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英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

第10回目 ミャンマー カロウ 2017年2月

2016.05.04 13:38



門司港から始まった依頼 桜咲く日本へ帰国


1:門司港(福岡県)

 


    第二次世界大戦中、インパール作戦により帰れなかった多くの日本の兵隊が、この港から船で南方へ向かったそうだ。そして、ビルマへ辿りつくまでの移動途中で連合軍の潜水艦に沈められる船も多かった。そんな危険と裏腹の船旅を終え、辿りついたビルマ。そこで更なる過酷な補給なき戦いが最終的に待っていようとは。諸説あるが、10万の兵隊が参加し、7万の兵隊が戦いや病、飢餓に倒れたそうだ。誰一人として、どうでもいい命など存在はしない。そう思うと、この戦争で粗末な扱いをされた多くの命に手を合わす他無かった。が、私は、それ以外の方法を知ることとなった。それはこのインパール作戦で亡くなった多くの日本人の魂を日本に連れて帰ることでした。彼らはまだ戦地に残っている。そして、インパール作戦は続いている。多くの日本の兵隊が帰還を願い、戦地で待っている。そして、彼らは日本へ帰りたい旨を伝え、迎えに来てほしいと依頼がやってくる。その事実を私はしっかりと受け止めておかなくてはいけない。

 

 

    2016年8月17日、突然、山口県門司港から発せられる思念を感じました。『どうか門司港にお寄りください』私はその思念に従い、門司港へ向かいました。すると、山の上にビルマで見る仏塔、チェディと呼ばれる塔が、建っているのが目に入りました。『あそこに行くのか』と自然に理解し、車を走らせました。そして、インパール作戦で命を落とした日本の兵隊方を供養するビルマ式寺院に辿り着きました。塔の入ると、ビルマで命を落とした日本の兵隊方の位牌が所狭しと並んでいました。

 


※ビルマ:現ミャンマー


    多くの兵隊にとって、門司港は、海外の戦地へ向かう為の最後の港であり、日本を発つ前の最後の印象深い故郷の一つだったのかもしれない。だからこその門司港だったのかもしれない。そして、遠き地で亡くなった日本の兵隊方のご遺族、そして彼らへ感謝する人々の慰霊の思いが詰まった場所、世界平和パゴダ。きっとこの地へ帰ってくることによって、彼らの帰還への思いが成就し、あの世へ旅立って行く方もいたのかもしれない。私はこの場所へ呼ばれたことに納得しました。そして、それ以上、日本の兵隊方からの連絡は無かった。

 


    ただ一つ気になることがあるとすれば、“狼”兵団の存在でした。世界平和パゴダで視界に入った石灯篭に刻まれた“狼”という文字。これが次の英霊の依頼活動へ繋がる大事な存在であるということと彼らの見えない力を感じることになるとは知る由もなかった。 


 2:京都二年坂 新たな依頼
  


    京都 二年坂にあるお食事処より、舞妓の踊りを観賞しながらの食事の新企画プランのお披露目会の招待状が妻に届きました。妻は戸惑いながらも、行くことに決めました。一人で行くのに不安そうに見えたので、私も仕事の状態を見て、時間調整がつきそうだったので、送迎をすることを提案しました。

  


    8月暮れだったか9月初めだったか記憶があやふやになりましたが、夜7時から、建物2階の大広間で宴が始まりました。多くの日本人関係者が招待されており、舞妓の踊りを観賞しながら、料理を愉しんでいたようでした。

  

 

    この時、私と子供は招待されていなかったので、京都四条付近で時間を消費し、待つことにしました。

 


    舞妓の踊りの後、各々のテーブルでは話が徐々に盛んになっていきました。そんな中、妻が相席していたテーブルで、3名の方々がインパール作戦について話しているのが聞こえてきました。妻は、確認するかのように話に注意を向けると、やはり、間違いが無いようでした。その瞬間、全身の毛が逆立ちしたと思ったら、日本の兵隊の気配を感じ、彼らが来たことに気が付いたようでした。そして急に、インパール作戦の話をしている方々に声をかけなければいけない衝動にかられたようでした。それは、まるで彼らに後押しされているような感覚だったそうです。

  


    同じテーブルに座っていたその3名の方々は非常に驚いたそうです。何故、タイ人女性がインパール作戦を知っているのだろうと不思議に思ったに違いありません。そして、その疑問に答えるかのように、妻は、今まで関わってきた日本の兵隊の幽霊方の帰還依頼について、拙い日本語で話をしたようでした。

 


    その3名の内の一人が、この招待状を送って下さったお食事処の会長の奥様でした。話をお伺いしていく内に、このお食事処で、インパール作戦から帰還してきた奥様の御父様が、生前、会計係として、この食事処で働いていたということを知りました。妻はそんなこととは知らず、このお食事処の会長と懇意にさせて頂いていました。

  


    宴が終わり、車に戻ってくると、妻が興奮して、その夜の宴で起きた出来事を、私に話してくれました。 


     相席していた皆様の御父様方はインパール作戦に行かれており、御父様同士がどうもお知り合い、もしくは友人関係にあったようでした。1名は、京都出身の方で、2名は滋賀県出身の方のようでした。 


     私はその話を妻から聞いた時に少し変な空気を車内で感じ、なんとなく次の英霊の依頼活動が始まるのではないかと薄々感じ始めていました。 


     『ひょっとしたら、私の処に出てくるんじゃないだろうか・・・』


     帰宅して、ゆっくりしていると、案の定、日本の兵隊方が私の元へやってきました。 


     『今はどこにおられるんですか?』

すると、場所が浮かんできた。 


     『メイクテーラか・・・』 


     どうも京都出身の方のようでした。しかしながら、『迎えに来て欲しい』と明確に言葉にしませんでした。私は、それ以上、話を続けることを止めました。続ければ、間違いなく、すぐに迎えに行かなければならなくなるような気がしましたので。実生活のことを考えると、仕事を休み、何度も海外へ行くことは、非日常的過ぎて厳しい。 


     『まだ正式な依頼じゃない・・・。すまん。すぐは無理なんだよ。お金もかかるし、ペースも早い。この世で生きるって(現実的な生活があるから)たいへんだから。もう少し待ってほしい』そして、日本の兵隊の幽霊方の思いに意識を向けないようにしました。 


 3:ミャンマーまでの道程を知る

 


    2016年11月暮れ、北海道のFさんから一冊の本が届いた。会田雄次氏著のアーロン収容所という本でした。彼の本を拝読したところ、京都の“安”兵団も門司港から南方へ向かったと書いてありました。大阪南港から輸送船に乗って、門司港へ移動し、そこから出帆したのだろう。私は、“安”兵団の全てが舞鶴の港から出帆していたと勝手に思いこんでいましたので非常に驚きました。なんとなく、次の英霊の依頼活動は、門司港に立ち寄った時から決まっていたかもしれません。どちらにしても、私に全て流れを知っておく必要がある為、何かに勉強を促されているかのように感じました。


 4:滋賀県高島市にて兵隊の霊に囲まれる

 


    12月に入り、子供が西近江七福神巡りをしようと言い出しました。私も気分転換をしたかったので、子供の提案を受け入れ、車を走らせていると、妙な感覚を感じることがありました。次々に神社・お寺を訪れ、御朱印を頂くのですが、最後の最後で、おかしなルート選択をしました。


  『この判断は私ではない』

 


   とにかく、最後にしたお寺に向かって車を走らせていると、酒蔵の前を通過した瞬間に『お酒が飲みたい』と思念が伝わってきました。『えっ?』驚いたが、そのまま、車をまっすぐお寺に向けて走らせました。

 


   到着し、境内に入って行くと、異様な空気に包まれました。

 

 

    『これは・・・。インパール作戦で亡くなった日本の兵隊方の気配と同じだ』 


     私の周囲に、彼らの気配がいくつか現れ、私を取り囲みました。

 


    私は境内の中の墓場のある一角へ向かい、墓石を調べ始めました。すると、いくつかの墓石にインパール作戦、ビルマといった文字が目に入りました。『そうか。ここでも、インパール作戦に従事し、亡くなった方が・・・』身近な場所にインパール作戦で亡くなられている方がいることを知り、なんともショックを受けました。そして、先ほど、通り過ぎた酒蔵へ向かい、この地の日本酒を購入しました。普段、お酒は飲まない私ですが、自宅でそのお酒を飲みました。本当は、墓石へ持ってお供えした方が良かったのかもしれないですが・・・。今回、滋賀県高島市で私を取り囲んだ兵隊方は、妻が同席したテーブルの方達ときっと関係があるのかなと思いました。遠からず近からず、同じ部隊に所属していたことは間違いない。出なければ、こういった体験をしなかったような気が致します。 


 5:カロウ 強制的な力で引き寄せられる
  


    12月初め、いよいよミャンマー渡航への意思を固めました。『何も不安に感じることは無い。流れに任せればいいのだ』

 


    行先はメイクティーラで、現地で合流するだけだと思っていました。

 


    すると、山口県門司港の見た慰霊碑に刻まれた狼兵団のことがどうしても気になっていた私は、彼らの部隊について、調べ始めた。彼らの辿ったルートはおおよそ理解し、最終的にはメイクティーラで玉砕したようでした。が、その瞬間、私の頭の中で地図が広がり、強制的、そして、強力な力で意識がメイクティーラより東南東へ引っ張られていき、ある場所に意識が止まらせられました。

 


    そこからは実際の地図を開き、地名を確認するとカロウという街でした。『ここに何があるんだ?』と彼らの思念に意識を向けてみました。すると、どうも山の中でその日本人男性は亡くなっているように感じました。

