それぞれの秋
10月とは思えない日中の日差しに
クラクラする。
あっという間に今年もあと三月。
一年の過ぎるスピードは
年々加速していくようだ。
草取りのしすぎからか
左膝を悪くした。
体重をかけてしゃがむことが
できず
内側から腫れているのが
わかる。
何気ない動作の
一つ一つが
身体の絶妙なバランスで
動かされていることを
改めて実感する。
たった1つの関節が
スムーズに動かないだけで
しゃがむ
階段を昇る
階段を降りる
爪先立ちになる
その動作で
イタタタ、と
日常のちょっとした動作に
支障が起きる。
3週間目になって
治りも悪く
以前からお世話になっている
カイロの先生に
診てもらった。
先生は
膝には目も向けず
ひたすら頚椎、背骨、腰椎の歪みを
診ていかれる。
4ヶ月ぶりに受診して
身体の歪みが
悪かった頃に
戻っていることを指摘される。
9月の後半から
以前の肩甲骨の横の痛みが
出ていたことを思い出す。
「身体のサインを見逃さないでくださいね」
たしかにそうだった。
身体はいつも
小さな痛みや違和感をもって
サインを送ってくれていた。
膝痛は結果であり
原因ではないのである。
私の姿勢のゆがみが
1番出やすいところに
痛みや腫れとして
出ているだけだった。
そのサインを
私が受け取らないで
誰が受け取るのだろう。
けれど
帰り道には
常に感じていた
膝の内側の腫れは
治っていた。
でもまだしゃがむこと、
足を曲げて
体重をかけることは
難しかった。
少しずつの回復を
待ちながら
草取りもできずに
見回りだけしていると
日中の陽射しは夏でも
朝晩の冷えや
時折吹く秋風に
草たちも
もう今は伸びる時ではないと
大きくは育たなかった。
そして
「この気候の良い
10月に
室内で育てている
観葉植物を外に出してあげて
陽射しや風にあて
朝晩の冷たい空気に触れさせると
植物たちは
とても元気になります。
やがて来る冬に備えて
植物たちも寒さに慣れる
準備ができるのです。」
そんな話の
動画を見つけて
春先から育てている
観葉植物たちを
思い切って
反日影の外に出す。
時折
土が乾いていないか
日が当たりすぎていないか
見てみまわると
背だけが高くなっていた
植物たちの
緑が濃くなり
葉が厚くなり
幹もしっかりしてきているのを
見つけると
なるほど
植物も人間も
過保護すぎては
いけないんだな、
と、納得する。
多少の厳しさが
人も植物も強くするようだ。
そんな植物同様、
子供たちも
外の世界で
いろいろな出来事に
向き合っていた。
長女は
2023年の大学の京都駅付近への
移転整備プレ事業として
10月より一月間
京都駅の西口広場に
展示のために書き下ろした画を
展示されることになった。
3メートルを超える大作だ。
描き終えた
手応えは
大きかった。
院生になり
この2年の間に
自分がどうやって生きていくかの
道筋だけでも
つけることができたら、と
必死になっていた。
続けて
公募展に出展する絵を
描きながら
この勢いで
なんとか賞に食らいつきたい、
と思って描けば
指導教授から
「邪念の塊だなぁ」
と指摘される。
悔しくて悔しくて
声をあげて泣いたという。
何日も筆を握る気に
なれなかったと。
間に合わないかもしれない、と
弱気の電話が入る。
それでも声には芯がある。
自分の内面を
描きたい、という想いと
賞を取りたい、という野心。
どちらかの意図が
強く出ると
素直さ故に
画に表れていくのだろう。
その微妙なアンバランスを
鋭く指摘されること。
それは辛くもあるけれど
ありがたいことだと
親としても
ようやく
思えるようになった。
25歳にして
自分の欲や業に
向き合わされていく。
いやでも俯瞰する目を
持たなければ
思考や情緒や技術に
偏っていくだろう。
なにを
なにかを
伝えるために
そぎ落として
見せるために
描きたして
その作業の繰り返しが
自身の作品を
作り上げていく。
この
貪欲で
崇高な作業を
自身の内面で
繰り返していく。
こんなにも
自分に向き合うことを
若くして体験できる
そんな
長女の
これからが
現実の成果よりも何よりも
本当に頼もしくもあり
楽しみなのである。
「メメントモリ」
〜 死を想う〜
長男は
大学4年生にして
医師の臨床実習に必要な
態度、技能、知識、問題解決能力の
適応力をみる
CBTとオスキーという
2つの大きな試験を終えて
1年間休学することを決めた。
このまま医師の世界に進んでいく前に
もっと違う
社会のしくみも知りたいし
経済も勉強したい。
何よりも
いろいろな人と
つながりたい
という希望だった。
それは入学当初から
ある意味宣言していた。
「寄り道をするから」と。
実際
大学に通っていく中で
