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不破雷蔵への反論、報道機関・記者は主権者そのもの

2017.04.07 00:05

【社会考察】 平成二十九年四月六日にブロガ・不破雷蔵による記事「記者会見では質問者には必ず自分の所属と名前を語った上で質問させ、議事録にもそのやりとりを明記させよう」内の一部に対し、国民へ語弊を来たす虞れがある為、その一部に対し報道媒体として反論したい。


不破はブロガといえども、Yahoo!ニュースに上位表示される者なので、その影響力から早めに反論するもの。当該記事の主旨、記者会見における質問者の所属を先ず明確にする点については、賛同する。一部とは末尾の下部である。


 また今件のような指摘、提言に対し、「記者の質問は国民の質問であり総意である。記者は国民の代表だから何を語っても許されるし、個別の身元を明らかにする必要はない」との意見をいただく。しかしながら企業における記者会見ならいざ知らず、国務大臣や議員が対象の場合は、その人たち自身こそが国民の代表である。
 そして言うまでもないのだが、質問者となる記者については国民の代表であるとの法的裏付けは無ければ、選挙などで選ばれた者でもない。あくまでも自称しているだけに過ぎないのである




<主権者足る法源>

 具体的に指摘する。先ず記者の質問は国民の質問であり、総意ではない。様々な見地より質問等を行う為に報道各社が存在する。

次に何を語っても許されるのは、表現の自由の範囲内で刑法等に抵触するものであってはならない。


国務大臣や議員が対象の場合は、その人たち自身こそが国民の代表である。」との表現については、日本国憲法第十三条及び第四十三条にて明記している。第十三条では、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあり、国民の権利は立法・国政の上とある。第四十三条は「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と間接民主制を示している。


日本国憲法は、主権者である国民が国を制限する為の最高法規である。法律ではない。主権者足る法源は、前文「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」より。



国民と公務員の関係

 不破の大きな間違いは、次の「そして言うまでもないのだが、質問者となる記者については国民の代表であるとの法的裏付けは無ければ、選挙などで選ばれた者でもない。あくまでも自称しているだけに過ぎないのである」と結ぶ点。記者・報道機関は国民(=主権者)であるので、不破の言う“法的裏付け”は憲法前文と判例にある。判例は法源となる。司法府の大きな役割に違憲立法審査権があり、立法府と行政府の法令等が憲法に違背していないか、を審査する。


記者・報道機関は司法府の判例においても、その身分・地位(報道や取材の自由)は保証されているので法源となり、国民の活動そのものと成り得る。例えば、有名な判例として「博多駅テレビフィルム提出命令事件(最大決昭和四十四年十一月二十六日)」等で、幾ら自由と云えども取材自体に制約がある点も指摘している。翻って国会議員をはじめとする公務員の身分・地位は、第十五条二項「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と奉仕者に定められ、主権者に対し下位。




<見做すの重要性>

 選挙で選ぶ対象は公務員である。主権者ではない。そして憲法と判例から“自称”でもない。圧倒的な権力を国(立法府・行政府)に対してもつ司法府には、判決等で明示しない「見做す」がある。最高裁の判決は判例として法源となり、日本において最高裁判例を覆す事など、稀。判決で明示されない部分においては、権利・権限の保有を司法府より許容される。それが「見做す」だ。


記者・報道機関が国民の代表で無いとの判例は無く、国民の表現の自由(第二十一条)を中心に知る権利等を含め、判例として法的裏付け(法源)となる。詰まり、現段階では司法府はもとより、立法府や行政府においても記者クラブ加盟やフリー記者の参加の許諾において、国民の代表と三権は「見做し」ている。報道機関が第四権である点も同じに「見做す」だ。また主権者・国民は直接民主制において、リコールや国民投票の権利も有している。



論理矛盾

 そして不破自身が論理矛盾を来たしている。不破は当該記事にて、質問者の所属明示を唱える。質問者、つまり記者らが国民の代表でなくば、一国民の質問者となるので所属が無くなる。不破が報道機関の立場的否定をしている為だ。一国民ならば記者会見で自ら名乗る必然性も乏しい。不破は質問の責任主体を求めているにも関わらず、その質問の帰責先が持論により曖昧模糊となってしまう。報道機関が国民を表する立場でなければ、何の為に議事録への質問者明記を求めるであろうか。


報道機関の主となる仕事は、難解な法をできるだけ分かり易く国民に伝える事。所属が曖昧な記者を国民の代表である国会議員・大臣(公務員特別職)に近づける事は、生命的危険性から鑑みて芳しくない。よって立法府や行政府は記者クラブ等を用い、記者の責任主体を明確にしている。安全性を重視している。三権の記者会見において、国民を代表しない者を参加させるだろうか。それは合理性に欠く。故に記者・報道機関を国民を代表する者と「見做す」。


不破は投資家である為、法学の知識については確認できない。不破の論では国民主権ではなく、結果的に公務員主権と成り得る点も指摘したい。何故ならば、名実共に主権者・国民が三権を監視できなくなるからだ。国民の代表者では無い一般国民は記者会見に参加できず(事実上の不開催)、公示・告示・官報を以って国は国民に情報を開示した、とされてしまうだろう。戦時下よりも酷い状況を招く。報道の自由は先達の国民達が国家権力に対し、命を懸け、人生を賭し、漸く獲得したものである。


当該記事の頒布を恐れと見做し、以上に反論とする。


記事:羽田野正法