  


    ネットでさらに情報を調べるが、あまり、カロウについて詳しく書かれているサイトを見つけることが出来ませんでした。初めに引っかかったのは1件ぐらいでした。が、徐々にカロウに関する情報が僅かだが、入って来るようになりましたが、満足出来るものではありませんでした。

 


    そんな折、不意に2016年5月 ミャンマー・ホマリンへ行った際のミャンマー人ガイドさんが頭に浮かびました。彼に聞けば何かわかるかもしれない。そう思い、コンタクトを取ってみました。2016年12月25日のことでした。

 


     翌日、さっそく返事が来ました。


    まずは、車での移動時間について返信が返ってきました。 


 マンダレー → メイクティーラ 2時間半 

メイクティーラ → カロウ 3時間

 


    カロウとメイクティーラが、車での移動可能範囲であることがわかりました。さらにカロウについて、インパール作戦時の様子を伺ってみました。

 


    ミャンマー人ガイドさんからの答えは以下でした。 


     『カロウの山に幽霊があると言うことが日本人から聞いたことがあります。あの日本人はヤンゴンで旅行会社を作っている人です』

 


    私はその日本人について詳しく聞いてみると、ガイドさんから彼の連絡先とミャンマーの旅行会社を紹介して頂きました。

 


    電話番号を頂いたが、このような件ですぐに電話するのは不躾過ぎですし、まずはメールを送ることにしました。 


 6:寝床で日本の兵隊に声をかけられた日本人男性

 


    12月28日、さっそく返事が来ました。どうもミャンマー人ガイドさんが、その日本人の方にご連絡をして下さっていたようで、スムーズに話が始まりました。

 


    彼はカロウに滞在中、日本の兵隊の遺骨が埋まっている場所を訪れる機会があったようでした。その時は何もせず、滞在先へ戻ったそうです。すると、その後、高熱を発症、1週間ほど熱が引かず、満身創痍の状態になりました。病院へ行き、薬をもらってもみましたが、それでも、一向に熱が下がらず、仕事をしつつも、横になれる時に臥せっていると、夢うつつの中、日本の兵隊が3名現れ、『水も線香もあげないなんてひどいじゃないか』と言われたようでした。なかなか体調が戻らない彼は、水と線香を持って、フラフラと日本の兵隊の骨が埋設されているという場所へ再度、赴いたようでした。そして、持参していた線香を立て、手を合わせ、日本の兵隊を慰霊したようでした。その後、部屋に戻ると、1時間ほどで熱が下がり、体調があっという間に良くなり、彼にとっては、非常に印象深い、不思議な体験となったようでした。

 


     そんな不思議体験について、彼からメールを通して聞くこととなりました。

 


     そして、2017年になり、彼から一度直接お会いしてお話がしたいといった旨のメールが届きました。1月中旬以降に日本へ一時帰国するので、近ければという話でした。当初、私が住んでいる場所から少し距離がありましたので、お断りのメールを致しました。が、その彼の夢うつつの中に現れた日本の兵隊が我が家に訪れました。これで、彼の話は、変な話ですが、実在する肉体を失った日本の兵隊だったんだということが、私の中で確信を得ましたので、距離に関係なく、なんとかお会いしてみたいという衝動に駆られました。

 


    さっそく、彼にもう一度、連絡を取り、『お会いしませんか』と打診をさせて頂きました。彼からは快諾のメールが届き、その時期に偶然、上京している北海道のF氏も参加することとなり、3人での顔合わせが東京で実現することとなりました。

 


    そんな顔合わせの数日前に北海道のF氏から1冊の本が届きました。何でも、以前購入した本でしたが、荷物整理をしている時に呼びかけているような気がして、開いてみると、カロウの地図があったということでした。そして、その本を私に送って下さいました。私はその本の付箋の張っているページを開くと、まさしくインパール作戦当時のカロウ駅周辺の地図であった。 


 7:東京池袋駅 東口 告げられた合流場所

  


     朝に東京に到着した私は、まず、靖國神社楷行文庫へ訪れました。室長とお会いし、インパール作戦に関する情報を仕入れる為でした。室長はいつもながら、紳士に接して頂き、3冊の本を下さいました。先約の予定もあり、それほど長居できなかったのが残念ですが、室長とお会いすることで、少しでも情報調達に繋がり、現地での行動上の判断に繋がるのではないかと思っています。ちょっとしたことがとても大きい。いつも経験していることなので、室長及び楷行文庫の職員様にも本意では無いにしてもお力を頂いていると思っています。
  


    約束の場所・時間はJR池袋駅東口前にある宝くじ売り場の前で18:00でした。事前に私と北海道のF氏との写真を彼にメールで送っていましたので、相手の方が、すぐに私に声をかけてきました。振り返ると、一人の男性がいました。彼がミャンマー人ガイドに紹介されたT旅行社のFさんでした。

 


    さっそく、食事をしながらお話でも致しましょうということで、池袋西武百貨店8階へ移動し、和食レストランを選び、席に着きました。まずは自己紹介から始まりました。 


     最初にT旅行社F氏が口を開き、体験した日本の兵隊の幽霊の話をして下さいました。再度、こちらでお話を書いてみます。2003年の出来事でした。彼は日本の兵隊の骨が埋設されたのではないかとされる場所に訪れましたが、何もせずにその場所を離れたそうです。その後、急に体調が悪くなり、熱が発症しました。しかしながら、所用を済ませる為、別の街を訪れたり、移動を余儀なくされていましたので、熱を下げるために病院で診察して頂き、薬を処方して頂いたそうだ。しかしながら、熱が一向に下がらない。彼はカロウに戻り、寝込んでいると、頭の後ろに3人の日本の兵隊の気配を感じ、その兵隊たちに声をかけられたそうだ。 


     『水と線香もあげないで行くなんてひどいじゃないか』 


     夢うつつの中での出来事であったので、現実味は無かったが、妙に気になり、高熱にも関わらず、偶然ヤンゴンの日本人墓地で使おうと思って持参していた線香と水を持って、フラフラと日本の兵隊が埋設されているかもしれない場所へ再度、訪れたそうだ。


     彼は水と線香をあげ、手を合わせました。すると、1時間も経たない内に、薬も効果がなかった熱はあっという間に下がったようでした。不思議な体験をした彼は、こういった心霊現象に興味を持つようになったようでした。 


     そのような体験があった彼とミャンマー人ガイドは、2016年5月に我々夫婦と北海道のF氏と行ったホマリンでの英霊の依頼活動について、話をする機会があったそうで、それがきっかけで今回の縁に繋がったということでした。 


     そんな話の中、私は北海道のF氏が私に送った下さった本に付属していた地図をコピーして持ってきており、それをテーブルの上で広げました。 


     T旅行社のF氏はその地図を見て、ジャパンバレーなる場所の話をし始めました。その谷には日本の兵隊の遺体を埋設していた場所のようでした。谷なので、遺体を埋める場所としても適していたのと、その土地のカレン族に、その場所であれば、埋設してもかまわないと許可をもらったのも理由の一つだったようでした。 


     そんな話をしていると、兵隊の幽霊が現れました。私はその地図のある場所に意識が集中しました。場所はその時わかりました。ジャパンバレーではないが、その付近であると。その後も、話は続き、様々なことを話し、親交を深めていきました。そんな中、驚くような話が出てきました。T旅行社のF氏の奥様はカロウ出身であると。北海道のF氏と思わず、目を合わせ驚いてしまいました。


     この後は、次の日もお仕事のあるT旅行社F氏と別れ、北海道のF氏と二人池袋駅近くの居酒屋へ飲み直すことにしました。2回の英霊の依頼活動をこなしてきた者同志の見えない絆といいますか。若輩者の私がそんな風に言うと、北海道のF氏に御気分を悪くされそうですが、私はそういう気持ちでいました。

  


    そんなF氏と話をしていると、カウンターの女性の日本語が気になり、私は声をかけました。『日本人じゃないですよね?どこの国からですか?』と聞くと、『ミャンマーです』と答えられました。F氏が連れて行ってくださった居酒屋でカウンターの中にいる女性がミャンマー人だとは・・・。なんとも言い表せない感情がこみ上げてきました。ミャンマー地図をF氏が広げて、ミャンマー人の女性と話していると、今度は目の前の男性が話しかけてきました。彼は日本画家でタイ王国のチェンマイ大学で先生を数年されていたということでした。これにも非常に驚き、私の妻はチェンマイ大学の大学院へ通っていたので、これも何かの偶然にしてはよく出来た話でした。

 


    その夜は北海道F氏と何とも言えない感情でいっぱいになりました。何がって言うと、ミャンマー・インパール作戦繋がりという点でしょうか。普段、お酒を飲まない私はF氏と美味しい酒を酌み交わし、そのまま、帰宅の途へと着きました。 


 8:カロウへの準備

 


    北海道F氏と私は一気に波に乗り、ミャンマー行きへの手配を始めました。昨年と同様に、お世話になったJ会社のN氏に個人旅行の手配をお願いすることになりました。が、ガイドは北海道F氏の提案により、昨年お世話になったミャンマー人ガイドさんにお願いすることになりました。ガイドさんの予定を確認すると、ご同行可能ということで、すぐに彼にお願いすることにしました。こうして、10回目の英霊の依頼活動のメンバーが決まっていきました。 


 9:カロウに桜

 


