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富士の高嶺から見渡せば

「ハングルを教えたのは日本人」をなぜ隠蔽するのか

2021.10.10 08:52

韓国には「ハングルの日」という祝日がある。今年から祝日法が改正され、10月9日のハングルの日が土曜日に当たるため、月曜日が振替え休日となり3連休となった。休みが増えることはうれしいが、「ハングル」はそれほど誇らしいことなのか。その歴史を振り返れば、それほど自慢できることでもなく、何より隠していることが多すぎる。

そもそもハングルは、中国語である漢字の発音を当時の中国人の発音に合わせて正確に発音するために作られた発音記号だった。ハングルを最初に制定したときに名付けた「訓民正音」とはそういう意味だ。

世宗大王は、別段、朝鮮の一般民衆のことを考えてハングルを作った訳ではないのである。むしろ、当時、漢字を使いこなすことを自らの特権と考え、漢語による知識を独占していた両班たちは、日本やチベット、モンゴルのように独自の民族文字を持ったら中華の文明圏から離れ野蛮人に堕すると考え、ハングルの制定に猛反対した。またこのことが宗主国の明に伝わると、朝鮮が反逆を企ているとして明の怒りを買ったともいわれる。そのため世宗大王は「これは文字ではなく漢字の素養が無い民に発音を教えるための記号に過ぎない」と言って、反逆の意思がないことを強調し、保守派の両班らの反対を抑えて、1446年に「訓民正音」を制定したという。

民衆に思いを寄せ、文字を知らない民のことを真剣に考えてハングルを作ったというのなら、民衆の間にハングルがすぐに普及し、広く用いられても不思議ではないのに、ハングルはその後も両班らの根強い反対で、全く普及しなかった。

ハングルよりも5~600年以上も早く、平安時代初期(9~10世紀)には成立していた日本のひらがなの発明で、源氏物語のような世界に冠たる高度な文学が次々に生まれ、庶民が文字を自由にあやつって和歌や俳句をつくり、謡曲や能、歌舞伎や人形浄瑠璃など豊かな言語文化が花盛りとなり、心躍る文芸の世界を思う存分楽しむことができた日本の大衆とは雲泥の違いだ。

実は、近代に至りハングルが朝鮮民衆の間に普及する上で、一番大きな功績があったのは、福沢諭吉と井上角五郎だった。『脱亜論』を書いた福沢諭吉といえば、吉田松陰らと並んで、あたかも日本植民統治の思想的支柱、その先駆けのような人物として、韓国では唾棄の対象となっているが、実は、漢文一辺倒だった朝鮮に、日本の漢字カナ混じり文のような、漢字ハングル混用文を採用すべきだと最初に提唱したのは福沢だった。

「福澤先生はかねて支那には我が仮名混じり文の如き普通の文体がないので,下層社会の教育が出来ず,これを文明に導くことが容易でないと云って居られました。しかるに朝鮮には諺文(おんもん)がある。丁度日本の「いろは」の如くに用ゐられると知られて,先生はこれさへあれば朝鮮も開化の仲間に入れることが出来ると喜んで居られました」(井上角五郎『福沢先生の朝鮮御経営と現代朝鮮の文化とに就いて』韓国学文献研究所編1934年p292~293)

以下は、稲葉継雄「井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』~ハングル採用問題を中心に~」(筑波大学文芸言語研究 言語学系紀要 1987)を参考に記述を進める。


慶應義塾を開いた福沢のもとには、のちに甲申事変を起こす開化派のリーダー金玉均や朴泳孝など、当時の朝鮮の知識人や留学生が身を寄せ、親交を結んでいた。1882年3月に自ら『時事新報』を創刊した福沢は、朝鮮近代化の一つの手段として新聞の発行を挙げ、金玉均や朴泳孝もそれに賛同をしていた。1882年12月朴泳孝らの帰国と同時に,新聞を創刊する編集スタッフとして牛場卓蔵と高橋正信,それに井上角五郎、それに印刷技術者などが派遣されることになった。牛場、高橋、井上の3人は慶應義塾の出身で、いずれも福沢の弟子たちだった。

帰国した朴泳孝は、漢城府判尹(今のソウル市長)に就任し,国王高宗から新聞を発行する許可を得た。このとき新開発行計画の実務を担当したのが,日本への留学生第1号として1881年6月以来、慶応義塾に留学していた兪吉濬であった。朴泳孝と兪吉濬は福沢の意を受けて、漢字ハングル混合文で新聞を発行する計画だったが、1883年4月、朴泳孝が突然、漢城府判尹を解任され、それに伴って統理交渉通商事務衙門掌交主事の職にあった兪吉濬も病気を理由に辞任してしまったために、あえなく計画は潰えることになった。朴泳孝の左遷の原因は,その開化政策に対する保守派の反発であったといわれ、とりわけ新聞発行による政治改革まで強調したことは、宗主国・中国と既存の権力構造への抵抗と挑戦と見なされたためだと言われる。

