「おじいちゃん」ジョン・バーニンガム
バーニンガムはとても好きな作家です。でも出会ったのは大人になってからで、子供の頃にも読んだことがあったかもしれませんが、記憶には残っていません。
バーニンガムがすごいなと思うところは絵とお話の掛け算でしょうか。絵単品、お話単品で眺めると、一見そんなにすごいとは思わない気もするのですが、一冊の絵本で読むとそのふたつは絡み合って、何十倍もの効果を上げ素晴らしい作品になっていると感じます。
この「おじいちゃん」ですが、その構成は孫娘と祖父の会話だけでほぼ成り立っている絵本です。
左ページに会話が、だいたい孫娘と祖父が一言ずつと、色のない絵が下部に。右ページには色の付いた絵が全体という構成です。
文章はとても少なくて、ですのでその分二人の会話は隙間の多い会話なのですけれど、ここにバーニンガムの巧みさを感じるのです。
例えば冒頭のこの会話
左ページに
「これがみんなそだったら、ここにははいりきらんなあ」
「むしもてんごくにいくの?」
右ページには温室らしきところで二人が幾つかの苗木を並べたりしている絵です。
この会話が決して普通の大人の会話のように受け答えのはっきりとした会話でなく、とても距離のある会話だと感じると思います。読み手はこの会話を読むと、この距離の間に時間を感じ、この二人はこの温室で小一時間ほど過ごしていて、そこでたくさん会話がなされたその上で、たった二言だけを抽出していると無意識に感じとるのではないでしょうか。
例えばこの会話は自然に考えるなら
祖父「これがみんなそだったら、ここにははいりきらんなあ」
孫娘「でもお花でいっぱいになったら、たのしいよ」
祖父「そうだなあ。お、そこの鉢植え取ってくれ」
孫娘「はい。おじいちゃん」
祖父「ああ。ありがとう。こうやって、芽のそばに、棒を立てて、絡ませてあげないと、空に向かって伸びないぞ」
孫娘「たすけてあげるのね」
祖父「そう。手助けしてあげるんだ」
孫娘「あ、すっごく小さな、虫がいる。葉っぱに付いているよ」
祖父「とって、つぶしたほうがいいな」
孫娘「殺しちゃうの?」
祖父「葉っぱを食べられたら、花が咲く前に枯れてしまうかもしれない」
孫娘(虫をつまんで)「むしもてんごくにいくの?」
一般的なフィクションとして自然な流れをとるならばこのような会話なのではないでしょうか?しかしバーニンガムはその間のあったであろう会話を消して、空白の距離を創り出しています。
「これがみんなそだったら、ここにははいりきらんなあ」
「むしもてんごくに いくの?」
この空白に読み手は時間を感じ、二人の関係性や、なされた会話をあれこれ無意識に意識するのだと思います。
そしてこの「距離」はそのまま祖父と孫娘二人の時間(年齢)の距離でもあると感じられます。また、この「てんごくにいくの?」という台詞はこのお話のラストシーンへの伏線となっている点も見過ごせません。
また、例えばこの会話、といっても祖父の一言だけのページなのですが。
左ページに「ぬいぐるみのくまが おんなのこだなんて しらんかったよ」とだけ
右ページには、看護婦の格好をして赤ん坊の人形を抱く孫娘と、ソファで座る祖父が熊のぬいぐるみと三つ編みの女の子の人形を両手に抱いています。そして辺りの床には人形用のベビーカーやおもちゃの聴診器、動物のぬいぐるみなどが散乱しています。
このページで読み手が自然と感じるのは、おままごとのような遊びが祖父と孫娘の間でなされていて、二人で色々な役回りを演じ、そのときに熊のぬいぐるみに向かってきっと祖父が、その熊が男の子であるかのように話しかけたりしたのでしょう。そこで孫娘が「このくまさんはおんなのこだよ」と教えてあげたのではないでしょうか。その時の祖父の台詞が、などと思い浮かべます。
ここでもこの切り取られたたった一言が、奥行きを持って二人の物語を読み手に無言で伝えています。
ちなみに左ページの祖父の台詞の下部には色のない絵で、熊のぬいぐるみが姿見の前でブラシを持ってお化粧をしています。
この色のない絵のパートはこの絵本でとても効果的に使われています。色のある絵は現実の絵であって、色のない絵は空想、想像、回想に属する絵として描かれているように見えます。