     2月4日 北海道F氏からメッセージが届きました。何故かJ会社のN氏がカロウに桜を寄贈したという話が舞い込んできました。F氏は「何なんでしょうか?」と私に聞かれましたが、私もさっぱりわからずでした。とにかく、我々の行先であるカロウが騒がしくなっている? しかし、N氏がどのような経緯で我々が向かう場所に日本の桜を寄贈することになったのかが不思議なところでした。ミャンマーにはたくさんの街があるし、日本よりも面積の大きな国。何もこのタイミングでカロウに寄贈する必要も無いだろうし・・・。きっとN氏も我々の向かう場所がカロウと聞けば、『奇遇にしては出来過ぎた話だな』と思うでしょうけど。今回、我々に帰還依頼をしてきた日本の兵隊方がこの地カロウを発つ前に日本の桜を置き土産にしたかったのだろうか。そんなことはないだろうけれど。どちらにしても、カロウに何かあるのだろうと思わざるを得ませんでした。


 10:名乗る兵団名 高

 


    2月17日金曜日、日本の自宅で子供が話しかけてきた。『お父さん、明日、仕事するの?』『あー、あるよ。どっか行きたいんか?」2月18日土曜日は朝だけの仕事で、午後からは事務仕事をしようかと思っていました。『タイミングの良い奴だな』と思いながら、話を聞いていました。行きたい場所を聞くと、京都にある石清水八幡宮ということでした。すぐ近所でしたので、心に留めながら、『もし、仕事が早く終わったら行こうか』という話をして前日、寝床につきました。

 


    2月18日土曜日、午前中に、無事、仕事を終えて、石清水八幡宮へ行くことになりました。車を走らせていると、妻が急にイチゴファームに行きたいと言い始めた。子供は不機嫌になったが、妻が強引に言い始め、仕方なく、立ち寄るだけだからと向かうことになりました。寄り道をした後、石清水八幡宮へ行くことになったのですが、子供が急に飛行神社に行きたいと言い始めた。『飛行神社?』なんだか奇妙な名前の神社だなと思いながらも、子供が時間的に早く行かないと閉まってしまうと言うので、それを鵜のみにして、とにかく、行ってみることにしました。

 


    飛行神社は飛行原理を発見した二宮忠八翁氏が自宅内に創建した神社だそうで、航空殉難者・物故失覚者の御霊の安穏を祈り、空の安全、航空業界の益々の発展を願う神社ということが公式ホームページに記されていました。

 


    そんな神社のことを前知識も無しに訪れると、我々家族の周囲に多くの御霊の気配が集まって来るのがわかりました。しかしながら、姿は見えず、『なんで?』と思いながらも、手を合わせ、本殿にご挨拶をして、次は石清水八幡宮へ立ち寄り、帰宅することとなりました。

 


    夕食を済ませ、その日、集まってきた多くの御霊の話になり、『あれって何だったんだろうね。よくわからなかったわ』と二人話していると、妻が『頭が痛くて、結構、たくさん来たよね』と話していると、頭の中にコンタクトを取る御霊が、“高”という名前を伝えてきた。私は直感的にインパール作戦と繋げ、ノートパソコンを取りだし、何か特別な出来事が起こったかのように調べ始めました。その時、子供と妻は、何かにとりつかれたかのような私の姿を見て、私のことが非常に怖かったと言っていました。

 


     “高兵団”“インパール作戦”と検索ワードを打つと、あるページに引っかかった。今回の英霊の依頼活動で立ち寄るカロウという村に昭和19年3月1日に前進。その後、中部シュウエポへ前進となっていた。3月1日というと、ちょうどカロウで今回帰還依頼をしてきた日本の兵隊方と合流するであろう日でした。偶然なのか、それとも、誰かの仕業なのか。私はその解答を見つけることが出来なかった。

 


    この後、『彼らは日本の為に戦った』と力強い言葉を伝えてきました。様々な個人的な状況と心情は別として、その言葉の中には、頑なに揺るぎない信念・意思を感じました。

 


    飛行機乗りだったその兵隊の御霊は、きっと彼なりの将来に対する希望を持っていたように感じました。戦争がなければ、きっとしっかりとした志と希望を持って、自分の人生を歩んでおられたのではないかと思います。

 


     ミャンマーへ旅立つ前でしたが、北海道のF氏に伝えました。そして、ミャンマー人ガイドさんにも何か “高”兵団に関する情報がないか聞きましたが、有力な情報を掴むことが出来ませんでした。さらに、ミャンマーで旅行会社を経営するF氏にも問い合わせてみましたが、カロウ付近では、そのような飛行機部隊が離着陸するような飛行場はないということでした。とにかく、史実は一旦置いておいて、現地ミャンマーへ行って、飛行機乗りの御霊からの連絡を待つことにしました。我々側であれこれ想像・現実確認をしたところで、正確な答えを見つけることは出来ません。ただただ、動きを待つということしか出来ないので、いつでも受け入れる体制は整えておくことにしました。 


 11:ミャンマーへ出発

 


    行く間際にあれこれと諸々がありましたが、なんとか父に頼み、駅まで送ってもらうことにしました。朝6時過ぎに家を出発。関西空港行きのリムジンバス停に到着すると、すぐにバスが来て、乗り込みました。最寄りのバス停から関西空港までは1時間10分前後。いつもは空きが多いバスのシートも、この日は満席に近かった。バスに乗り、先日、パスポート更新の為、先立って、タイ王国へ戻った妻を関西空港まで送った道のりを眺めていました。『とうとうこの日が来たか。終われば、この日本で多忙な日々を送るんだろうな』と感慨深い気持ちに浸っていました。いつもこの瞬間に思うことは、日本の兵隊方を日本に帰還して頂くためにミャンマーへ足を運ぶ自分の奇妙な人生についてでした。『誰が信じるのだろう』と思いながらも、今は遂行メンバーや見守って下さる人たちもいる。自然にこの流れになったことに、彼らの願いや見えない世界からの計らいを感じざるを得ない。しかし、素の自分は、人を巻き込んでいいものなのかという悩みもある。ただただ、今の状況に手を合わし、感謝という言葉だけでは表現できない気持ちを、この活動に向ける自分がいました。

 


    関西空港に着き、無事、チェックインを済ませた。Tシャツが足らない気がしたので、ユニクロで3枚ほど購入しました。この後は、お土産屋さんに立ち寄るが、何を買ったらいいかわからず、荷物の加減を考えていると、結局、買うことが出来ず、ゲート側へ移動することとなりました。人が多く、驚いたが、学生さんの姿が目に入り、春休みの影響かと気が付きました。

  


    飛行機に乗り込み、一路、タイ王国バンコクにあるスワナプーン空港へ。こちらで乗り換え、ミャンマーのヤンゴンへ向かいました。私の到着時刻は19:00頃でしたが、若干遅れ、30分くらいずれたようでした。送迎ドライバーさんが来ている予定でしたので、待たせては申し訳ないなと思いながら、空港から出てくると、一人の男性が笑顔で出迎えて下さいました。ホッと胸をなで下ろし、車でホテルに向かいました。タイ王国バンコクで乗り換え時にホテルの部屋番号を妻からLineで連絡をもらっていましたので、部屋に直行で向かいました。妻とヤンゴンで待ち合わせというのは初めての経験で不思議な感じがしました。しかしながら、妻は、いつも通りで、一足先にヤンゴンに着き、いつもお世話になっているバラミー寺院に行ってきた話をしてくれました。ブッダリリックをまた頂いてきており、非常に嬉しそうな表情を浮かべていました。

 


    私はすぐに携帯をホテルのwifiに繋ぎ、北海道のF氏に到着連絡をしました。すると、下のロビーにおられるとのことでしたので、早々に合流しました。この瞬間がなんとも言えない喜びでした。ミャンマーのヤンゴンでメンバーと落ち合う。いやが上にもテンションがあがるのでした。

  


    さっそく、主要メンバー3人が集まったということで、決起会を現地で人気のある屋台街ですることにしました。タイ語が話せるホテルスタッフを捕まえて、地元の良い屋台街の情報を掴み、タクシーを捕まえ、その行先を告げてもらいました。ホテルからさほど遠くなく、楽しそうな雰囲気の一般庶民行きつけの屋台街に到着しました。ミャンマーでは焼き鳥のようなものが人気の居酒屋料理の一つで、自分で食べたい具材を選び、それを焼いてもらうことにしました。前回のホマリン編で、マンダレーにて決起会をした時と同じ料理でしたので、なんだか気合いが入りました。さらにミャンマービールで景気をつけました。今回の日本の兵隊の帰還依頼は、少し勝手が違うような気がしました。守備範囲が広いというか、新たな展開を予感させました。そんな空気に包まれながら、結束を高め、次の日に向けて、ホテルに戻りました。国内線ヤンゴン空港からミャンマー中央部少し東側のヘイホ空港への移動の為に、ホテルを明朝6時に立つことを確認しました。日本時間で8時半。起きれるか・・・。

  


    部屋に戻り、シャワーを浴びると、荷物の仕分けをして、ホテルのベッドでぐったりと寝てしまいました。各々、どんな思いで寝床についたのであろうか。 


 12:日本の兵隊が待つカロウへ

ミャンマー国内移動の経路


    朝6時にホテルロビーに3人が集りました。今回、旅のマネージメントをして下さった言えるJ社のミャンマー人日本語通訳の方と出会いました。なんとも背の小さい女性でしたが、はっきりと話をする姿に誠実さを感じました。彼女の先導で我々3人はヤンゴン空港国内線の飛行場を送迎して頂きました。朝のヤンゴン市は渋滞もなく、あっという間に到着しました。ここでそのミャンマー人女性と別れを告げ、いよいよ空港内へ。

