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平和主義への懐疑(The skepticism on pacifism)(2015年)

2017.04.09 14:57


 「主義」(principle)とは、およそあらゆる行動や思考において指針となりうる思想的基礎(a basis of thought)のことである。


 よって主義は単なる「思想」(thought)や「観念」(idea)よりもはるかに徹底した一貫性(consistency)と普遍性(universality)を持つ。

 それはまた、思想や観念よりも先に存在し(innate)、より高次元の理想(higher ideals)である。


 いわゆる主義としての「平和」(peace)は存在しうるのか。


 平和とは、「状態」(a situation)のことであって、主義ではないどころか、思想や観念でさえない。


 平和とは、「戦争」(a war)や「暴力」(violence)がない状態、もしくはそのような「時期」(a period of time)のことである。


 平和が主義たりえないことは、「平和主義」(pacifism)という語が一体どのような「意味」(meaning)や「理念」(philosophy)、「指針」」(precept)、「規範」(the canon)を示しているのかが明確でないことからも、明らかである。


 平和はどのように実現されるのだろうか。


 平和を実現するためにの方法が、つねに「武力の不行使」(never to use military force)であるとは限らない。同様に、その方法が「非武装」(unarmed)であるとは限らない。


 なぜなら、不当に武力を行使する者が現れたときに、武力の行使をやめさせる方法として、それに対する武力(the opposite force)の行使が必要になる場合があるからである。

 その必要性は、各国の憲法(constitution)および国際連合憲章(the Charter of the United Nations)において、「集団安全保障」(collective security)または「自衛権」(the right of self-defense)の必要性が明記されていることにも表れている。


 不正な攻撃や侵害をやめさせる方法には二通りがある。

 一つは、「権威」(authority)によって攻撃や侵害をやめさせること、もう一つは「権力」によってやめさせることである。

 教義、理念、法、名誉は前者であり、武力、抑止、制裁、集団安全保障、自衛は後者である。


 権力に対し権力によって対抗することは、より大規模な、長期にわたる、そして悲惨な事態を招くおそれがある。

 よって、不正な武力の行使に対しては、権威によってそれをやめさせることができない場合に限って、権力が用いられるべきである。


 権威とは、それに服する者にとっての権威であり、それに服させる者にとっての権威であるとは限らない。


 国家にとって、急迫不正の攻撃や侵害から身を守るための権力の行使が「自衛」(self-defense)であり、個人やその仲間にとってのそれは「正当防衛」(self-defense)と呼ばれるものである。


 自分の側が攻撃を行わなければ相手は攻撃をやめなかったであろう、とすることはできない。

 自分の側が攻撃を行わなかったから相手も攻撃をやめたのだ、とすることはできない。


 自国が攻められ、侵略されたとしても何も抵抗すべきではないという考え方(絶対的平和主義、無抵抗主義)は単に欺瞞的であるというだけではなく、無責任である。


 「絶対的平和主義」という一個人の崇高な理想を守るために、私たちの子や孫の命を犠牲にしろと言うのか。


 個人が絶対的平和主義なる考えを持つことは結構である。しかし、国家がそのような思想を実現しようとすれば、その国家はもはや国家としての体をなさなくなる。


 絶対的平和主義を実現しようとする国家は滅亡する。


 法が私たちを守るわけではない。

 法は、私たちの「期待可能性」および「事後の救済手段」を担保しているだけである。


 国際法の役割は、国内法の役割よりもさらに限定的かつ特殊である。


 「世界政府体制」は、最大の無政府状態である。


 各国家がそれぞれの異なる体制や思想、文化を持っているゆえに、国家間の協調の必要性がある。

 もし世界政府なるものが誕生すれば、国際社会は唯一の体制、唯一の思想、唯一の文化によって統治(統制)されてしまう。


 世界政府は人類がおそれる最悪の事態の一つである。

 それは、植民地体制よりもはるかに過酷な状態であるかもしれない。


 世界政府体制に一切の自由は存在しない。

 それは、「世界全体主義」と同義である。


 主権国家体制は最良の体制ではない。

 しかし、それがよりましな体制であることは間違いない。


 主権国家体制においては、たとえ最大の軍事力や経済力、資源、人口を抱えている国家であっても、好き勝手なことができるわけではない。

 なぜなら、国際社会においては、国家間の勢力の均衡、国際法、国際世論などの存在を少なからず無視することができないからである。


 平和主義という名の暴力。


 絶対的平和主義なる傲慢な考えを嬉々として受け入れる姿勢は、マゾヒズムでしかない。


 絶対的平和主義や無抵抗を強いる考えは実現不可能であり、実現不可能なことを強制する行為は自由の侵害にほかならない。


 無抵抗を強いる考えは、強者の論理(持つ者の論理)である。


 強大国の目と鼻の先に存在する小国に対し、無抵抗を強いることができるのか。


 もしも、自分がどのような立場に立ち、どのような考えを持ち、そのような境遇にいるか知らなかったとすれば、人間は他者からの攻撃に対して無抵抗という行動を選択するだろうか。


