Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

EMET

年間第28主日(B)

2021.10.08 20:00

2021年10月10日 B年 年間第28主日

福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」


 永遠の命、それは今も昔も多くの人が追い求めたものでした。現代人である私たちは、ともすれば長過ぎる人生に疲れ果て、あえて死を望むことさえある状況に生きてはいますが、この「永遠の命を受け継ぎたい」という思いの中に、死への恐怖や人生の意味への問いかけが含まれていることを読み取ってゆきたいものです。死んで終わりの人生であるならば、今を懸命に生きる理由はなくなります。一生懸命に生きた自分の人生を誰かが必ず見守っており、それに相応しく報いて下さるからこそ、私たちはいつも心のどこかで頑張ろうと思えるのではないでしょうか。

 ですから、今日の福音の「何をすればよいのか」という具体的な質問は、非常に当を得たものです。神を信じ、後の世での報いを信じていればこそ、今をどのように生きるべきかを知りたいと思うのは至極当然のことです。しかしながら、イエスはこの人に十戒の規定を繰り返す平凡な応答をしました。そして、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という答えをまるで待っていたかの如く、今度は非常に厳しい要求を課しました。イエスは一体この人に何を求めていたのでしょうか。結果的に、この人はイエスの要求に応じることができませんでした。

 福音書はその理由を、端的に「たくさんの財産を持っていたからである」と記していますが、それは当時の常識からすれば不可解なことでした。格差社会の中に生きる私たちは、金持ちがあまり良くない人だという先入観をもって聖書を読んでしまいがちですが、この時代、財産は神からの祝福だと考えられていたからです。実際、弟子たちもまた、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」というイエスの言葉に驚いています。善い生き方をしていればこそ、神はその人を祝福し、財産を与えて下さるのに、その財産が理由でイエスに従うことができないというのは、弟子たちにとっても理解し難いことだったのです。

 ところが、イエスはさらに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とまで言っています。おそらくイエスには、人々とは全く異なる景色が見えていたのだと思います。財産が神からの祝福であることは、ヨブ記など旧約聖書から十分に読み取れることですが、神はそもそも人々の行いが良いから財産を与えるのではありません。むしろ、神が祝福し守って下さっているからこそ、その人は良い行いをすることができ、財産を得ることもできるのです。その祝福は、根本的にはその人の行いに依存しない無償のものです。先週に引き続き、ここでもイエスは神と人間の関係性の根本を正そうとしておられます。

 財産を売り払うことは、祝福を放棄することではありません。イエスが神ご自身であることを信じるならば、イエスからの招きは、財産以上の祝福のしるし、いや祝福そのものとでも言っていいものです。そう考えるならば、イエスはこの人に厳しい要求をしているように見えて、実のところは彼をいつくしみ、テーブルから落ちるパンくずで満足せずに、さらなる上席へと進むよう招いていたとも理解することができるでしょう。しかし、そのイエスの思いは彼には届かない結果となってしまいました。福音書は、この出来事を私たちと無縁なものとしてではなく、むしろ私たちが最も陥り易い落とし穴、財産を持つことの弊害として描いています。

 この「財産」という言葉は、この場合、文字通りの経済的な富のことだけでなく、私たちの生活の中で自分の道徳的な生き方を支える全てのものを指していると考えてよいでしょう。親からの愛、教育、家、食事、安全など、そういった無償の恵みがあって、私たちは初めて、真っ当な人間として成長してゆくことができます。もしこのような、人が人として成長してゆくために必要不可欠なものを著しく欠くならば、物理的にも心理的にも十戒に忠実に生きるのが困難になります。事実、弟子たちをはじめ、イエスに従った多くの人は、様々な理由で掟に従って生きることができない人達でした。だとすれば、十戒を守って生きていくことができるという財産、人よりも熱心に信仰を生きている財産は、それ自体は神の祝福のしるしであったとしても、それを神の前で自負することは非常に愚かなことと言わざるを得ないのです。

 真っ当な生き方ができているのは、私が善人だからではなく、神が私を無償で祝福し、守り、支えて下さっているからです。もしそのことを深く自覚しているならば、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、自信満々に答えたりはしなかったでしょう。福音書はここに、人間の心に巧妙に巣食う傲慢を見事に描き出します。だからこそ、イエスは、この人にその自負心の源となっている財産を放棄するよう要求しました。このままでは彼の生き方は、あの「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(ルカ18:11)と祈るファリサイ派のようになるのが関の山だったでしょう。