  


    唖然。国内線が新しくなっていて、見違えるように変化していました。中には日本で言うコンビニエンスストアやカフェもありました。全てが新しく、気持ちの良いスタートとなりました。さっそく、チェックインをし、荷物を預け、3人はカフェでコーヒーを頂くことに。私は腹が減ったのでトーストを注文しました。腹ごしらえを済ませ、さっそくヘイホ空港行きの飛行機に乗り込みました。

  


    ヘイホ空港まではすぐに着きました。空港に着き、トイレに行くと、日本語が聞こえてきました。前回お世話になったガイドさんでした。これで今回の旅のメンバーの最後の一人が加わり、今回の英霊の依頼活動の為のチームが完成しました。これで前を向ける。お世話になるドライバーさんも加わり、少数精鋭で依頼完遂を目指す準備が整いました。 


 13:司令本部のあったカロウホテル

 


    明るいうちに、カロウの街に到着しました。山間部にある街にしては、活気もあり、白人の外国人滞在者がちらほら見え、建設中のホテルがいくつもありました。どうもトレッキングが盛んで、この街から風光明媚で有名なインレー湖まで歩いて自然の中でウォーキングを愉しむツアーが人気のようでした。


     街の中を、ゆっくり車を走らせながら、私とF氏は、“軍属物語”という本の中にあった地図を手に持ち、位置確認をしながら、この道がこうだから、この地図はかなり正確だよとF氏が話し始めました。本にある地図は、インパール作戦当時の記憶に基づいて描かれたもので、今現在の街の様子と照らし合わせることで当時の様子を掴むようにしました。

 


    そんな街並みを確認しながら、車はホテルへ向かいました。泊まるホテルは、カロウ ヘリテージホテル。ホテルに到着した時に、ミャンマー人ガイドさんが、驚いた様子で、『ここは昔のカロウホテルですよ!』と言い始めました。それを聞いた私は非常に驚きました。実はカロウホテルはこの地域内の司令部が置かれていた場所で、日本人将校が進駐していたとネットで情報を仕入れていたからでした。戦傷病院も置かれていて、当時の日本軍にとっては、重要な場所として役割を果たしていたようです。さらに、東京池袋でT旅行社のF氏とジャパンバレーの話をしている時に、日本の兵隊方が彼らの待つ場所として、カロ―ホテルの近くにあるパゴダのある場所を指定してきたことを思い出し、いやが上にも、この奇遇さの度合いが衝撃で腰を抜かしそうになりました。

 


    このホテルを手配した北海道のF氏にどのような経緯でこのホテルを選んだのかを聞くと、旅行のアレンジをして下さっているN氏のスタッフから、いくつか選択肢であるホテルをご紹介され、そのうちの一つを旧カロウホテルとは知らずに選んだということでした。このホテルを選んだF氏当人も驚きを隠せないご様子でした。

  


    チェックインを済まし、2階の部屋へ案内されました。建物の内装は改築されたばかりで、清潔感に溢れ、素敵な雰囲気でした。 


     各々部屋で少し休んだ後、ホテルの周囲を散策することにしました。軍属物語の中にあった地図を片手にジャパンバレーらしき場所を徒歩で探してみることに。それらしい道はあるが、行き止まりで、その先は軍管轄の土地になっていました。歩いていた道側面の谷が気になり、降りていくと、現地の住民がいて、この付近のことを聞いてみるが、ジャパンバレーらしき話は知らないとのことでした。反対側にも道があることを教えて下さいましたが、何となく違うような気がしました。ここでガイドさんがT旅行社のF氏に電話して下さいましたが、土地勘がないので説明を十分理解することが出来ず、迷走し始めました。

途中、古そうな建物のある土地へ入って行くと、一人の年老いた女性がおられ、そこでこの付近のことをガイドさんに聞いて頂きました。すると、その土地の道路側とは反対側に古い大きな建物があるということでした。我々は何も知らないまま、山の中を上がって行くと、道路がありましたので、そのまま進むことにしました。
 
  


    すると、1928年に建てたレンガ調の建物が現れました。ガイドさんに聞くと、中に入っても問題なさそうだということでしたので、入っていきました。建物の中は何か置いてあるというわけではなく、使用されている雰囲気ではなかった。とにかく、非常に大きな建物で、何名かの男性が、ある一室で生活をしているようでした。中央階段を上がり、2階へあがると、同行していたメンバーとは違う部屋に足が向きました。少々おっかない気持ちになりましたが、目的の土地に来ていることを実感しました。建物を出て、周囲を散策していると、写真撮影はしないようにとミャンマー軍人が話しかけてきました。どうも、この場所は軍が今使用していて、通常、中に入れないようでした。皆、笑顔で会釈すると、軍関係の人も笑顔で我々に応えて下さいました。

  


    結局のところ、ジャパンバレーなる場所は見つからず、もう少し探せばあるのだろうけれど、それほど重要でないような感覚がありました。

 


    この後は、道路から見えていたパゴダへ伺うことにしました。これは、日本を発つ前に日本の兵隊の幽霊方に言われていた待ち合わせの場所と一致していたからでした。どうしても確認したくて、この日の最後に立ち寄ることにしました。すると、創建も古く、このお寺は戦争当時からあったということでした。ここで明日の朝から、慰霊(ご供養)を御坊様にお願いしましょうということにして、出直すことにしました。東京、池袋で日本の兵隊からの連絡では『パゴダのある場所で会う』と約束したので、明日の朝になれば、わかることだなと思いました。 


 14:F氏の提案 依頼無しの英霊の依頼

 


    ホテルに戻り、ゆっくりしてから、ホテルの中で夕飯を頂くことにしました。明日の朝、パゴダに持っていくものを確認しながら、食事を愉しみました。が、北海道のF氏から、想定外の提案がありました。もし、明日、日本の兵隊方と合流し、時間が余れば、宿泊をずらし、カロウで2泊のところを1泊にし、メイクティーラへ移動しませんかということでした。メイクティーラでも同様に時間が余るのであれば、短縮を図り、他の場所に伺い、新たに余裕の出来た時間で我々に出来ることをさらに出来ればということでした。今まで依頼があった場所しか行ったことがなく、どこにどういったらいいのか全く想像すらつきませんでした。が、ガイドさんを通し、J会社に連絡を取り、ホテルの宿泊キャンセルが可能であることが徐々にわかっていく中で、今まで、回った場所、メイミョー・マンダレー・サガイン・アマラプラなどで、機動力の問題で満足にゆっくり回り切れていなかった場所に行きたいと思うようになっていきました。正直、これが慰霊には繋がっても、合流し彼らが日本へ帰還することになるのかどうかは全く自信がありませんでした。しかしながら、ここミャンマーにおける自由な動きを北海道F氏がご提案し、私がお役に立てることをしてみようと挑戦することにしました。依頼無しの英霊の依頼活動。F氏のこのご提案がどう出るかは、この先、わかることになるだろう。ガイドさん、他、旅行アレンジメントをして下さっているスタッフの皆さんにはたいへんお手間を取らせましたが、お願いすることになりました。 


 15:合流

 


    夜は何事もなく、熟睡できました。何かが現れて、起こされるのではないかなんて考えていましたが、疲れていたせいか、横になれば、あっという間に眠りに落ち、気が付けば、朝が来ていました。

 


     早起きをしてしまった私は、ホテルの外を散策し始めました。ホテルから見える緑の建物の場所は、日本人が慰霊に訪れる場所だとミャンマー人ガイドさんからお聞きしていました。『あそこに病院でもあったのか?』などと思いを巡らしながら、ホテルの敷地外へ出ると、北海道のF氏に出くわした。カロウ駅から線路伝いにホテルまで戻ってきたということでした。まだ歩いていない道を二人で散策することにしました。その道は、ホテルに着いてから、ジャパンバレーを探していた時に伺った谷の反対側でした。進んでみるが、これといった特別なものはなく、学校らしきものがあるぐらいでした。Uターンをして、ホテルに戻り、皆で朝食を取ることにしました。

 


     ホテルの朝食はとても美味しかった。種類も豊富で特に美味しかったのはご当地名物シャンらーめん。この麺料理は、スープと麺が別々になっていました。日本で言うところのつけ麺でした。今までミャンマーで食べたラーメンで本当に美味しいと思ったのはこのラーメンだけでした。思わず、ホテルスタッフにおかわりをお願いすると、快く用意して下さいました。その他、スープも美味しいので、2杯目のラーメンにはそのスープをかけて食べました。シャンラーメンはスープが無いが、好き嫌いの多い私が好きで食べるぐらいだから、多くの日本人の口に合うような気がしました。これにて、一気に力をつけ、日本の兵隊方との合流場所へ向かうことになりました。 


     この日の予定は、朝市場に行って、日本の兵隊方との合流時に使用する食材(ご飯等)を用意し、慰霊をお手伝いして頂く現地の御坊様にも、毛布等をご用意致しました。全てはこの地に残っていた日本の兵隊方の為にすること。所謂、生きていた頃の物質世界の名残を、催事ごとを通して認識して頂ければと意識しました。彼らの労を労い、食べ物のエネルギーを取って頂き、この世・物質世界で生きていた頃との決別・最後を確認して頂き、その後は、すっきりした気持ちで日本へ帰国し、成仏してもらえたらというのが目的でした。

  