そのタイミングをはかる
難しさを感じながら
この四年のこの時期が
最後のチャンスだと
捉えた。
コロナで海外に行くことも
不可能ななか
今、身近に自分でできることを
模索して
友人のご家族が運営されている
NPO法人の事業所の
新しい取組を
手伝わせて頂けることになった。
本人の意向は
NPO法人の仕組みや
新事業の立ち上げを
見たい、ということだっだが
経営者の方の
時折厳しい指摘や
指導を受けながら
自分の在り方を
問われることも
多々あるようだった。
能天気で常に良い方に
物事を捉える傾向にある
長男にとっては
慎重に
人と連携して
作業を進める
という体験は
得難い経験だと思える。
なかなか苦手分野に
飛び込んでいるではないか、
と、苦笑いしながら
長男の決断もまた
何かの道筋につながる
過程なのだと
信じられるようになった。
マイペースの次女ときたら
上京して
1年ちょっとで
と引越ししたいと申し出てきた。
聞けば
アパートの両隣が男子学生で
オンライン授業で大学に
行かないせいか
夜通しオンラインゲームに
ハマっていて
大声を出すので
次女はずっと
眠れないらしい。
最初は
引越しは費用もかかりすぎて
無理だから、と
たしなめていた。
でも男子学生が夜遅くに
友人たちとアパートの前に
たむろしていて
次女が部屋に戻れない
状況などが起きてくると
そうも言ってられなくなった。
次女は
「全部自分でやるから
引越しさせて」
と
引越し先を決めること、
手配も自分でやるからと。
前回のコロナの時期の
1人引越しで自信もついたのだろう。
そして更に
「引越し費用も自分で出す」
言ってきた。
実は相当バイトを頑張ってきた。
コロナ禍で
大学生らしい遊びも
ほとんど出来ないなか
バイトは週5くらい
入っていたようで
大好きな服を買うこと以外は
いつのまにかけっこう
貯金もしていた。
お金に関しては
次女が1番しっかりしていた。
そこまで言われると
反対する理由は
なかった。
そうと決まったら、
前回の上京の際
お世話になった不動産屋さんに
連絡を取り
一緒に
物件をさがしていただくよう
お願いをした。
引越し先が、
安全であるかと
入居者の状況は
個人で捜しても
わからない。
地元の不動産屋さんだけに、
別の不動産屋さんにも
単刀直入に確認できる
こともあるだろう。
そうして
次女の引越し準備が
始まった。
8月末から、
不動産屋さんに同行してもらって
3日間かけて
何件も回り、
ようやく
女性ばかりの入居で
なかなかの利便性の良い
アパートが見つかった。
そして今の大屋さんに
退去の事情を話すと
かえって迷惑をかけたからと
本来、
翌月分までの家賃を
払う契約なのだが
それは必要ないと
おっしゃってくださった。
新しい不動産屋さんも
親切で手軽な料金の
引越し屋さんを
紹介してくださり
悩んでる時期は2ヶ月あったものの
引越しを決めてからわずか3週間で
引越しを完了したのである。
1人で荷物もまとめ
ガス、水道、電気、wi-fiの手配も
バイトをしながら
ふうふう言いながら
やり終えたのである。
ガスとwi-fiの立ち合いのために
引越し当日は
自転車で引越し先と
3回往復したそうだ。
そんなことだけでも
お友達に手伝いを頼めば?
とも言ったのだが
「1人でやれると思う」
とやりきる。
もう少し人に甘えても良いよね、
と思うのだけれど
これまた次女なりに
必要な経験だったと
あとで思えることなのだろう。
「こんなによく眠れたのは
本当に久しぶり」
引越し先から
嬉しそうに電話をかけてくる。
本当にきつかったんだね、
引越し費用を心配して
反対した自分を
反省する。
引越しをやり遂げた次女は
自分の力で
環境を
変えられることを
体験していた。
金木犀の香るころ
子供たちの
それぞれの場所での
出来事を
聴きながら
こんなに
穏やかでいられる幸せを
噛みしめていた。
心配をしようと思えば
心配の種はいくつでも
見つけられる。
けれど
信頼を軸にすれば
子供達の未来に
祈りを捧げるだけで
良かった。
それぞれの
望む道が
必要な
経緯を辿っていくのだと
信じられた。
何よりも
世界が愛に満ちていることも
もう十分に
感じていた。
悦びと感謝が
日々を彩っていく。
実は
膝の他にも
手の指の関節にも
痛みや違和感もあり
60代まで
あと数年という年齢に
老化というものを
受け入れていく
準備が
すでに
始まりつつあった。
私自身も
秋風に
晒されていく
心細さを感じていた。
けれど同様に
わたしの世界にも
愛が満ちているのなら
できなくなることすら
その世界に
委ねてみよう、
と思えるのである。
受け取ることを
恐れなければ
いつでも
愛は届けられていく。