福音にあずかる
4月2日
マルコによる福音書16章9-20節
主イエスが復活した。それを聞いた人々は信じられない。
マルコ福音書は「信じられない」を最後に扱う。
人が「信じられない」という判断をするのはどういう時か。
あまりに嬉しい時、とても悲しい時、「信じられない」の反応をする。
嬉しくても、悲しくても。両極端の感情でも「信じられない」は生れる。
ならば、「信じられない」は感情とは関係はない。
感情でなく経験・理性が「信じられない」を生み出している。
死者の復活、信じられない。
主イエスは信じるものに起こること、として「毒にも平気」「病も治す」と言う。
これも「信じられない」内容。
「毒」「病」「死」。
わたしたちはこれらに太刀打ちできないと思っている。
その思いは経験から、情報から、知性で、理性で、太刀打ちできないと判断する。
「負ける」との判断。わたしそのものがそれを言う。
ところが聖書は復活があり、毒にも犯されず、病も治ると語る。
乗り越えられると言う。
わたしが問われている。
わたしは経験で作られているものなのか。
人は経験で壁を設定する。
負けを、退却以外の道はないと思い込む。
そのわたしに対して「乗り越えられる」と語る。
どうして乗り越えられるのか。
わたしを聖書はどういう者だと考えているのか。
復活の主は信じられない者に現れた。
天に昇ってからも共にいると語る。
人がどういう者であっても一緒にいる。
主イエスはパンとぶどう酒を「わたしだ」と言って与えられた。
パン、ぶどう酒、食せばわたしの体、私自身となる。
一緒
体となり一緒にいる。
わたしは何者か。
キリストを食べた者。
キリストの命で出来ている。
経験が、理性がわたしを作っているのではない。
神がわたしを造っている。
ならば乗り越えられる。乗り越えられぬ壁などない。
そもそも神の世界は壁で造られてはいない。
壁なき世界。「信じられない」と人は言う。
だが信じられない世界を証ししていくのが信じる者の勤め。
その使命に今日もわたしたちはあずかっている。