    朝早く、市場に到着。お米を売っている屋台が市場の中に無かったので、お花や御菓子を買い込みました。問題のご飯だが、中国料理レストランに行けば、あるんじゃないかということになり、伺ってみると、用意してくれるということでした。その間、時間がかかりそうでしたので、他の買い出しに市場へ舞い戻りました。そんな中、私は、兵隊さんが私の周囲に来て、『皆、準備が出来て待っている』と伝えに来ました。私は、急に体調が悪くなり、安全を取って、先に車に戻ることにしました。ご飯も用意出来た我々は昨晩、訪れた境内へ移動致しました。

 


    境内に入ると、多くの日本の兵隊方が我々を待っていました。『カロウに来ました』毎回の事ですが、私は胸がいっぱいになりました。ここにいる兵隊の数が多かった為、私の身体の負担が大きかったが、目に見えない光が私を包み込み、その負担が軽くして下さったように感じました。不思議な現象を経て、無事、合流は完了することが出来ました。『あとは、なんとか体調をキープして日本に帰るのみ』我々が、ここに来た目的・役目を果たした瞬間でした。

  


    この後は、本堂にて、御坊様がお経をあげて下さいました。そして、我々は手を合わせ、彼らの日本への帰還の思いに寄り添うことにしました。宗教に関係なく、この場における出来事に対する心の所作の現れだとすれば、いつもながら、読まれるお経、御坊様、そしてそれを粛々と見守り、彼らの浄化を願う者たちの思い・祈念が日本の兵隊の御霊を癒し、本来、向かうべき世界へ戻って頂く手向けになるのではないかと思います。

  


    この後は、本堂にある竹で編んだ金の仏像が、昨日リフォームが終わったというので拝見させて頂くことになりました。そして、いつものことですが、現地の土地神様に向けて、私は手を合わせ感謝の意を述べました。『日本の兵隊を代表して、今日という日までこちらでお世話になり、ありがとうございました 』 


 16:メイクティーラへ移動

  


     カロウは標高の高い場所ということで、戦前・戦中共に、イギリス軍及び日本軍にとって避暑地として利用されていました。ですので、メイクティーラへ向かう道は高原から下るような道のりでした。道路の状態は舗装されておらず、カーブも多く、ガードレールも無いのでおっかない感じでした。ですので、移動手段の普通車、アルファードのタイヤがパンクしないか心配をしていました。すると、山を下り、平坦になったところで、車が急に止まりました。案の定、タイヤがパンクしたとのことで、右後輪のタイヤが見事に破れているので、これはパンク修理じゃ無理だなと誰もが肩を落としました。すぐにスペアタイヤを取り出し履き替えましたが、脆弱なスペアタイヤがどこまで持つかが気になり不安を抱えたままの移動が続きました。メイクティーラまでそれほど遠くないということでしたが、何も無いのが一番良い。もうスペアタイヤが無いので、それほど楽観的な気分にはなれませんでした。ただ、家屋や店舗が並ぶ様子を見て、人がいれば、なんとかなるのかなというのが唯一一抹の不安を和らいでくれました。
  
  


    なんとかメイクテーラ市まで辿り着き、ホテルに着く直前、次の目的地としていたナガヨンパゴダというお寺の前を通り過ぎました。今回の日本の兵隊方からの帰還依頼の場所はこちらからのスタートでしたで、『何かあるのかもしれない』と思っていました。ただ、この場所を伝えてきたのは、カロウへ繋げる布石の意味があったのであれば、それはそれですごく重要であったはずでした。私の場合、幽霊と言われる存在から断片的なイメージを受け取ることが多かったので、点と点を結び、彼らの言いたいことを推測するのもかなり重要でした。ですので、ホテルに到着後、夕刻までに少し時間に余裕がありましたので、しばらく休憩した後、ナガヨンパゴダ寺院に行ってみましょうということになりました。

 


    パゴダには管理人のような方がおられ、我々に、戦時中の日本の兵隊の写真が入ったアルバムや軍刀・ヘルメットなどを見せて下さいました。しかし、私的にはあまり興味が湧かず、日本に居た時に見た日本の兵隊の映像の場所のことが気になり始めていました。

  


    ここで確認したい場所は戦車の残骸が置かれているところでした。というのも、いくつかの戦車と共に日本の兵隊方が戦闘をされているような映像を見ていたからでした。そんな経緯から、こちらの寺院に残されている戦車の前が重要だと思っていました。寺院内に残されていた戦車の前につくと、ザッザッという行進のような足音が徐々に大きく聞こえてきました。この時、彼らは、日本への帰還ということだけを願ってきているのではなく、もっと違う部分もこの行進のような足音に込められているような気がして仕方がありませんでした。例えば、彼らの存在感。ここミャンマーへ来る前、九州の門司港にて、注意を持ってみた狼兵団と彫刻された石灯篭。彼らは、こちらに入国されてから、戦況が悪かった様々な部隊の退路のサポートに回っていたような記録がありました。そして、最後はメイクテーラ郊外で連合軍と戦い、全滅させられたということでした。きっとそんな彼らの玉砕のような戦いについて、彼らの存在を記憶に刻みつけて欲しかったのではないのかなと感じさせられる意図が、足音の中にメッセージとして含まれていたように思えました。これは、中国・騰越に伺った際の日本の兵隊方の思いと類似していて、人として、その思いにすごく共感できましたし、今回の寺院での出来事でも同じものを感じたので、きっとそうではないかと思いました。ですので、私は、やはり、その思いを受け止め、彼らの存在を私の胸に記憶として刻み付ける使命が、日本人としてあるのではないかと思いました。だから、この寺院に立ち寄ったことは、そのような意味でとても重要であったと思うし、彼らがカロウへ我々を導いて下さったのかもしれないと思うことにしました。体力を消耗していた私としては、カロウを先に行き、その後にこのメイクテーラへと良い流れを作ってくれたのも、やはり、目に見えない何かが働いたかのように思います。そして、もし、私が感じたものが正しければ、門司港の世界平和党パゴダで目に止まった狼兵団に対して、死後も見事な信念と行動だと、敬意を払わざるを得ませんでした。

 



    ナガヨンパゴダ寺院を離れた後は、少し車で景色の良い場所を徘徊しながら、外食をすることになりました。車が止まったレストランは「雲南3」という串焼き屋さんでした。そういえば、北海道のF氏と初めてお会いしたのが、雲南省騰越。F氏と英霊の依頼活動をし始めて、今回でちょうど3回目でした。F氏とは深いチームメンバーになった気が致します。ドライバーさんも含めて5名でビールを飲み始めました。皆さん、良い笑顔でした。が、私は自然に涙がこぼれそうになっていました。胸がいっぱいで、お腹が減っていたにも関わらず、何も喉に通らない・・・。そして、F氏が私に声をかけて下さった時に我慢できず、『兵隊さんたちの分のビールもお願いできませんか?』とお願いをしました。F氏はハッとされ、すぐに彼らの分の料理をご用意して下さいました。すると、彼らの苦しさが晴れて幸せそうに感じました。F氏はたばこを日本の兵隊方の為に火をつけ、置いていました。人の心の傷・苦しみは、他人が理解することで救われるというのを日本の兵隊の御霊から学ばせて頂きました。これは生きている人間同士でも大切だなと感じさせられる瞬間でした。ありがとうございました。
  


 17:ナガヨンパゴダにて慰霊

  


    この日の朝6時から、F氏と朝の散歩をし始めた。メイクティーラには大きな湖があり、その周囲を小一時間程、歩きました。朝の空気が美味しい。しかも、異国となれば、目に入るもの全てが目新しく、好奇心で心が解放されました。F氏とも気さくにお話する時間が出来、なんとも気持ちの良い時間を過ごすことが出来ました。

  


    ホテルで朝食を取り、朝の市場へ慰霊のための準備を整え、お寺に行くと、ちょっとお腹の出たお坊様が笑顔で出迎えてくれました。ここでF氏が日本から持参していた額に入れられた般若心境を奉納致しました。大切にこちらまで運ばれたものでしたので、これでホッと安心致しました。この地に命を落とした兵隊方への良い手向けになればいいなと思うばかりでした。

  


    戦車の場所へ行くが、改めて何か異変は感じることはありませんでした。これで、日本で受けた依頼は全て終わり、重いプレッシャーから解放され、感無量でした。 


 18:新たな試み

 


    カロウとメイクティーラで予定していた英霊の依頼活動は完遂し、本来であれば、日本へ帰国するだけの状態になっていた我々でしたが、F氏は、適切に余った時間をさらなる英霊の依頼活動に有効活用し、他の場所も回りながら帰国を願う他の兵隊の御霊を救えるのではないかという新たな発想を私に提示してくれました。私も以前、そういったことを考えていたことがありましたが、財政的なこと、時間的なこと、機動力的なことが不足し、どうしてもうまく出来ませんでした。しかし、我々はお世話になっていたN社長のJ社の元、この旅はアレンジされていましたので、ガイドさんと優秀なJ社スタッフによる変更が可能な状態にありました。F氏は旅のスケジュールが変更可能かどうかガイドさんに確認依頼。そして、ガイドさんがこの変更の手配をヤンゴンのJ社に連絡し、ヤンゴンのJ社スタッフの迅速な対応によって、それが可能となりました。F氏・ガイドさん・J社スタッフの連携によって、新たな展開への門が開きました。あとは、私の精神体力的な問題と依頼なき英霊の帰還活動が本当に出来るのかどうかという問題だけとなりました。

  


    時間を短縮し、我々は2日間、自由に動くことが可能になりました。メイクティーラから次の行先をメイミョーに致しました。まずは、ここに行こうと決めたのは私でした。理由は、以前伺った時に十分、回り切れていない気がしてういたからでした。 


