51年) には公園資料館に、その後2006年からフェリーチェガーデン 日比谷の結婚式場となったしゃれた建物 (写真左) がある。


[祝田門]  これは新しく門で昭和59年に造られている。

祝田門を入ると小山がある。三笠山と呼ばれていた。公園造成時に池を造った際の残土で作られた人工の山で、当時は笠を三つをふせた形に全体が見えたのでこう命名された。古い絵葉書では二つの丘が描かれている。この辺りが江戸時代に萩藩毛利家日比谷御門外上屋敷が置かれていた場所。

後にテニスコート造成など周辺整備で削られて今の形になっている。

三笠山の麓には明治時代の水飲み場がある。馬車の馬が水が飲めるように受け皿がついている。

このすぐ側にアーク灯が残っている。開園当時に設置されたもので、園内には10基あった。この一基のみが残されている。これ以外にもガス灯70基が設置されていたそうだ。先程の水飲みと同じ鋳鉄製で統一されたデザイ ンとなっている。

三笠山の南に三つの笠の二つ目の笠にあたるのだろうか、低い高台になっている所に自由の鐘が置かれている。これはアメリカ独立宣言に際して自由の喜びを告げた鐘の複製を戦後アメリカから寄贈されたもの。

遊歩道には石のベンチが幾つも置かれている。よく見ると楔跡が残っている。江戸城の石垣を使っている。ここ以外にも公園内にはこの石垣ベンチが至る所にある。

自由の鐘を南側に降りたところに広場がある。草地広場と呼ばれる場所で、網のフェンスに囲まれ、中の一部には子供用の遊具や健康器具が置かれているが、比較的ゆったりとした空間で、お昼どきなので、近くに努めている会社員が弁当を持参して休憩をしている。この地は元々は日本庭園を造る構想だったが、それは実現せずに、児童遊園やプール、 動物園となった時期もあった。第二次世界大戦中は野菜畑にもなっていた。 児童遊園は1982年 (昭和57年) に廃止となり、現在の草地広場となっている。


[歩道橋門] これも新しい門


[霞門]  「以数寄屋橋門幸門舊礎建造」明治時代の門の3つ目

霞門を入るともう一つ池がある。雲形池 (くもがたいけ) という。開園時に造られたドイツ風庭園様式の池。

池の中央には1905年 (明治38年) ごろに日本を代表する鋳金・鋳造の工芸家・彫金家であった東京美術学校(現在の東京芸術大学)の津田信夫と岡崎雪声の共同制作による鶴の噴水がある。公園装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものだそうだ。

江戸時代、増上寺霊廟の旧御成門前の桜川に架かっていた石橋が移設されている。橋を渡るともう一つの馬の水飲み場もあった。

雲形池の奥につつじ山がある。名の如くツツジが栽培されている。ここのつつじは、江戸時代中期と後期に大流行した新宿大久保の百人町を移植したもの。当時は下級武士の内職として栽培されて、鉄砲隊百人が住む新宿大久保の百人町では大きなつつじ園 (写真左上) もでき、江戸後期には名所になっていた。明治時代に入ると大久保つつじ園は一時期荒廃し、東京府知事提案により1883年 (明治16年) に再興されたが、その後、鉄道敷設などでの閉園となった。この閉園となった大久保つつじ園の江戸後期のツツジの品種を買い上げ日比谷公園に植栽した。つつじ山は人々の人気を博した名所となった。

その後、関東大震災では避難村となりツツジは薪として使われ、第二次世界大戦では雲形池農地化の為、ツツジ山を切り崩し埋立用土とされたなど、ツツジの生育には厳しい時代を経たものの、再生の取り組みも始まり、つつじ山では今でも伝統的な江戸の園芸品種を見ることができます。日比谷公園で見られるツツジ種は30余りで、江戸末期から明治にかけて栽培されていた古い品種も含まれているます。 今は季節外れで、咲いているツツジも少なかったが、それでも綺麗な琉球ツツジ系の品種のものが咲いていた。

つつじ山の向こうに松本楼がある。何回か立て替えられたて昔の面影は無くなっている。この松本楼は1903年に日比谷公園が開園した時から続いている当時としては珍しい洋風レストラン。人気が集まり、1906年秋には「東京料理店番付」で"西の関脇"に選ばれたほどだった。1923年の関東大震災で焼失、再建。1942年の東京空襲で日比谷公園が軍陣地となり松本楼は海軍省の将校宿舎となった。

