溝口健二 監督『残菊物語』
まるで『椿姫』と
双子のような映画だ
330時限目◎映画
堀間ロクなな
溝口健二監督の名作『残菊物語』(1939年)は、オペラ『椿姫』とまるで双子のような映画だ。原作は、村松梢風が明治の歌舞伎役者、二代目尾上菊之助をモデルとして1937年に発表した小説で、これがただちに新派劇に脚色されて舞台にのり、そして2年後にはスクリーンをとおしてより広汎な大衆の涙をしぼったというトントン拍子の展開は、オペラと映画の違いこそあれ『椿姫』の場合とそっくりだ。ちなみに、おのれの女性遍歴を糧とした原作者デュマ・フィスや作曲家ヴェルディに対して、撮影時41歳で女性映画の第一人者といわれた溝口監督も決して引けを取らない。若いころ愛人に斬りつけられた刀傷が背中にあって、風呂場で「これでなきゃ女は描けませんよ」と豪語したという。
そんな溝口監督にとって、19世紀のパリと東京・大阪を舞台にしたふたつのメロドラマは自然と重なっただろう。いや、かれだけではない。『椿姫』は日本でもいわゆる「浅草オペラ」で大人気を博し、そのかなわぬ悲恋のストーリーはだれにも親しいものだったから、観衆の多くもまた、『残菊物語』の内容を当たり前のように日本版『椿姫』と受け止めたに違いない。
こうしたあらすじだ。明治の歌舞伎界のプリンス、尾上菊之助(花柳章太郎)は大名跡の菊五郎の養子というだけで周囲からちやほやされていたが、いまだに大根役者の域を出ないことを本人も察していた。ただひとり、尾上家に子守りで雇われていた塗師屋の娘、お徳(森赫子)だけが率直に芸の至らなさを指摘してくれたことで、菊之助は愛情を寄せるようになったが、もとよりかくも家柄の違うふたりの仲が許されるはずもなく、激怒した義父から勘当されてしまう。いっそ自力で名をあげようと菊之助は関西に移り、お徳に励まされながら舞台に立つものの思うにまかせず、次第に落ちぶれてドサまわりの役者生活が5年を重ねたころ、いつしか人情の機微を知り尽くした菊五郎はふたたび大舞台に立つ日を迎える。その成功により歌舞伎界への復帰が実現して、義父もついにふたりの仲を認めたとき、貧窮のなかで結核を患ったお徳は死の床にあった――。
一目瞭然だろう。生まれ育ちのいいお坊ちゃんと、世間の底辺にあって辛酸を舐めてきた娘が出会い、男のほうの一途なアタックに女もためらいながら応じるものの、その親の断固たる反対に遭って引き裂かれ、ふたりが苦難の道行きをさまよったのち、ようやく結ばれる運びになったときにはすでに遅く、病に冒された女は力尽きて息を引き取る……という、話の組み立ては『椿姫』と『残菊物語』に共通するものだ。
そのうえで、ふたつの作品は最終場面でまったく異なるクライマックスをつくりあげている。すなわち、ヴィオレッタはジェルモンとアルフレードの父子とのあいだに和解が成り立ったあとに、もはや生きられない運命へ呪詛の言葉を吐きながら絶命する。それに対して、お徳は正反対の反応を示す。かつて苦汁を味わった大阪の舞台に錦を飾った菊之助は、披露目の船乗り込みの席を外して、ひっそりと病床に臥せっている彼女のもとへ駆けつけ、義父から結婚の許しが出たことを伝える。すると、咳き込みつつこう答えるのだ。
「さあ、行ってください。私はここであなたの船乗り込みの姿をまぶたに浮かべています。私は晴れて許された女房なんでしょう、だれに気兼ねもない女房なんでしょう。それなら女房の言葉を素直に聞いてくださってもいいでしょう」
ラストシーンでは、冷たいせんべい布団の上で目を閉ざすお徳と、華やかな屋形船の舳先に立って道頓堀の群衆へ挨拶を送る菊之助の、それぞれが辿りついた境遇のきわだった落差がスクリーンに描かれる。一片の情け容赦もない、溝口監督の冷徹無比の演出ぶりには鳥肌が立つほどだ。
あくまで自己の存在理由を問おうとするヴィオレッタと、ようやく夫婦の縁で結ばれた男をただちに世間のもとへ押し返そうとするお徳。両者の態度の違いは、フランス革命が窓を開けた個人主義と、明治の文明開化に横たわる封建主義を反映したものか。それはそうかもしれない。しかし、とわたしは思う。果たして、お徳はたんに健気なだけの犠牲者なのだろうか。実のところ、わが身を捨てて夫を立てることで、逆に夫を完全な所有物としてわが手に掌握することを目論んだのではなかったか。まさしく大和撫子の面目躍如と言えよう。その意味では、双子の相手の『椿姫』よりも、『残菊物語』のほうが男にとってはいっそう恐ろしい女の底意を暴きだしているように映るのだが、どうだろうか。