 19:日本軍司令部があったメイミョー
  


    午前11時頃、メイクティーラのホテルを出発し、高速道路を利用して、まずはマンダレーまで北上することにしました。ミャンマーの高速道路にもサービスエリア的な場所があり、そこで食事を取った後、延々と移動を進めました。 


     道中、ガイドさんの勧めで日本の兵隊への慰霊碑のあるお寺に立ち寄ることにしました。敦賀第67連隊と刻まれた石碑が建立されているを確認。なんとも静かな場所でした。ここでは、手を合せるだけの場所となりました。このお寺で驚いたことはミャンマー人ガイドさんの祖父が慰霊団の通訳をしている写真を見つけたことでした。今は我々と同行して下さっているガイドさんは、英霊の依頼活動を遂行するために欠かせないメンバーになっています。ガイドさんもここに来るまでは、自分の祖父が慰霊団の通訳として、ここに来られていたことを知らなかったようで大変驚いておられました。不思議なご縁を感じ、これは祖父のお導きなのかと感じていました。この時、妻はお寺で西瓜を頂いたそうだ。なんだか英霊の依頼7回目のミートキーナでの西瓜を思い出しました。戦時中、もし、ミャンマーで西瓜が栽培されていたのなら、当時の日本の兵隊方も故郷を思い出しながら、美味しく食べていたのではないかと思うのでした。

  


    メイミョーは標高の高い場所にあり、近づくにつれ、自然と道も勾配がきつくなっていった。多くのトラックが煙をはきながら登っている。我々はそれを除けながら、先を急ぎました。

 


    メイミョーに到着した我々はまずは日本の陸軍墓地へ伺うことになりました。以前、来た時は軍用地に入るということで、パスポートを軍門で預け、前後、兵士に挟まれながら、陸軍墓地まで行ったのですが、今は、住宅街の塀を登り、畑道を歩きながら、行くことが可能になっていました。住宅街で道案内を買って出てくれた現地のミャンマー人女性が案内役となって、無事、墓地へ到着。以前と比べると写真撮影禁止など厳しいものもなく、なんとも緩い訪問となり拍子抜けしました。

  


    この後は、メイミョー駅に立ち寄りながら、メイミョーにある日本人が経営するカフェに情報収集を兼ねて伺うことにしました。そこに行けば、インパール作戦時の日本軍の司令部跡地がわかるんじゃないかと思い、ガイドさんとドライバーさんに探して頂きました。

 


    カフェの名前はHIROMIという名前で、カフェの前に行くと、営業が終わった後のようでした。カフェの中には小さな女の子と日本人男性がおられました。声をかけてみると、大阪の土佐堀出身の方で、娘さんは6歳。その娘さんの名前がHIROMIということでした。ここで、コーヒーを頂きたかったのですが、店を閉めた後でしたのでコーヒーを頂くことが出来ませんでした。しかし、日本人男性にメイミョーにある旧日本軍司令部跡の位置を教えて頂き、その場所へ伺うことにしました。

  


    まだ日も明るく、HIROMIカフェから近くだったこともあり、軍司令部跡に立ち寄ってみることになりました。ここでガイドさんに建物の撮影許可をもらい、周囲を散策してみることにしました。すると、現地に詳しい方が、司令部跡の地下に部屋もあり、以前、近くの病院まで地下道まで繋がっていたことを教えてくれました。その病院は、今は学校として使われているとのことで、訪問してみることに。学校の門の手前で車を止めて、学校責任者に敷地内に入れさせてもらいましたが、何も感じることが出来ず、外に出て、予定していたホテルに移動・チェックインしました。

 


    その晩、外食をするが、なんだか反省する時間となってしまった。英霊の依頼とは違う動きから出る違和感に戸惑っていたのかもしれません。 


 20:『君が来ることを望んでいたよ』

 


    昨日の夕方、カフェHIROMIで司令部跡の場所ともう一つ戦傷病院跡の話を聞いていました。メイミョーはここを最後にマンダレーに移動しましょうということになり、朝から戦傷病院があったであろう場所を探索し始めました。車を走らせながら、探してみるがそれらしき敷地が無い。確かカフェHIROMI経営者の日本人男性はもう建物が無いからわからないかもしれないと言っていました。かなり難しい探索を覚悟していたので、正直、半分諦めていました。が、ここでミャンマー人ガイドさんが、別人のように探索に尽力を尽くし始めました。私がもういいと思っているのに、教会スタッフに聞いて下さったり、戦傷病院があったと思われる場所付近の現地の人間に話を聞いて下さったりして、最終的に戦傷病院だった建物を見つけ出してしまったのである。建物は、今、教会として使われており、敷地はかなり広かった。建物が立っていないただの空き地の部分も広く、どこから入っていいのかわからず右往左往しました。徒歩で中に入る方法を見つけ、中の関係者に残っていた建物の中の散策許可を頂くことにしました。空き地内の道路のような道を進みながら、建物に近づくと、一人の兵隊が声をかけてきました。『よく来てくれた。君が来ることを望んでいたよ』その思念の元は目の前にある建物2階のある部屋からでした。『ここに来た甲斐があった』と思える瞬間でした。が、その部屋を通り過ぎ、この教会の関係者を探す為に思念の発生源である建物を通り過ぎました。奥に行くと、人がいて、神父さんを呼んで来て下さいました。どうもこの敷地の管理者は神父様のようで、現在は、教会に関連した施設として使用しているようでした。彼は笑顔で快く建物探索を承諾して下さいました。教会のスタッフが部屋案内をして下さり、建物を案内してくれました。私は気になる思念の元がいるであろう部屋へ移動し始めました。教会スタッフに許可を頂きながら、2階にある奥の大部屋の前に移動しました。部屋に鍵がかかっていたが、窓を覗くと、声の主の場所がすぐにわかりました。あそこが思念の元か。『あそこで死んだのかな』経緯・真実はわからないが、この部屋に呼び寄せた兵隊の気配がそこにありました。教会スタッフに鍵を開けれないかを聞くと、部屋の鍵を持った別のスタッフも現れました。この部屋は、幽霊が出るとのこと。教会スタッフも一人では行かない部屋だったようでした。私は部屋に入り、日本の兵隊の思念が残る場所に近づき、足を止めました。『帰りましょうか』声をかけ、彼を受け入れました。彼の満足感が私の中で込み上げてきました。何気ない思念とのやりとり。彼は私が来るのを知っていたようでした。私とこの兵隊の中では阿吽の呼吸のように、言葉は無くても、合流を果たすことが出来ました。ただただ、清々しい気持ちで、今までの苦念が嘘のように彼の魂から消えていくのがわかりました。ここに来た甲斐は十分にあったと、今回の提案をして下さったF氏の英断にも感謝致しました。

 


     最後はメイミョーのパゴダでこちらの土地神様に感謝を述べることにしました。違和感を感じていた自分自身の今回の行動は無駄では無かったと思うことが出来て少し自信を取り戻しました。

 メイミョーを後にして、マンダレーに再び移動を開始しました。

  


 21:マンダレーに到着

 


    メイミョーからマンダレーまでは下り道。90分くらいでマンダレー市外に到着しました。時刻は14:15であったとF氏の記録簿に残っていました。

  


    この後、次のホテルに到着した我々は、再び15:30にホテルを出発し、市場で献花を購入した後、ミャンマー人ガイドさんのご自宅へ伺うことになりました。1階は美容室で顧客を女性のみに絞ったお店ということでしたが、日本を発つ前に忙しく散髪出来なかった私の頭を女性スタッフに切ってもらうことになり、たいへんすっきりしました。妻は洗髪とマッサージを受け、なんとも気持ち良さそうに見えました。なかなかミャンマーで散髪をしてもらう機会も珍しいので、とても良い経験になりました。

  


    この後は、マンダレーヒルへ移動することとなりました。ここに慰霊碑があることは以前から知っていましたが、前回は疲労困憊でしたので横を通り過ぎるのみでした。ですので、今回は時間もありましたので伺うことにしました。

  


    マンダレーヒルの途中まで車で登り、その後は、徒歩で階段を登りました。道中、鉄骨の柱には戦争当時の銃痕があちこちにあり、目に留まりました。戦争当時の状況はわかりかねますが、マンダレーヒルに陣地を敷いて、敵の様子を見張っていたのもしれません。 


 22:不穏な影

 


    慰霊碑で手を合わせた時、私は、日本の兵隊の気配に気が付きました。そして、彼らに提案をしてみました。『もし良ければ、一緒に日本へ帰りませんか?』しかしながら、彼らは、警戒心がまだあるようで、私の提案に対し、耳を傾けていないように思いました。私は、霊能者ではなく、見えない世界に不慣れな人間でしたので、どうしたら良いかわかりませんでした。しかしながら、彼らは頑なにその場所付近に残ることを堅持しているかのように感じました。『どうしたらいいものか?』私は最後の手段として、彼らに、私が今までしてきたことに目を向けて欲しいと心の中で念じました。すると、気が変わったようで、日本への帰国を選択したように感じました。私の力の無さは、過去の行動で補ってくれ、自身で残ることから帰ることに決断をして下さったのかもしれません。ギリギリの駆け引きをしているようで、疲れましたが、最後に行ったマンダレーヒルの景色が、私の心を癒してくれました。

  


    この後は、ガイドさんの奥様、お子様を交えて、一緒に食事をしました。ガイドさんの祖父は通訳としても、慰霊の旅に参加していました。そして今、我々と共に英霊の依頼活動に参加しています。皆さんと食事をしながら、いつまでも良いチームワークを続けられれば良いなと思いました。 