二人で釣りをする場面では、この色のない絵ではクジラを釣っていて(このページで孫娘がくじらがつれたらどうする?と聞いているのです)、また別の雪の場面では(ここでは祖父が少年の頃と思われるクリスマスの話をしています)、子供達がそり遊びをする絵が、色のない絵で描かれています。
バーニンガムのこの現実と空想の対比という手法は彼の他の絵本でも見られますが、そのどれもが素晴らしい効果を上げています。「シャーリー」の2冊などは特に素晴らしいと感じます。
この「おじいちゃん」ですが、最後は悲しい終わりかたをします。
具合が悪い日のおじいちゃんが描かれた2ページ後に、無言で誰もいないソファをみつめる孫娘の場面で、見開きページは最後を迎えるのです。
大人の読み手はここで、祖父の死をはっきりと感じます。死んだ、なんて一言も書かれていませんが。
ですのでこの絵本を読むとその終わりかたに、しみじみと寂しい、悲しい感触を覚えます。
ところで、この「おじいちゃん」について書いてみたいと思ったのは、たまたまこの「おじいちゃん」に関する読者レビューをあるサイトで見たからなんですね。そこで何人もの方が書いている、ある同じことに目が止まったんです。
それは
<この絵本を子供に読んであげると最後「おじいちゃんは、どこへ行ったの?」と聞かれました>
と何人もの方が書いているのです。
そしてその中のお子さんのひとりは「この絵本、かなしいからいやだ」と言ったそうです。
このことに私はとても興味を惹かれました。
「おじいちゃんは、どこへ行ったの?」と子供たちは訊ねるのですが、この絵本が悲しいことはわかっているのです。
それならばなぜ訊ねるのか?
おじいちゃんが「(大人の言う)死んだ」ことはわかるのです。
でも、おじいちゃんはどこに行ったのか?
そもそも「死」とは何であるか?大人の私たちはわかった振りをしていますが、何もわかっていません。わかった振りして問いをやめて、それを答えにしています。
でも子供はそうではない。
おじいちゃんはどこへ行ったの?
きっと子供の感情はここなんだと思います。
「問い」で感情が終わっているのだと思います。
大人は「おじいちゃんは死んでしまった」という「答え」で終えるのですが、子供は問いで終えるのではないでしょうか。
この誰も座っていないソファを見つめる孫娘のその表情は、悲しがっているようには描かれていません。勿論嬉しがっているわけでもなく、ただぼんやりと、不思議がっている表情で、ソファを見つめているのです。
「なぜ おじいちゃんはいないの?」とでも言っているようですが、わざわざそんなことを言ってしまうのは野暮でしょうね、バーニンガムは何も書いていませんから。子供がそう問うことを、バーニンガムは誰よりもわかっていたのでしょう。
この絵本を見返してみると、孫娘の台詞の十のうちの七つが「?」で終わる問いかけの台詞になっていることにも気付きます。
最後のソファのシーンでも孫娘は問いかけの表情を浮かべていますが、その問いは言葉にされないままで終わっています。
この問いに「おじいちゃんは死んだんだよ」などと答えても、何の意味もない気がします。子供はこの問いを抱えたまま、問い続けながら成長していくものなのではないでしょうか。
そしてその、問いのままで問い続ける姿勢というのは、すぐに答えを見つけてしまう(成長を止めてしまう)大人たちにとっては目を見開かされる思いがします。
ちなみに、先ほどの孫娘の七つの問いのうちで祖父が答えているのはたった一つだけです。しかもそのひとつの答えでさえ、疑問に対してではなく、許可としての問いに対する答えなのです。
ソファを無言で見つめる場面の次の、1ページだけの最後の場面は、遠景で、孫娘がベビーカーを(大きさからして人形用のではありません)押して丘を駆けています。
きっと新しい兄弟が出来たのでしょうけれど、バーニンガムは何も語らず、そしてまた孫娘は(もう娘でしょうか)新たな問いを、その新しい命に対する「問い」を胸の内に秘めているのでしょう。
「あなたはどこから来たの?」
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