 平和という状態は何にもまして貴重であり、かけがえのないものである。

 そして平和は、失われたときにはじめて気づくものである。


 平和主義という個人の信条を守るために、将来の子どもたちに多大な禍根を残せというのか。


 対話と圧力は両立可能である。

 その一方のみを行使している国家など存在しない。


 自衛という概念を説明する(explain)ことは可能である。

 しかし、そのありさまを記述する(describe)ことは不可能である。


 平和主義なる信条を実践することが、よい結果をもたらすとは限らない。


 平和主義なる信条の実践は、特定の思想を強制する行為にもなりうる。

 そうであるならば、それは思想や信条の自由を侵害する行為に当たる。


 平和は思想や信条ではない。

 平和主義という名の理想は、平和に関する信条(principle on peace)ではなく、何か別の主題に関する信条ということになる。


 絶対的平和主義という考えは、自分(自国)さえ我慢すれば、争いや揉め事を避けることができるとの前提にもとづいている。


 ”自分さえよければ”という考えと”自分さえ我慢すれば”という考えは同じことである。


 いかなる争いも避けて生活しようとすれば、身動きがとれなくなる。


 絶対的平和主義とは、他人に対する怒りが自分へと向かう現象である。


 平和主義という考えは、自我の抑圧にもとづいている。


 不正がはびこっているとき、その不正に対抗せず、それを排除しないことが、いかなる平和をもたらすだろうか。


 平和主義は、平和に関する思想ではない。


 平和主義という考えは、無価値感、おそれ、抑圧によって支えられている。


 平和主義とは、他者から嫌われ、差別され、排除されることへのおそれである。


 他人から嫌われる勇気がなければ、愛を実現することはできない。


 自分一人が犠牲になれば問題は解決するのだろうか。

 争いは起こらないのだろうか。

 愛は広まるのだろうか。

 世界は平和になるのだろうか。


 この世に存在する誰一人として見捨てられてはならない。

 傷つけられてはならない。

 尊厳を奪われてはならない。


 平和主義の理想は、自己の犠牲の上に実現される。

 それは傲慢であり、授かった命に対する侮辱である。


 生きなければならない。

 絶対に生きなければならない。


 諦めたら、そこで終わりである。


 生きることはつらい。

 しかし、諦めてどうするのか。

 生きることのほかにできることなど何もないというのに。


 どんな理由であれ死ななければならなかった人々の魂を抱いて、自分は生きている。


 死は突然訪れる。

 そして、まるで何事もなかったかのように一人、また一人と連れ去られて行く。


 条理的な死など、この世にあるのか。

 人間は諦めきれない。


 人間は誰も死にたくない。

 皆生きたいのである。


 人間は生きたいにもかかわらず、死という不条理に連れ去られて行く。


 人間はいまだに死というものの正体をわかっていない。


 いかなるとき、いかなる場所においても、生きることを諦めてはならない。


 戦争を記述した記録や作品は存在しない。

 人間は、戦争そのものを記述することはできない。


 無政府状態は、必ずしも無秩序や戦争を意味するわけではない。


 世界政府をつくることは、平和を保障しない。


 民主的な国家は、非民主的な国家と同じく戦争を行ってきた。


 民主的な国家にとって、戦争を終結させることは難しい。


 歴史学の問題点は、ある物事の原因とその原因が起きる背景とを区別しないことである。


 純粋な歴史なるものを追求すればするほど、歴史の原因分析の試みは困難になる。


 歴史は解釈の問題でもある。


 歴史において、人間の自由意志など存在するのか。


 人間の本能や衝動は消滅しうるのだろうか。

 それらは、抑圧されているだけなのではないか。


 人間の本能や衝動が戦争に結びつかないようにするためには、どうすればよいか。


 戦争以外に攻撃性の向かう先が存在するとき、人間は戦争という手段を取るだろうか。


 人間である以上、他者に同一化することは避けられない。

 しかし、争いを解決するために必要なことは、同一化することではない。


 誰かの犠牲や抑圧の上に成り立っている戦争のない状態は、平和といえるのだろうか。


 動物は同種間で互いに攻撃しあう。


 人間は、戦争という愚かな行為を繰り返してきた。

 戦争は、人間による理性の悪用である。


 不正な暴力がはびこった世界を平和であるとは決して言えない。


 自分が関与しないことによって、平和が達成されることなどありえない。


 絶対的平和主義の考えは、諦めにもとづいている。


 悲観主義と諦めは、世界を救うことが決してできない。


 社会や国家を守るのは男の責任である。

 男が仲間や社会、国家を守ることなくして誰が守るというのか。


 外交を行うとき、相手国の能力(ability,power)に注目しなければならない。

