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無条件の共感

2017.04.11 21:02

サティシュ・クマールにとって、友情は人生をまとめる原理。


過去10 年に渡り、友人ギレム・フェラー (Guillem Ferrer) のお客として、マリョルカへ行っています。ある日彼は、私の全活動の案内役となる理想について話すよう頼みました。私はこう言いました。私の人生で一番大事な事は友情です。リサージェンス (Resurgence & Ecologist) 誌は、友情の成果。私にはとても多くの素晴らしい友人がいて、記事、アート作品、資金をリサージェンスへ寄与頂いています。スモール・スクール (Small School) は友情から起こり、シューマッハー・カレッジ (Schumacher College) は友情から育まれてきました。

 友情は、私の基本原則、人生のパンとバターです。友情で暮らしているのです。私にとって友情は、究極的に崇高なものです。友情に条件は無く、「もしも」や「しかし」はありません。理由もなく、誰かが友人なのです。こう言わないですよね、、、私は君の友人。なぜなら君は、あーで、こーで、だから。教養があり、お金持ちで、知性があり、容姿が良くて、話して楽しいから。こんな事は、頭に浮かびませんよね。友人がいるのは、友人になりたいと思ったからです。友情はずばり、受け入れる事、どんな見返りも求めない事。ただ与えて、ただ受け取る。友情は深い感謝の念に根差しているものです。

 友情においては、ただイエスと言うだけです。友人があなたに、友情において、頼み事をしたら、ノーと言えないですよね。友情には、イエスしかありません。誰かが私に、友情において、何かしら助けを求めたら、私はイエスと言います。また、私が、友情において、誰かに頼み事をしたら、その人はイエスと答えます。

 私の友情はヒトに対するものに留まりません。自然に対しても友情を感じます。私は自分の場所や庭の友人です。木や花の友人です。蜜蜂の友人です。更には、芋虫、ナメクジ、カタツムリの友人でもあります。雑草は私の友人です。友情という言葉が使われるのは、ほとんどは人間関係に対してですが、私は広い意味で使います。

 私の子供たちは私の友人です。インドではこう言います。子供が16になれば、もう自分の子供ではなく、友人だと。「友人」は「息子」や「娘」よりも良い言葉です。なぜなら、「息子」や「娘」では期待が伴うから。あなたは子供から何かを期待し、子供は親としてのあなたに何かを期待します。友人としてならば、何も期待せず、敬意をもって接します。妻も同じです。彼女は私の友人。彼女との関係は独占的ではなく、愛で解き放たれます。そのような婚姻は、束縛がなく、献身もありません。

 私の住む村は、私の友人です。だから、あるがままに受け入れています。判定はしません。私の村が大好きです。その人々、峡谷、森林が大好きです。自然の景観が大好きです。友人として受け入れているのです。海の近くに住んでいるので、海は私の友人です。それから、全地球が私の友人で、全世界が私の友人です。私の暮らし、社会、世界にどんな変化を持込もうとも、友情の感覚で行います。世界は素晴らしいですが、この世界に私たちが作り上げた仕組みには、再構築が必要なものもあります。私の家は私の友人なので、掃除して、直して、ペンキを塗ります。そのうち修繕や更新が必要になるからです。庭も更新が必要です。同じように、政治も更新が必要です。だから私は、政治の更新、経済の更新のために、活動しています。全て愛から出てくるものです。

 私の体が更新や癒しを必要とすれば、更新や癒しをしようとします。世界は、私の体で、社会は私の体。癒しと更新が必要です。だから私の仕事は、友好的な癒す者の活動です。スモールスクールでの私の仕事は、子供たちへの友情の活動。リサージェンス誌に対する私の仕事は、読者への友情の活動。シューマッハー・カレッジでの私の仕事は、エコロジーとスピリチャルを世界へ広めるための友情の活動。瞑想、良い食事、休息を通じて、私は肉体を癒します。消耗し、疲れた時は、肉体に語りかけます。ゆっくり、シエスタしようと。同じ様に、社会に語りかけます。シエスタしましょう。ゆっくりと。速く、厳しく、働きすぎないでと。ブッダは言いました。「道筋を力や速さで定めれば、道を見失います。」