 イエスにとって、十戒は愛への道標であって、愛そのものではありませんでした。掟を守るだけに執着するならば、それは確かに表面的には他者に害を与えない生き方になるかもしれませんが、それはどこまで行っても自分の救いのためという、強烈な利己主義でしかありません。そして、そのような律法主義は、知らず知らずのうちに、掟を守る恵みをいただいている自分は優れていて、掟を守れない人たちは愚かなのだと、神の掟を使って他者を差別するようになります。つまり、自分の中では正しい生き方をしているにも関わらず、その生き方は、他者のために自分を与える愛の生き方とは正反対の結果を生じさせてしまうのです。

 イエスは、人間の根本にある如何ともし難いこの傾向を熟知していました。本来十戒を始めとする律法は全て、他者のために自分を与える生き方、つまり愛へと統合されてゆくことを願って書かれたものです。しかし、人間は掟が指し示す人間のあるべき姿を忘れ、それを神の国での報酬を得るための条件にしてしまいました。ですから、イエスが「財産」を放棄するよう求めたのは、この「自分は条件を満たしている」という驕りを取り去り、貧しい人たちと同じ目線に立って欲しかったからだと思います。彼に欠けていたのは、この愛を生きようという姿勢でした。自分の持っているものを貧しい人に分け与えること、それは愛の基本です。これだけ掟に従って生きていても、彼はその根本をまるで理解していませんでした。

 神の国、それは何かの条件を満たすことによって入るものではありません。むしろ、貧しい人、困っている人、助けを必要としている人々を救おうと、神が無償で下さるものです。それは神が愛であることを悟り、信じるならば明らかなことです。しかし、神以外に頼るものを持っている「金持ち」は、その真実に出会うことができません。「そんなうまい話なんてあるわけがない、善い行いをしない者が、神の国に入れるはずはない!」と思うのです。実に、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とはこのことです。ファリサイ派や律法学者たちに見受けられる、一見熱心な信仰生活のようでありながらも、その実は神の救いの約束を信じられず、自分で自分を救おうとしている場合、その誤りを指摘することはイエスにとっても至難の業でした。

 それでは、だれが救われるのでしょうか。答えは今日の福音にある通りです。イエスは、その人が金持ちであるかどうか、つまり人間の側の資質を問題にしません。神の国にしか希望を置くことのできない貧しい人たちの只中に神の国が到来しているからです。弟子たちも皆、この人生の暗闇の中でイエスと出会いました。そのイエスとの関わりの中で、彼らは次第に自分がどれほど惨めでも、イエスは必ず自分を見捨てずに救って下さるということ、それだけを信じて生きる者へと変えられてゆきました。財産の多少を問わず、それを捨ててでもイエスについてゆきたいと思う、それが彼らに無償で与えられた神の国のしるしでした。

 これは地上の論理を超えた愛の論理の話しです。地上の論理では、どれほど惨めでも救われるのであれば、十戒を守らなくてもよいということになります。また、どんなに無償とは言っても結局のところは、財産を捨ててでもイエスについてゆかなければならないではないか、と思うのも地上の論理でしょう。しかし、本当にイエスと出会った者は、もはやそのようには考えません。誰かのために自分を与えることを十字架に至るまで貫き通したイエスの死と復活、それが私たちを根本から変えるからです。

 十字架の愛に打たれ、魂にキリストの愛を刻印された者は、無償で救われたからこそ、無償で愛する者になります。真に貧しい者でありながらも、自分を豊かに与える者になるのです。その人は、自分が救いに値する者であるとは考えません。しかし、キリストの故に決して絶望することもありません。ただイエスのいつくしみの眼差しに気づくや否や、喜び勇んで財産を売り払い、貧しい人に施し、イエスについてゆくことでしょう。

 祈りと黙想を通して、少しずつであっても、自分の持っている良いものを誰かと共に分かち合い、色々な意味で貧しい人々、小さくされた人々と共に喜ぶ生き方へと私たちが変えられてゆきますように。神の愛にのみ信頼を置きましょう。「神は何でもできる」ということを本当に信じましょう。自分の力でできることは本当に僅かですが、神と共に生きるならば、あのキリストの十字架の愛に触れるならば……。

(by, F. S. T.)