 相手が自分のことをどのように思ってくれるか、ということを行動の基準にすると、外交政策がぶれるおそれがある。


 安全保障の基本は、最悪の事態に備えることである。


 抑止(deterrence)は、相手国の理性を前提としている。

 相手が理性に照らして行動を思いとどめなければ、抑止が成り立っているとはいえない。


 中小国を中小国のままでいさせたいと誰よりも望んでいるのは、大国にほかならない。後発国が後発国のままでいてほしいを誰よりも望んでいるのは先進国にほかならない。


 植民地支配はまだ終わっていない。


 私は存在しない。

 なぜなら、本当の自由は存在しないからだ。


 国家の意図ではなく、国家の能力に注目すること。


 軍事力を背景に持たない外交は存在しない。


 軍事力と関係のない外交や経済政策は存在しえない。

 なぜなら、人間は選好よりも必要に従って行動するからである。


 戦争は国家間の対立によって起きうるが、国家間の協力や接近によっても起きうる。


 自国が持つ力のいずれか一つに頼っている国家は、いずれ危機に直面するだろう。

 なぜなら、国力には様々な側面があり、それらはすべて連関しているからである。


 政治(politics)と経済(economy)は密接に関連している。

 それらは切っても切り離せない。


 自由貿易は無条件に成立するものではない。

 なぜなら、自由貿易の理念は必ず、貿易相手国の損失によって成り立つからである。


 自由貿易の名の下に各国が目指すものは、自国の利益でしかない。


 自由貿易体制が成立するためには、各国家が市場の秩序を確立することが大前提である。


 通貨制度を市場に任せておけば安全だ、という考えは誤っている。


 国際関係とは、国家間の権力闘争である。


 国際関係は無政府状態(anarchy)であり、本来的にその下では何が起きてもおかしくない。

 つまり、それは「戦争状態」である。


 無政府状態ではある国際関係において、国家(state)とは国民の命と安全を守る装置である。


 国際関係は無政府状態であるがゆえに、国家の行動に注目せざるをえない。


 敵国からの侵略や攻撃に対抗することができるのは、軍事力にほかならない。


 国家は、合理的な行動も非合理的な行動もとりうる。

 しかし、自国の利益を最大化するためには、国家は合理的な行動をとろうとし、また他国もそのように行動するだろうと予測される。


 主権国家体制は自明のものではない。

 一つの帝国による世界支配や封建制、または高次の政府を持たない政治体制もありうる。


 国際関係は、自助(self-help)を前提としている

 しかし、本当に自助を行うことのできる国家はどれほど存在するのだろうか。


 軍事力は唯一の手段ではないが、決定的な手段である。


 自国の安全保障を高めようとする行動が、他国の安全保障の向上をもたらし、結果的に脅威を増大させてしまうことがありうる。


 絶対的平和主義なる考えは、徹底した非人間性によって規定される。


 人間は、魂を売り渡すことはできない。


 中立を保とうとすればするほど、中立は達成されなくなる。


 人間の理性は様々なものを生み出したが、それを過大視することは適当ではない。


 国際法を国内法と同一視することは避けなければならない。

 それは危険である。


 戦争をいかに防ぐか、そして起きてしまった戦争をいかに終わらせるか。

 これは古くからある問題だが、いまだにその決定的な解決策を見つけていない。


 国内のイデオロギー対立は、つねに疑わなければならない。

 なぜなら、その対立は殆どの場合、他国によってつくられ、操作されているからである。


 戦争に関する記述に成否は存在しない。

 歴史はつねに不可能である。


 各国の政府は決して、「世界平和」のために仕事をしているわけではない。

 政府にとっては自国の利益の確保が目的であり、それがすべてである。


 人間は必要に応じて行動する。

 国家もまた同じである。


 力(power)とは、資源(resource)と同一ではない。

 そこには、力を行使する意志(will)がなければならないからである。


 人間や国家の意志を推し測ることはできない。

 だから、相手(国)が持つ様々な資源に注目するのである。


 国家は、自国の絶対的な利益だけを求めているわけではない。

 むしろ、国家は他国に対する相対的な利益を求める傾向がある。

 なぜなら、国際関係は無政府状態であり、その中で各国家は生存競争を強いられているからである。


 国家の経済政策と安全保障政策は、決して切り離して考えることができない。


 国力の特定の部分だけを伸ばすような国家が生存競争に勝つことは難しい。

 なぜなら、様々な国力(軍事力、経済力、技術力、政治力…)は互いに関係し、切り離すことができないからである。


 国際関係において、強大国が存在しないことは、必ずしも不安定の要因ではない。


 国家の目標は、自国の安全と富の追求である。