 23:おもてなし

 


    この日の午前中は、ガイドさんのご実家に招待され、特製の麺を頂くことになりました。意外に日本人の味覚に合うスープでしたので美味しく頂くことができました。

  


    ご実家で一番驚かされたのは、ガイドさんの祖父の日本語を勉強されたノート。まるでお手製の教科書のようで圧倒されました。また、字が素晴らしく綺麗で、相当の勤勉家であることがノートを通して知ることが出来ました。祖父とはお会いできませんでしたが、その人柄にすごく惹かれました。そんな祖父を持つガイドさんが、留学経験が無いにも関わらず、日本語が堪能なのも理解できました。ミャンマー国内の勉学だけでこれだけ話せるというのは、本当に素晴らしいことだと改めて思いました。そんな素晴らしい一流のガイドさんが、今の我々のガイドさんであるというのが嬉しい限りです。
 


 24:アマラプラの日本兵と合流
 


     ここミャンマー中央部マンダレーでの最終日。依頼無き、英霊の依頼活動の場所として、本日1つ目をアマラプラに行くことにしました。3回目の依頼場所として訪れたことがあるアマラプラで、日本の兵隊方が追いかけてきて合流を果たした出来事が思い出され、気になり、当時、まだミャンマーでの活動に不慣れでしたので、もう一度、その場所の周囲を確認したくなりました。


     さっそく、車で移動を開始。アマラプラにある大きな寺院にあっという間に到着し、車を境内の駐車場に止めました。実は、お寺周辺で急に片頭痛がひどくなり、私は口にしていなかったのですが、妻が同じ症状を訴え始め、私も同じ状態であることを述べました。『何かある』と思った私は、その片頭痛を起す原因を探し出すことにしました。 


     『誰かの仕業だな』内心はまだ兵隊が残っているような感覚を持ちました。


     車でお寺の周囲を走ってもらうが、それらしき兵隊の姿はおろか、はっきりとした思念が伝わってこなかった。ただただ片頭痛がひどいだけ。私は車を止めてもらい、ガイドさんと共に路地裏を歩き始めました。後ろからF氏や妻が付いて来てくれていました。車を止めた場所から離れれば離れるほど、その片頭痛は弱くなり、何か間違っているように感じました。寺から少し離れた織物工場方面も調べたが、全く兵隊の気配すら感じなくなりました。私から、気配に注意を払うようにし始めました。『どこにいる?もし、声をかけてくれなければ、わからないのでこのまま日本に帰ることになってしまう。頼むから、わかるように声をかけてくれ。これが最後になる』と最後のお声がけを念じました。しかしながら、一向に返事が返ってこない。車に乗り込んだ私は、ガイドさんに『最後にもう一度、お寺の前に行ってもらっていいですか?』とお願いをしました。彼は快く、お寺の前に車で移動するようにドライバーに指示して下さいました。その時、F氏は携帯の電源まで切って下さり、私の捜索に弊害が出ないように気を配って下さっていました。お寺の前に戻るが、片頭痛が酷くなるが、日本の兵隊の姿が見えない。『何かがおかしい』そこから、また車でぐるりと回って下さり、『ここがそうかな。でも、違う気もするな』と独り言を言っていると、ドライバーが突然、その前で車が止めました。私は車から降りると、一直線にある場所へ向かった。『仰向けに倒れていて、声が出せない兵隊さんがこっちにいる』15mほど歩いたであろうか。先ほど、ガイドさんと歩いた道から4-5m反れた場所で日本の兵隊がいました。『やった!見つけた!』なんとか、1名の日本の兵隊と合流することが出来ました。すぐ近くを歩く我々に、声のかけ方がわからず、強い思念を向けていたようでした。それが原因で妻と私は片頭痛を引き起こされていたようでした。恐らく、その日本の兵隊は、戦時中、声も出ないくらい体力・意識が消耗し、立てず動けず、その場所で死んでいったのだろうと思いました。そして、自分が死んだとは、まだ思っていないようでした。だからこそ、今回の片頭痛でしか、彼の存在を我々に伝えることが出来なかったのだと思います。それと、『これが最後になる』と言った私の言葉にも彼は焦りと共に反応したと思います。声のかけ方がわからなくても、置いていかれると思ったら、自然と私に彼の場所を伝えることが出来たのだとも思いました。とにかく、ここでもほっと胸を撫でおろしました。

 


    この後、日本の兵隊が倒れていたすぐ近くのお寺に手を合わせに伺いました。『ありがとうございます。共に日本へ帰らせて頂きます』とこちらの土地神様にもご挨拶させて頂きました。 


 25:サガインヒルの慰霊碑にて 『俺らはそこにはいないよ』

 


    最後にサガインヒルにある日本軍慰霊碑に訪問することになりました。ここは以前、来た時には立ち寄っていない場所。山の峰に沿って道路があり、その中に慰霊碑がありました。横並びに立つ慰霊碑に丁寧に手を合わせ、帰るだけのつもりでした。墓碑の周囲には柵とゲートがあり、施錠を現地スタッフに外して頂きました。そして、F氏が手を合わせていると、『そこには、俺らはいないよ。早く帰ろう』と声をかけてきました。私は苦笑しました。そして、感じたものはマンダレーヒルで出会った日本の兵隊の気配と同じように感じました。『ひょっとしたら、彼らかもしれない?』と思いながら、F氏に『彼らが慰霊碑にいるわけではないので、早く帰国したい旨を伝えてきています』と話しましたが、私も手を合わすことにしました。これが物質社会に生きる人間の性というか・・・。しかし、何故、日本の兵隊方が、こんなに軽いタッチで話されてきたのかと逆にそれが気になりました。イメージ的には、死んでいてもまだ元気という感じでした。そして、我々の視界にあった墓碑の兵団名は鯨兵団でした。

  


    その後も他の慰霊碑も手を合せて歩きました。中には医療に携わった女性看護婦の名前も刻まれていました。『こんな遠い場所まで日本女性も救護班として来られていたのか。当時のことを考えると、相当苦労したはず。通常では考えられないご苦労をされたんだろうな』としみじみと思いました。よくよく考えてみると、ミャンマーでT旅行社を経営するF氏は神奈川県にミャンマーから帰国出来た日本人看護婦さんと連絡が取れ、文通をしていたと聞いていました。その女性はカロウに看護婦として進駐していたらしい。文通を交わす中、相手の女性がご高齢ということもあり、文通できなくなり、そのご子息と文通のやり取りを始めましたが、最後は縁遠くなってしまったとか。そういうご帰国が出来た女性もいたんだということを思い出しました。 


 26:マンダレー空港にて若い日本人女性が2人

 


    全てを終え、マンダレー空港へ移動。今回の大幅なプラン変更に誰もが納得をしていました。出来る全てのことはやったと私も自負している。もちろん、実力不足の部分はあったので、他の霊能者と呼ばれる人たちならもっと良い結果をさらに追求できたかもしれません。この時点では少なくとも、霊能者ではない私の出来ることは出し切ったのでないかと思います。

 


    マンダレー空港に到着し、ここで、ミャンマー人ガイドさんとお別れ、英霊の依頼活動メンバーとしばしのお別れとなりました。彼がいなければ、この旅は成立しない。本当に彼の働きに感謝していますし、時折、話す彼のギャグに和ませて頂きました。可能であれば、また、共に活動したいと願うばかりでした。

 


     空港内のヤンゴン行きのゲートに行くと、昨日、マンダレーヒルであった日本人女子学生がおられました。なんでも岩手県出身で、一人ミャンマーへ来たという・・・。私は、何故またミャンマーに来たのかが知りたかった。すると、彼女は子供の頃、親の仕事の関係でミャンマーに住んでいたことがあったようでした。その時にミャンマーに対し、すごく良い印象を持っていたということで、今回の旅に繋がったようでした。さらにもう一人別の若い日本人女性とも会いました。F氏と話をしているのを聞いてみると、ボランティアで、ミャンマーで看護師をしているようでした。お金をこちらから払って参加しているとか。彼女の精神力と信念に驚かされました。

 


     この後、北海道のF氏に聞いたのですが、岩手県出身の女子学生から聞いた言葉が気になりました。『年寄のミャンマー人は(当時の)日本の兵隊の事を嫌っています』私は『そうだよな』と思いました。本には綺麗ごとが多く書かれているが、実際は略取されることも多かっただろうし、強姦なども多発していたに違いないと思いました。帰国してから読む機会があった本には以下のようなことが書かれていました。ビルマ女性と肉体関係を持つことを推奨。親しい関係や現地妻を持つことによって、戦時中、日本軍に有利な情報が入りやすい状況にする為ということでした。綺麗ごとだけでは済まされない行動はむしろ多々あったのではないかと思いました。そう思うと、私の英霊の依頼活動に対する思いも僅かながらぶれてきそうで、この活動における信念が揺らぎそうで怖かった。 


 27:追いついた高兵団?

