90歳の言葉にみる 無駄じゃない事
今年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋氏の
「日本では好奇心に基づく研究がしにくくなっているようです。」
という言葉に、つい「そうだよねぇ・・・」と感じ入ってしまったことがありまして。
先日実家で実親との会話の際に
「この料理は、卵をしっかり冷やして加工した時と、常温で加工した時の仕上がり、口当たりが違うから好きな方を選んで料理するといい」
と言ったところ
「学者風情に話して生意気だ、お前のいう事はいつもそんなくだらないことばかり、日常生活には関係ない知識だ」
と実の父から即言われたんですよね。
昔からこの手合いの言葉はよく言われていまして、何年か前の私なら「ムッ」として言い返していましたが、今は「相変わらずこういう事しか言わないんだなぁ」と聞き流せるスキルを発動。
そんなやり取りを、思い出したんですね。
これはある意味私にとって呪いの言葉だったなぁ。と今は思います。
日常の興味を持った事柄大半を「生活には何の足しにもならない、無駄な時間」と言われ続けた子供が、探求心をもって自分から進んで動くような人間に育つだろうか?
と思うと「否」と思います。 よほど反骨精神がつよく「親に何を言われようが知りたいからやるんだ!」という気持ちを持たないと、辛いな。というのと、やはりある程度になると、探求するにも資金が必要になるので、そこをフォローしてくれる大人がいないと厳しいものがありますよね。
私はどうだったのか?
しっかり諦める子供に育ちましたが、コーチング&ファウンデーションを学ぶにつれて、本来の自分を取り戻しつつある過程にいます。
そしてこの呪いの言葉による、エネルギーの喪失を嫌というほど体験してきたので「自分の子供には言うまい」と『言わない』を常に心がけた結果、思いもしない事をしてくる子に育ちました・・・
(え?そんな部活・サークルに入ったの!)と正直アレコレと思いましたが「自分の能力を信じているから選べたんだね、がんばれ」「あなたが楽しそう!と思うならそれが一番じゃない?」と声をかけましたが、実家の両親は・・・
それについては「そういう意見もあるけれど、自分の感じた事を優先していいよ」とフォローし続けてました。
その価値が周囲に認められなくても、ソレを継続する事でその価値は周囲が勝手に見出してくれる。
今回の受賞のコメントを聞いて私はそう感じました。 今は無駄かもしれない、でもそれを詰め上げて言ったときその分野で誰にも負けない実力をつけている一人になれる。
今日訃報のあったすぎやまこういち氏もその一人だなぁ。 と思ったので、好きなこと、興味があることならばあきらめず、向き合い続けてほしいなぁ。
と思うのです。
途中でやめれば無駄かもしれないけれど、本当に好きで継続さえしているのなら無駄にはならない。その価値にもっと大人が気が付いてほしいな。と思う次第です。