詩人と遊び心(たぶん2014頃雑誌に載せた意味不明原稿出てきた)
「遊び」を辞書でひくと、①遊ぶこと、②酒色やばくちにふけること、③機械の連動して運動する部分に設ける、運動をゆるやかに起こさせるための余裕、と出ている。(新明解国語辞典第五版より)
③詩人の遊び心という場合、私は③の意味を連想した。詩人というものは、常に核を意識している。詩人の心の構造はどうなっているのか…綿菓子を思い出していただきたい。軸となっている、わりばし。アレが、「詩人で在りつづけよう」という意思として、詩人の心を貫いている。それ以外のふわふわは、それ以外の心の部分である。ふわふわはどうにでも変化する。溶けたり、ぺしゃんこになったり、食われたり、燃えたり…外界からの刺激により変化する。
詩人はまさにこの変化を楽しみ、観察しなければならない。そして、もう一つの外界である「詩」に還元する。
つまり、詩人は核である「意思」と外界(詩を含む)との間に、「変化する心」という遊びをたっぷりもたせた心をもち、それを外側から眺める作業を常にしているのだ。
①しかし①の意味の、積極的に遊ぶことに関しては滅法よわい。日々脳内その他で行われる作業が多すぎて、体力が残っていない。日常をなんとかこなすのが精一杯である。にもかかわらず周りからは遊んでいると見られることが多い。詩人にとって必須の作業が、他の人から見ると遊びに見えるらしい。
②基本的に真面目な性格の持ち主である隠れアスリートの詩人は、じつにしばしば疲れ果ててしまう。意思と外界の間で風にさらされている遊び心は、予測不可能に変化し、意思をおびやかす。
そんなとき詩人は、そんな状態をもじっと観察しつづける。しかしある瞬間、意思が直接外界に抜き取られてしまうことがある。そのとき遊び心は消え失せ、わりばしの意思は外界(詩を含む)に、つきささっていくのだ。酒色ばくちとともに。これは何年もつづくこともあれば、そのまま終わらないこともある。痛みとともに、詩人でいるしかないと観念したとき、外界(詩を含む)が遊び心に変質する。
持ったが病。病あっての人生。