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彼女と朝

2017.05.08 14:35

「寝たら明日が来ちゃうから、寝ないんだ」

彼女はそう言ってコーヒーを入れる。

「一生このまま時が止まっちゃえばいいのに。…なーんて。」

彼女はそう言ってソファに腰掛けた。彼女の目の前ではブラックコーヒーが湯気を立てる。ぼくはそれをただ、座って眺めるだけだ。

「答えなんて、いらないわよね。芸術に一つの答えがないように」ぼくは何も言わない。でも答えなんていらないとぼくも思った。

「南極では息が白くならないそうよ。不思議よね」

彼女は湯気を優しく吹き飛ばしてからコーヒーに口をつける。

「この湯気だって」彼女はコーヒーをこくんと一口飲み込んで続ける。

「舞ってる小さなチリが結晶化したモノなのよ」

へぇ、そこでぼくは初めて声を上げる。彼女は少し肩をびくりとさせて顔を上げる。怯えて見開かれた目の下にはクマがすっかり住みついていた。

ぼくは咳払いをして立ち上がる。彼女は空中の一点を見つめながら呟いた。

「でも、答えが欲しいの。たった一つの答えが。その方が楽だわ」

肩をすくめてぼくは彼女の座るソファの後ろに立つ。彼女は続けた。

「感情なんてものがあるから、苦しいのよ。こんなものに振り回されて、ほんと、嫌になっちゃう」

ぼくはソファの背中側にもたれて膝を抱えて座った。彼女のため息が溶けすぎた部屋には、まだぼくのいた頃の名残が確かにあった。歯ブラシ、コップ、箸。タオルにTシャツ。ぼくの生きた痕だ。でもそんなもの、もう捨ててくれて構わないんだ。本当に。


ぼくのことなんて忘れてくれたっていいのに。


「忘れられるわけないじゃない」


君は笑った顔が一番なんだけど。


「笑えるわけないじゃない」


うまくいかないね。


「…なんで、なの」


いつ死ぬかわかんないもんだね。


「…ほんと」


生まれ変わったら会えるかな。それとも化けてでようかな。


「…ばか」


朝陽が溶けだし、気づけば夜は姿を変える。

コーヒーはしんと冷めきっていて、空気中のチリなんて、もう見せてはくれなかった。