こうして新聞発行計画は頓挫し,日本から来た牛場卓蔵・高橋正信らは,やむなく帰国することになったが,彼らよりも若く血気盛んであった井上角五郎は朝鮮に留まることになった。井上は,当時、政権中枢で権力を掌握していた閔氏一族に近く、統理交渉通商事務衙門の協弁(外務次官)を務めていた金允植の知遇を得ることができた。このとき井上の漢文の素養が大いに役立って交流を深めることができ、1883年6月、「外衙門」として顧問の地位に招聘されることになった。その年の8月,統理交渉通商事務衙門の傘下に新聞編集のための「博文局」が設置され,井上はその実務責任者となった。当時、朝鮮語学者としても知られた儒学者の姜瑋(1820~1884)を個人教授として雇って井上はハングルの習得に努め,姜瑋自身も宮廷で宮女らが漢文にハングルを交えて使っていた文書などを収集し、漢字ハングル混用文の実際について調査を行った。こうした調査研究を通して、漢文にハングルを混じえた文体は便利で実用的であることを確かめた井上は、漢字ハングル混用文による新聞の発行を金允植や博文局の職員に提案した。しかし、数百年にわたってハングルを卑下し、拒絶してきた人々の意識を変えることは並大抵のことではなく、結局、彼らの反対で、朝鮮初の新聞『漢城旬報』は漢文のみで発行されることになり、1883年11月に創刊された。

ところが創刊から10号目に、井上が清国兵の横暴を諫める記事を書いたことが清国勢力の咎めるところとなり、この筆禍事件が原因で1884年5月、辞任・帰国に追い込まれることになった。しかし、その3か月後、外務卿井上馨の「『漢城旬報』を清国人に手に渡してはならない」という指示に従い、井上は再び漢城に戻り、統理交渉通商事務衙門顧問と博文局主任の地位に復帰した。そして『漢城旬報』の発行が再び軌道に乗り始めた矢先、今度は金玉均や朴泳孝らが起こした開化派のクーデタ「甲申政変」(1884年12月)に巻き込まれ、博文局に火が放たれ、新聞の原稿も印刷機械も灰燼に帰した。金玉均らによるクーデタは清国軍の介入によってわずか三日で失敗し、開化派を支援した日本公使館も焼き打ちに会い、身の危険が迫るなか、井上は竹添進一郎公使や金玉均・朴泳孝らとともに命からがら日本に逃げ帰った。

しかし、井上は息つく間もなく、政変から18日後には東京を発ち、朝鮮へ、とんぼ返りした。今度は政変の事後処理について朝鮮政府との交渉を担当する特派全権大使井上馨の随員としての漢城入りだった。金允植と再会した井上は、再び漢字ハングル混用文による新聞の発行を提案し、国王あての要望書を託した。

井上は、要望書で「教化ノ道ハ,庠序(しょうじょ=学校)ヲ開クナリ。新報(=新聞)ヲ設クルナリ」と書き、次のように続ける。「殖産のためには人民の教化は急務となっているが、漢文は理解することも学ぶことも難しい。幸い諺文(ハングル)があり、日本の「いろは」や欧州の「ABC」と同じで非常に便利である。これをもって新聞をつくれば、人民はあまねく内外の事情を知ることになり、自ら発奮して立ち上がり、これをもって児童を教育すれば、国中に字を知らない者はいなくなるだろう。願わくはいまこの時、国家永遠の基を開き、世宗大王の正音制定のご意思に添い奉るべきだ」(井上・前掲書p323~324)

金允植は、井上の要望書に、姜瑋が作成した漢字ハングル混用文の例文を添えて高宗に差し出した。その結果、1885年5月、高宗は『漢城旬報』の復刊に允許を与えた。井上は、高宗の要請によって博文局主任として留任し、このあと金允植の命を受け、印刷機械とハングルの活字を購入するためて東京に出張した。このとき購入したハングルの活字は、牛場、高橋、井上らを最初に朝鮮に送り出す前に、福沢が築地活版所に作らせ自宅に保管していたものだった。漢字ハングル混用文の新聞を発行するという福沢の4年越しの夢は、ようやく実現することになったが、そのころ福沢は甲申事変の失敗を経て、『時事新報』1885年3月16日付に「脱亜論」を発表した直後で、朝鮮への関心は急速に冷めつつあった。

井上角五郎にとっては、さまざまな紆余曲折があった中での、初めての漢字ハングル混用の新聞は1886年1月に創刊号が発刊された。10日置きの旬刊から週刊になったため『漢城周報』と名付けられた。井上自身はそれから1年あまり、1887年2月に博文局でのポストを離れているので、『漢城周報』の編集に実際に関わったのは5~6か月に過ぎない。また博文局自体も1888年7月には赤字財政のためが閉鎖され、それと同時に『漢城周報』も創刊から2年半で廃刊に追い込まれる。

