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マニラからマカティへ 1970年〜

2017.04.09 07:49

一流企業や有名ブランドが店舗を連ね、最も近代的な高層ビル、超高級マンションが建ち並ぶマカティ市。

今やフィリピン一多額の税金を預かり、フィリピン商業・金融・経済活動の中心地ともいえる近代都市となった。

1971年当時のマカティは、車による公害も無く、空気が澄み渡り、真っ青な空がどこまでも広がる、住宅地を中心とした閑静な佇まいだった。まだ手つかずの草地や空き地があちこちに多く見られ、どちらかというと閑散とした感さえした。

1970年、フィリピン商業・経済の中心地はマニラで、日系企業の事務所なども、殆どマニラに集中していたため、それまでの日本人駐在員は、主にマラテ辺りのアパートやコンパウンドに住んでいた。

マビニ通りには高級ブティックやレストランなどが並び、まさにフィリピンの銀座通りを思わせたものだった。

一本裏のデル・ピラール通りには多国籍のレストランやナイトクラブ、バーなどが建ち並び、外国人観光客や現地駐在員などで毎夜賑わっていた。

アヤラ財閥によるマカティの開発が進められ、企業の事務所もマカティの新しいビルに移転し始め、すべての中心地がマニラからマカティへと徐々に移り始めていたが、当時のマカティが今日のように大きく変化し、近代的な成長と発展を遂げた大都市となることは誰も想像できなかった。 (1960年のMkati)

マカティ市は、マニラの南東の丘陵地帯に広がる新興都市で、中心部は地盤の硬い岩盤で形成されており、1970年のマニラ大地震の際にもマカティの被害は最小限のものですんだ。

スペイン統治時代の16世紀、スペイン系の人々が住んでいた強固な石塀に囲まれた要塞都市「イントラムロス」の石の城壁建設には、マカティのグアダルペの石切り場から切り出された石が使われたといわれていて、今も石壁や石畳にその跡が残されている。

約3000㌶弱といわれるマカティの土地は、19世紀にアヤラ財閥によって買収され、開発は主に戦後になってから進められた。1947年頃までは軍関係の空港があり、滑走路が三角方向に伸びていたのが現在のアヤラ通り(Ayala Ave.)、マカティ通り(Makati Ave.)、パセオ・デ・ロハス通り(Paseo de Roxas)である。そしてマカティ通りの中心、ペニンスラ・ホテル向かいにある、現在歴史を感じさせる高級レストランとなった建物は、「ニルソン・タワー」といって、空港の管制塔があった建物である。以前はアヤラ系の図書館としても使われていた。古きアメリカ植民地時代のフィリピンを彷彿とさせていた管制タワーの跡は一部今もそのまま残されている。

空港跡のためか、ベル・エアー・ビレッジ(Bel-Air Village)、パセオ・デ・ロハス通り沿いの家の大家さんは、軍上がりのフィリピン航空の機長で、当時このメイン・ストリートの家のオーナーは、殆どが開発と同時に安く土地を買ったとみられる機長仲間だったようだ。

外国人駐在員やフィリピンの富裕階級の人々が住む住宅は、石の塀で囲まれたビレッジと呼ばれる住宅区で、入り口にはライフル銃を手にしたガードマンが立って見張っていた。今ではライフル銃こそ持たなくなったが、ビレッジ毎に車のステッカーやIDカードの携帯が義務づけられ、出入りする車や人のチェックをしている。

1970年代のマカティは発展途上で、ビレッジはできていても塀の中の住宅の建設はまだまだ進行中で、既にあったビレッジは南北のフォルベスパーク、ウルダネタ、サンロレンソ、ベルエア、サンミゲル、パーム、ダスマリニャス、マガリャネスなどで、後者2つはまだ新しく、空き地が目立っていた。

当地の超上流階級の人が住むフォルベスパーク、新設のダスマリニャスビレッジには、日本人では大使公邸ほか大手一流企業の支店長が住むくらいで、一般の駐在員は今のようなコンドミニアムはまだなかったため、サンロレンソ、ベルエア、マガリャネス、サンミゲル、パームなどのビレッジの一軒家かデュープレックス(長屋風住宅)に住んでいた。当初は大使館に登録している日本人の数が約600人といわれ、通貨は1ペソが90円の時代だった。

家賃は前者のビレッジで、月4,000~6,000ペソ位、後者で月600~1,500ペソ位で、全て月払いだった。

by 高木 妙子

HIBI・インターナショナル代表取締役