 友情には、期待も束縛もありません。なぜなら、期待や束縛は失望をもたらすから。私は、身軽に暮らし、しがらみを無くす実践をしています。しがらみが無いと、活動し続けられます。行き詰る事なく、束縛もありません。しがらみを解放つと、自由が得られます。私の全活動は、人や世界に対する心からの友情によるものです。私が世界の変革の為に活動している時は、自分自身の変革の為に活動しているのです。より大きな存在、大我です。意識を拡張すると、大我になり、全宇宙の存在になります。この肉体の中で、私は大宇宙の小宇宙です。

 ですから、友情からオバマさんに言います。

「プーチンさんを見て、友人と思いましょう。そうすると、争いは全て解決するでしょう。」プーチンさんに言います。「ウクライナの人を友人として扱いましょう。あなたはキリスト教徒ですね。キリストは何と言いましたか?『隣人を愛せ』ですよね!」ネタニヤフさんに言います。「パレスチナの人と過去70年間戦争状態にありますが、何か成し遂げましたか?試しに一度、パレスチナと和平をして、どうなるか見てください。友情を通じて、痛みが全て癒されますよ。」パレスチナの人に助言します。「ユダヤ人は2,000年間ずっと流浪して来ました。今、故郷に帰るべきです。歓迎しましょう。一緒になって、パレスチナをミルクと蜂蜜の大地に変えられますよ。」

友人を作る最良の方法は自分から友人になる事です。友情は、私たちの苦痛、不安、苦闘全ての簡単でシンプルな答えです。

 私は、友情と言う畑に、愛の種を蒔くのに、謙遜と言う両手を使います。親切と言う堆肥を施し、私の魂と言う土壌への水やりに、寛大さと言う水を使います。私は楽しみと言う芳香と自由という果実に恵まれています。私が、深い感謝の念で、有り難く思っているのは、毎日受取る人生の贈り物全てに対してです。とても素晴らしいのは、友人になる事で、有り難い事は、友人ができる事です。

 友情と自分の心にある信頼で、私は世界中を13,000km、ポケットにお金を持たずに、歩きました。私が歩いたのは、共産主義の国、資本主義の国、イスラム教徒の国、キリスト教徒の国でした。どこでも、食事、寝場所、愛をいただきました。もし私がインド人として行ったとすれば、パキスタン人やロシア人に出会った事でしょう。もし私がヒンズー教徒として行ったとすれば、イスラム教徒やキリスト教徒に出会った事でしょう。しかし、私は、一人の人間として行ったので、どこでも、人間と出会ったのです。私の徒歩の旅は友情の行動だったのです。

 私たちが誰であろうとも、ロシア人でもアメリカ人でも、ユダヤ人でもアラブ人でも、シーア派でもスンニ派でも、共産主義者でも資本主義者でも、肩書が何であれ、私たちは、まず何よりも人間なのです。他の何者でも無く人間であると言う事です。ですから、私たちが確立すべきなのは、個人的、政治的、環境保護的な関係で、友情と言う基礎台の上に築きます。

 ブッダが、最期の呼吸をしていた時、アナンダが尋ねました。「次の人生はどのように転生したいのでしょうか?」ブッダは答えました。「予言者で無く、先生で無く、人間でも無く、弥勒菩薩として。友情として、憐れみとして、共感として、慈愛として転生できたらと思う。」

 友情は人間性をまとめ上げる唯一の接着剤。友情の哲学を通じて、私たちが深く実感するのは、私たちは全員つながり、全員関係し、全員相互依存しているという事。地球全体が私たちの住処で、私たちはこの一つの地球コミュニティーの一員で、一つの人類家族なのです。

 読者のみなさんは、私を理想主義者と呼ぶかもしれませんね。ええ、私は理想主義者です。現実主義者が何を成し遂げて来ましたか?戦争ですか? 貧困ですか? 気候変動ですか? 現実主義者はとても長い間世界を統治して来ましたが、全員の平和と繁栄の成就をし損ねて来ました。ですから、理想主義者に出番を与えて、友情を原則にして世界をまとめましょう。100%成功しないかもしれません。理想郷が出来ないかもしれません。ですが、一緒にやりましょう。友情の力を最大限に、争いの力を最小限に。これは試す価値があります。


サティシュ・クマールの新規改訂版の著書「No Destination: Autobiography of a Pilgrim」が Green Books より先日出版されました。

289: Mar/Apr 2015