 


    我々が乗った飛行機がマンダレー空港を飛び立ちました。しばらくすると、戦闘機の気配?がしました。『んっ?』すると、誰かが声をかけてきた。『追いつきます!』私は驚きました。この気配というか思念は、日本を発つ前に飛行神社に集まった飛行機乗りの兵隊。『どこにいたんだよ?』と驚きながらも、私も自身の所在を彼に知らせるために、意識を彼に向けました。『こっちだ!早く来い!』私はこの状況を妻に伝えるが、ぜんぜん意味がわからないようでした。無理も無かった。北海道のF氏も前の座席に座っていてお伝えすることが出来ないというか、そんな余裕がありませんでした。『こっちだ!こっちだ!』と意識を向けました。徐々に我々の乗っている飛行機に追いついてくる。『よし!来たぁ!』立ち上がり、大声をあげたかったが、我慢。『よし、合流完了。ここで来るか!』と笑いが止まらなかった。一人機内で涙をボロボロとこぼしていました。忘れかけていた高兵団の飛行機乗り。まさか、まだ英霊の依頼活動が終わっていなかったとは…。想像を超える今回の旅に、驚きでへとへとに疲れました。『こんなの誰が信じるねん・・・。あほか・・・』そして、意識の体力を失った私は、そのまま機内で休ませてもらい、目を閉じました。 この旅で初めて、自分に『ご苦労さま。さすがに気を抜いて、寝てもいいやろ』と許可を出すことが出来ました。しかしながら、目を閉じても、自然と笑みがこぼれてきました。気が付けば、飛行機はヤンゴン空港に到着していました。

 今回の高兵団については、調べると面白いことがわかりました。実は、カロウにて英霊の依頼活動を始め、合流を果たした日、つまり3月1日にシャン高原カロウに前進したと書かれていました。『高兵団と同じ日に一緒にカロウ入り?』なんて思いましたが、この後、シュウェポへ北上移動していた。シュウエポとはマンダレーよりも西北の位置にある街の名前でした。そして、昭和19年だが、3月6日にこの高兵団第五飛行師団はカロウに戻ってきたと記録がありました。この日は私がちょうど日本へ帰国する日でした。まるで、カロウへの行先が日本に変更され、戻ってきたのではないかと考えさせられる出来事でした。72年後、平成28年3月6日に日本へ帰国。偶然だろうけど、なんとも言えない気持ちにさせられました。

 


    マンダレー空港から飛び立ち、我々の飛行機に『追いつきます!』と何度も思念が飛び込んできて、『どこから?』と思いましたが、『ひょっとしたら、シュウエポ??』とその記録を、帰国後、ウェブサイトで見つけた時は思いました。 

参考ブログ



 28:ヤンゴンで食事会 


     ヤンゴン空港へ着き、タクシーを拾い、宿泊予定のホテルへ移動しました。この日はJ会社のN社長とT旅行社のF氏と我々3名(北海道のF氏と我々夫婦)とご報告を兼ねて会食を持つことになりました。飛行機の遅延によって、約束の20時を越えていましたが、N社長とF社長が待っていて下さいました。ホテルにある中国レストランにて、5人が円卓を囲みました。そこで、拙いながらも、今回の英霊の依頼活動のご報告をさせて頂き、愉しいひと時を過ごさせて頂きました。なんだか一気に疲れも吹き飛んだようでした。 


     この時、N社長の話から、以下のような話もお伺い出来た。
 


・此処最近は戦争関係の取材が多く、タイメン鉄道の件/インパールの件他
・福岡とYangonが姉妹都市となり、福岡佐賀等の企業が多数来ている 

・今は亡くなった元兵隊さんから自分は色々と教えて頂いた知見が有る
・自分以上に慰霊の現場へ行っているミャンマー人ガイドが居る、50歳くらいと。 


以上、北海道F氏の備忘録より

  さ


    らにF氏は、サガインヒルで立ち寄った慰霊碑に刻まれた2つの兵団に興味を示していました。何かが彼の感覚に飛び込んできたような、そんな感じらしい。

 


鯨 兵団、 善通寺 兵団

 


    会食は楽しい雰囲気の中、終焉を迎えました。ホテルの部屋に戻り、次の日の朝の散歩の約束を北海道のF氏とし、床に就きました。
  


 29:帰国

 


    最終日の朝7時から北海道F氏とヤンゴン市内をルーティーンのように散歩しました。ヤンゴン市内の朝の空気は味わいながら、気持ちの良い最後の朝を迎えました。シュエダゴンパゴダとヤンゴンにある日本人墓地にも立ち寄ってから、国際空港へ向かいました。ヤンゴン国際空港では2手に分かれていて、妻とは別々の建物に入ることとなりました。F氏と最後の挨拶をし、チェックイン。空港内に無事入り、妻に渡されたお小遣いで、カフェに入り、アイスコーヒーを頂きました。

  


    無事、タイ航空に乗り、一路バンコクへ。そこでwifi電波を拾い、チェンマイに先に到着していた妻に連絡を取りました。その後は、日本で待つ息子へメッセージを送りました。

 


    3月6日の朝、日本に到着。北海道のF氏も同じ頃、成田空港へ到着していたようでした。すると、F氏は英霊の依頼8回目中国雲南省騰越でご同行頂いたK氏と空港で偶然お会いしたと連絡が入りました。最後の最後まで驚かせてくれる今回の旅。生きている内に出会う偶然をまとめて経験しているような感じがしました。

  


    自宅に無事、帰宅し、その日の夜は、息子と一緒に寝ました。いつもなら、妻がいないと、私と二人きりになることを避けていた息子だが、今晩は一緒に寝ても良いと。次の日は、妻も日本へ無事帰宅を果たしました。家族全員が揃い、日本の家でふと気が抜けました。 


 34:香川県善通寺 『まだ終わっていない』

 


    この後、マンダレーから近いサガインヒルで見た慰霊碑に刻まれていた部隊名のあった四国の善通寺へ伺うことにしました。善通寺は弘法大師空海さんが誕生された街でした。善通寺の駐車場に着くと、境内にミャンマーでお馴染みのパゴダの姿が見えました。私は写真でパゴダらしきものが香川県のどこかにあると知っていましたが、まさか善通寺の境内にあるとは思っていなかった。日本の兵隊の思念を感じながら、自然とあそこに行けばいいのかなと思いました。ビルマ戦没者慰霊碑と書かれていたように思います。その前に立ち、手を合わせました。『帰国完了。これで望郷への思いが叶い、あの世へ行くんじゃないかな』と。すると、『まだ終わっていない』と日本の兵隊の声が頭に中に伝わってきました。戸惑いながら、様々なことに意識を向け始めました。
   


    移動中、偶然、大きな神社の横を通った。すると、子供が立ち寄りたいと言い出した。疲れていた私は、「ん~、もうええやん・・・。」と思いましたが、子供の意見も尊重しようと思い、立ち寄ってみることにしました。本殿でご挨拶。英霊を祭っていました。手を合わせ、13:00に向けて急ぎたかった私の足を止める建物がありました。資料館?ただの物置小屋かなんかだろうと思いながら、近づいていくと、中が綺麗に内装された完全な資料館でした。中に入ると、戦時中のものがたくさん並べられていました。よく見ると、ビルマ戦線に参加していて兵隊さんのものもガラスのジョーケースに入っていました。説明を見ると、鯨兵団と書いてありました。北海道F氏の言葉を思い出した。次は『鯨兵団の可能性があるかもしれない』と、直感的に思いました。なんとなく、身体が強張るのがわかりました。


 31:桜咲く場所に戻る近畿圏の日本の兵隊方


     所用で朝、大阪の真田山陸軍墓地にさしかかろうとした時、日本へ帰還された一部の兵隊方から声がかかりました。突然の挨拶と御礼に息が止まりそうになりましたが、すぐに理解しました。歩いていた足を止めずにそのまま、普通に進む私。真田山陸軍墓地の桜が満開になっていました。桜を見ながらのお別れでした。『こんな別れ方もあるんだ』少し驚きながらも、嬉しくて仕方がなかった。何故なら、彼らの魂が見えない光を放っていたから。 


     真田山陸軍墓地は第一次世界大戦の命を落とした人たちの墓地だから、関係ないはずですが、何故かここで彼らが声を掛けてきてくれました。きっと何かあるんでしょう。とにかく、さようなら。

そして、滋賀県にも。ミャンマーで亡くなり、帰国されなかった方々の為に、所縁があるかどうかはわからないが、私の周囲を取り囲んだ兵隊方と出くわした高島市のお寺に行くことにしました。しかしながら、高島市へ行く道中、桜が満開していて琵琶湖を眺められる場所を偶然立ち寄ることになりました。『そうか。ここが一番だね』そう言って、私は納得しました。『桜と琵琶湖を見るなら、ここが一番良いね』琵琶湖バレイの駐車場より。 


     そして、最後は、北海道のF氏と共に京都智積院へ。お寺に着くと、ちょうど慰霊碑の後方にあるお寺の建物から朝のお経が聞こえてきました。そこで我々は今回の英霊の依頼活動の終わりを迎えました。今回の旅は、依頼無き英霊の依頼活動で、初体験尽くしで貴重な経験とまだ帰国出来ていない多くの兵隊の御霊の存在を知ることとなりました。これは、初めから予定通りだったのか、それともF氏が加わることによって生じたイレギュラー的な英霊の依頼活動だったのか、誰もわかりません。ですが、我々が依頼を受けた場所以外で、日本へ帰還出来ず、戦時中からずっと現在まで海外に残っている日本の兵隊の存在も強く感じていることも事実です。そして、四国で聞こえてきた『まだ終わっていない』という言葉。こんなにたいへんな旅を終えてきたばかりなのに、少々、体力的に恐怖を感じる言葉でした。とにあく、すぐに次の依頼があるということでしょうと気を引き締め直すようにしました。本音を言うと、『しばらく、休憩させてほしい』 


     では、終わっていない次の兵隊方からの帰還依頼を待ち構えて、現実世界で仕事に専念したいと思います。今回も最後まで、私の旅の記録を読んで頂き、ありがとうございました。

 


https://youtu.be/5-j4rCCMedY