終戦後にはGHQの宿舎として接収、約7年にわたり営業できない日々が続いていたが、1951年に接収が解かれ、松本楼は再スタート。1971年には、沖縄返還協定反対デモの日比谷暴動事件で、2代目建物も焼失。3代目は1973年に再建し、現在に至っている。


[西幸門] 新しい門

西幸門を入ると、カモメの広場になり、噴水がある。

その奥に日比谷野外音楽堂がある。1905年 (明治38年) に造られた小音楽堂に次いで、1923年 (大正12年) には、この大音楽堂も開設されている。戦後はGHQに接収され、接収解除後の1954年 (昭和29年)、改築の上、二代目大音楽堂として再開。

さらに老朽化から全面改築工事が行われ、1983年 (昭和58年) に三代目大音楽堂が完成し現在に至っている。


[中幸門] 「幸門舊礎建造明治三十五年六月」明治時代の門の4つ目

中幸門の奥には日比谷図書文化館がある。1908年 (明治41年) に東京市立日比谷図書館として開館し、関東大震災では透過を免れたが、第二次世界大戦で焼失。戦後、1949年 (昭和24年) に京橋仮館舎にて閲覧を再開し、改築工事が行われ、1957年 (昭和32年) に完成し現在に至る。

この近くには水飲み場と江戸時代の上水の井戸枠の石枡が残っている。


[幸門 (さいわいもん)] 明治時代の門の5つ目

幸門を入った所には市ヶ谷御門にあった烏帽子石が移設されている。明治初期に使用された測量記号「几号水準点」が刻まれているそうだ。

幸門と中幸門の間に市政会館がある。1920年12月に東京市長であった後藤新平が、地方自治についての調査、研究を行う独立公正機関の設置構想を進めるため、ニューヨーク市政調査会をモデルとしてとして、1922年に東京市政調査会を設立し、初代会長に就任。日比谷公園内に本拠を置き、1929年に建築物の北側部分が公会堂 (日比谷公会堂)、残りを会館として落成。

市政会館の前 (?) 公園内には広い広場がある。これが第二花壇にあたるのだが、第一花壇程は花も植わっておらず、単なる広場の様だ。明治時代の公園案内図では「運動場」となっており、周りは「競争道」と書かれている。陸上競技場のトラックになっていたようだ。ここで体育大会が行われていたのだろう。


[新幸門] 新しい門


[日比谷門]  「以赤阪門四谷門舊礎建設之」とある。明治時代の門の6つ目。門を入った所には有名な1872年 (明治5年) に葛飾堀切で創業した日比谷花壇の店がある。


これですべての門とその近くの施設を見て回ったが、公園内にはまだまだ幾つかのモニュメントがあった。心字池の遊歩道沿いには、北極航路開設10周年を記念して寄贈されたスカンジナビアのバイキングの古代北欧文字碑、1924年当時日本統治下にあったヤップ島支庁長より日本に運んだミクロネシア連邦ヤップ島の石貨、南極昭和基地から4kmの地点の東オングル島の標高40mの慎太郎山で日本の南極観測隊が採取し持ち帰った南極の石など。

雲形池の近くには、明治8年築造の京橋の石造の擬宝珠の欄干柱がある。大正11年に橋梁架け替えの際にここに移された。

フィリピンの独立の英雄 ホセ・リザール像(写真上) がフィリピン独立100周年を記念して1998年に建てられている。もともとは像の下の碑のみが1961年に造られていた。碑文には1888年この地東京ホテルに滞在と書かれている。ヨーロッパに向かう亡命の旅の途中に日本に立ち寄った。明治時代から第二次世界大戦にかけて、フィリピン独立を日本有志が支援していたということで、日本とフィリピンは友好的に繋がっていたようだ。この碑も日本リサール協会によるもの。もう一つフィリピンに係わる碑がある。エルピディオ・キリノ元大統領顕彰碑だ。碑文には1953年7月6日、アメリカ合衆国ボルティモアで行ったキリノ大統領声明が刻まれている。「私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ。(中略)私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。人間同士の愛は、人間や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。」何とも考えさせられる感動的な内容だ。この二つの碑を見たときになぜフィリピン?と思ったのだが、調べると今のフィリピンと日本の関係はこのような人たちが気づいていることが判る。何となく素通りしてしまうようなものにも、深い歴史があり、見つめなおす機会になる。


今日はかなりの時間を使ってゆっくりと日比谷公園が見れた。東京の中心地にこれほどの公園があったとは、結構見ごたえのある公園と思ったのと、平日の成果それほど人も多くなくのんびりとできるゆったりとした公園だった。