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一号館一○一教室

ルトガー・ブレグマン著『希望の歴史』

2021.10.20 01:21

アフリカのことわざに
秘められた重い意味


331時限目◎本



堀間ロクなな


 「早く行きたければひとりで進め、遠くまで行きたければみんなで進め」



 アフリカのことわざだという。岸田首相が国会で初の所信表明演説を行った際に引用して話題となったのは記憶に新しい。まあ、マラソンと箱根駅伝の違いのようなもので、単独よりも複数の人間が力を合わせたほうがスケールの大きいことをやってのけられるとの教訓らしいが、ちょっと考えてみればごく当たり前の話ではないか。いや、待てよ。岸田首相の真意はともかく、実は、このことわざにはもっと重い意味が秘められているような気もする。そんなふうに思い当たったのは、さきごろ読んだばかりの『希望の歴史』(2020年)の日本語版の記述が脳裏に残っていたからだ。



 オランダの新進の歴史学者、ルトガー・ブレグマンにより世界的なベストセラーとなったこの著作は、人間の本質は善であることを証明しようとする企てだ。果たして、われわれの根っこにあるのは善なのか悪なのか。そんな「性善説」と「性悪説」をめぐる議論は古今東西かまびすしく繰り広げられてきたけれど、結論を棚上げにしたまま、人間社会の秩序を維持していくためにはたがいの善意に任せるわけにもいかず、現実には「性悪説」に立った認識のほうが圧倒的に優位だろう。こうした状況に対して、真っ向からノーを突きつけたのは蛮勇とさえ言えるかもしれない。その論拠の一端をわたしなりに咀嚼してみよう。



 わが家の愛犬(チワワ)にもちなむエピソードだ。われわれに身近なペットや家畜は、野生の動物に較べてずっと可愛らしい。たとえばイヌなら、先祖のオオカミよりもおおむね小型化して、耳は垂れ、尻尾はまるくカールし、オスは次第にメスに似てくる。発生生物学で「幼形成熟」と呼ばれるこの現象は、厳しい自然のなかよりも人間の保護下にあるほうが安楽に生きられるために、本来のヴァイタリティが衰退した結果と考えたくなる。ところが、である。現生人類の過去20万年にわたる頭骨を調査したところ、ネアンデルタール人などの旧人類と比較して、顔やからだは柔和で女性的になり、歯と顎の骨は小児のようになり、脳は少なくとも10%小さくなった……と、われわれ自身もペットや家畜と同様の変化を辿ってきたことが判明したという。これは一体、何を意味しているのか?



 どうやら、こういうことらしい。ひとりひとりの能力では旧人類のほうが知力・体力とも上回っていたものの、現生人類は「幼形成熟」にともなって個人の能力と引き換えに、他人から学ぶ能力、すなわち社会的学習の能力を手に入れたというのだ。確かに、われわれは見ず知らずの相手ともすぐに打ち解けて交流することができる。そのへんの事情を、著者はこんな譬えで説明する。



 天才族と模倣族というふたつの部族の住む惑星があったときに、賢い天才族の10人に1人が生きているあいだに新技術の釣り針を発明するとして、あまり賢くない模倣族のほうは1000人に1人の発明にとどまる。しかし、天才族には釣りを教えられる友人が平均1人しかいないのに、社交的な模倣族のほうは平均10人の友人がいるとすると、計算上、最終的に天才族で釣りのやり方をマスターするのは20%、模倣族では100%に達するという。「ネアンデルタール人は天才族に少し似ていた。一人ひとりの脳は大きかったが、全体としてはあまり賢くなかった。一人のホモ・ネアンデルターレンシスは、一人のホモ・サピエンスより賢かったかもしれないが、ホモ・サピエンスは大きな集団で暮らし、一つの集団から別の集団へとたびたび移動し、また、おそらくは模倣がうまかった。ネアンデルタール人が超高速コンピュータだとしたら、人間は時代遅れのパソコンだ。しかし、Wi-Fiでつながっている。動きは遅いが、より良くつながっているのだ」(野中香方子訳)と――。



 おそらく、現生人類の社会的学習の能力は、その道のりの大半を占める旧石器時代の狩猟採集生活のもとで鍛えられていき、最後の氷期(11万5000~1万5000年前)の過酷な環境をネアンデルタール人らよりもうまく乗り切ったのち、地球の支配者の地位を手中に収める結果になったのだろう。やがては、その地球から飛び立って宇宙の時代へと突入したことも、また、今般の新型コロナウイルスとの闘いでは史上最速のワクチン開発・接種を実現して医療の新たな未来を開いたことも、われわれの「幼形成熟」がもたらした大いなる成果なのに違いない。こうした現生人類がざっと20万年前のアフリカに発祥して、全世界に広がっていったことを思うとき、故郷の地に言い伝えられてきたという「みんなで進め」のメッセージにはあまりにも重い意味が秘められているのではないか。



 ついでに、もうひとつ。著者は「興味深い」考古学の知見として、最終氷期が終わったころ最初の戦争が起こったことを指摘する。ついに農業革命によって現生人類のもとへ財産と分配、支配と被支配、国家と国家……が持ち込まれ、ここに本来の「性善説」の資質とは相容れない、文明の呪いとしての「性悪説」の資質がわれわれを蝕みはじめたのである。それは以後の歴史を通じて膨れあがり、文明が産業革命や情報革命のプロセスを踏むのにつれていっそう強固に人間社会を呪縛し、いまや令和の日本でも抜き差しならない格差・分断の事態を前にして、岸田首相が同じ所信表明演説で「新しい資本主義」を標榜するのにつながっていく……。