いずれにしても『漢城周報』は韓国史上初のハングルが初めて公式に使われたケースになった。韓国の教科書では、韓国初の新聞『漢城旬報』とハングルを初めて採用した『漢城周報』については必ず取り上げ、その発行を担った博文局については触れている。しかし、博文局の実務を担った井上角五郎についてはひと言も出てこない。また福沢諭吉が漢字ハングル混用文を発想し、その必要性を訴えたことはおろか、福沢の理念と意志を引き継ぎ、実際に漢字ハングル混用文の新聞の発行にまでこぎ着けた井上の功績については、まったくなかったことのように無視している。巷間、多くの歴史的な文献や資料、研究論文があるにも関わらずである。

その後、ハングルは、1894年の甲午改革の過程で「国文」の地位に格上げされ、漢字ハングル混用文(国漢混合文)は政府公認の文体であることが再確認された。この年に発布された、当時の憲法「洪範十四箇条」は,この漢字ハングル混用文で書かれた最初の政府文書で、これを起草したのは当時閣僚として外務参議などを歴任した兪吉濬とされる。また、彼の著書で1895年に出版された『西遊見聞』は朝鮮初の漢字ハングル混用文で書かれた書物といわれる。日本への最初の留学生として慶応義塾で学び、福沢の薫陶を受けた兪吉濬が、福沢が掲げた理想を実現する姿を示したことになる。

教科書ばかりではない。ソウル龍山区の国立中央博物館の敷地内に「国立ハングル博物館」という建物がある。2009年に建設が決まり、2014年に開館したこの国立施設こそ、ハングルの韓国での普及に際して日本が果たした役割を、徹頭徹尾、隠蔽するため、歴史を欺瞞し歪曲するための施設である。福沢諭吉や井上角五郎の貢献について、ひと言も触れないどころか、日本について触れるのは、戦争中の3年間に限って学校教育での韓国語授業が中止させられたことや、戦争中の朝鮮語学会に対する思想弾圧が取り上げているだけだ。韓国はこれをもって、日本はハングルの使用を厳禁し、韓国人から韓国語を奪ったと主張している。

館内で国語教科書を展示するコーナーでは、戦後の教科書が並ぶだけで日本統治時代のハングルの教科書は1冊も置かれていない。ハングルの保護・発展につくした7人の人物を紹介するコーナーで唯一の外国人として出てくるのはHistory of Korea(韓国史)を書いた米国人Homer Bezaleel Hulbert(1863~1949)だけだ。

館内の展示説明では「日本の植民地統治の間、ハングルを含む韓国語は公式に禁止された」「1945年日本からの解放以後、ハングルは再び韓国人の文化と精神の基礎として再生した」と書いている。日本統治時代を通じて「東亜日報」など漢字ハングル混用の新聞は発行を続け、街にはハングルの看板やポスターが溢れ、小説家はハングルで小説を書き続けていたにもかかわらず、日本統治時代には韓国語が消滅したような説明ぶりなのだ。

そもそもハングルを学校教育のなかに取り入れ、ハングルの教科書をつくり、ハングルの綴り方、正書法を整備したのは日本の朝鮮総督府だった。そもそも「ハングル」(한글=大きな文字の意)という言葉ができたのは日本統治時代の1927年のことで、それまで世宗大王が制定した「訓明正音」は「諺文」(언문オンムン)と呼ばれ、女性や身分の低い民衆が使う卑しい文字として蔑まれていた。

いまの韓国語のなかで使われている漢字語のなかで、その70%は日本由来の漢字が使われているし、韓国近代文学は日本の文学なしでは成立しなかったとも言われる。当初、ハングルによる文章作法、文体が確立していなかったため、韓国の小説家は「日本語で構想を練り、それを朝鮮語に移す(翻訳する)」という過程を経て創作し、当時の小説家は「ある程度日本語と朝鮮語という二重言語状況にあった」(金哲『植民地の腹話術師たち~朝鮮の近代小説を読む』(渡辺直紀訳、平凡社2017年 位置No1985)という。

そうした歴史をすべて隠蔽し、真実から目を逸らさせようとする役割を果たしているのが、「国立ハングル博物館」であり、2013年から国民の休日となった「ハングルの日」なのである。

かつてこのブログでも書いたが、もう一度指摘する。韓国の歴史教科書では、朴正煕時代の経済発展「漢江の奇跡」に使われた資金について、ベトナム戦争に参戦して得た米軍の資金や、ドイツへ炭鉱労働者や看護婦を派遣して得た外貨については触れられているものの。1965年の日韓請求権協定で日本から支払われた民間資金を含めて8億ドルの経済協力資金についてはひと言も触れられていない、敢えて隠蔽している。そのことを今の若者が知ったのは、日本企業の韓国内資産が現金化されるなどで騒がれている元「徴用工」訴訟が契機だった。それだけ韓国の教科書は真実を閉ざし、事実を隠蔽する体質に溢れている。

「ハングルの日」に合わせ、日本人がハングル普及に果たした役割を叫ぶのは有効かもしれない。

(国立ハングル博物館)