フィリピンに於ける中国人、韓国人、日本人の歴史的な背景。本当に簡単な流れ、しかしこれを知ると見えて来るものがある。
13世紀には中国人は何度と無く繰り返された中国内戦で負け組は命が無いので、中国から逃亡して、アジアに拡散されて行く、フィリピンもその一つであった。フィリピンでは当然に現地人より頭が切れたので、商売も上手くやっていた。そこにスペイン統治が始まると、中国人はスペイン人に取り込み勢力を拡大して行く。
ここで最初の日本人登場だが、キリシタン大名の高山右近。1614年、徳川家康からキリシタン国外追放令をうけて同年12月にマニラに着きました。
高山右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けましたが、長旅や慣れない気候のため、翌年2月3日息を引き取りました。と言われるがこれには諸説がある。現在マニラパコ駅に高山右近の銅像がある。以前、日本から研究に来られた方々と一緒に各教会を回り墓を探しをした事がある。今でも墓は見つかっていない。彼はマニラ到着後2ヶ月で急死している。スペインが衰退して、アメリカが事実上占領していた時代は、日本人労働者が多く入植してきた。今の高速道路やおミンダナオプランテーションは日本人労働者によって作られたと言って過言では無い。アメリカ1ドルが2ペソなので、日本人労働者には大きな収入であった。そうした日本人労働者からビジネスの成功者も生まれて、マニラに日本人街が形成された。その日本人に混じり多くの韓国人、当時の朝鮮人が増えていった。アメリカ独立運動が始まり、ホセリサールが台頭したが、苦戦を強いられ、日本に亡命、日比谷公園に銅像があるが、日本人女性のおせいさん、臼井勢以子との同棲は有名であるが、当時英語が喋るのは、貴族の一部で、日本政府は彼女を見張り役として送込んだと思われる。彼女はホセリサールが死刑になるまで、結婚しなかったが、死後イギリス人と結婚している。その後ホセリサールがマニラに戻っても死刑になるまで、日本はマニラ港に日本の軍艦を停泊させていた。そして第二次世界大戦で、日本の駐留に取り入った中国人が今の大物華僑にのし上がっていった。終戦後、日本人は大変辛い思いをして、日本に引き揚げたが、朝鮮人は、いや私は朝鮮人と言って難を逃れ、一部日本人が残した仕事をとっていた。戦後暫くして日本人が戻って来た時は、私は日本人です。と嘘をつき、多くの日本人が損を被った。しかし、日本の発展に伴い、日本人が台頭して来た。私の知る1994年当時はパラニャーケに作った日本人学校の生徒数が増えすぎて、学校移転の話が始まり、今のBGCに大きな日本人学校を作ったが、今は生徒数が少な過ぎて赤字経営が続いている。最大3万人の日本人が今では1万人以下である。この経緯は置いといて、韓国人の大量移住が始まったのは、1997年の韓国のIMF入りから韓国の英語熱が高まり、上流家庭はアメリカ、イギリス留学、中流はオーストラリア留学、庶民はフィリピン留学と一気に海外に出て来た。フィリピンでも2002年に50万人の韓国人と言われる程で、今までは 我々の顔を見ると、こんにちわと言われたが、その後はアンニオハセオと顔を見れば言われるようになった。現在でも5万人と言われるので、日本人の5倍はいる事になる。そして、2013年中国本土人の就労の為の海外放出が始まり、建設労働者やオンラインカジノ等のコールセンターで中国人がセットアップの仕事やビザ取得の旅行会社が暗躍し、フィリピン入国管理事務所との何億にもなる贈賄事件も頻発した。多分100万人は送り込んだと思われる。各マンションに中国人が溢れて、エレベーターで中国人若者と会わない日は無いくらいであった。そして各ビル一階には中国雑貨屋やレストランが乱立する様になった。私の係ったリトル東京は小さいが、それの何十倍有るリトル北京 SEASCAPE VILLAGE も出来て来た。わあこれ日本人はダメだなと思っていた矢先に、このパンデミックと中国習近平の共産主義回帰政策で、習近平は国民からパスポートを取り上げた。フィリピン不動産も所詮、中国出資で伸ばして来て、空いてる居住用部屋や事務所、店舗を中国本土人が借りると言う好展開をしていたが、それもストップしてしまった。日本人が戻って来るって。いやそんな優雅な日本も無ければ、中国、韓国人も苦しくなっている。今、フィリピン来いよと言ってる人は、何を考えて居るのか、得体が知れない。フィリピン全体で広島県の経済規模も無い所で、お金を集めるのがどれだけ大変か分かっていないだけだ。