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春の京都参拝① (木嶋神社・蚕ノ社)

2017.04.17 09:19

毎年、この時期には京都に行く機会があります。

ですが、近年は、ご承知の通り、とても宿を取るのが大変になって参りまして、昨年、一昨年は大阪に泊まりました。

本年は、タイミングよく京都に宿が取れたので、結構フルに貴重な時間を使えました。


長いこと、筆者は、京都は寺社を巡っておりました。


京都は1000年の長きにわたり、平安京があり、天皇がおられ、日本の発展と日本国民が栄えることを祈り願われた場所であるが故に、その佇まいは独特なものがあります。


寺社においてもそれは変わりません。


例えば、奈良の場合はそのあたりはかなりきちんと整理がされています。

しかし、京都はまったく違います。

色々な意味で最先端でした。1000年間もの間、それは最先端を行ってました。なので、この空間には、とても想像がつかないものがたくさん存在していますが、その代表的なものが、寺院でした。

簡単にいえば、わたくしたちは現代、2000年代の感性でこれらに触れておりますが、そのもともとは平安期にできたもの、鎌倉期にできたもの、室町期、江戸期にできたものなど千差万別、さらに、そこに宗教が関わり、そのほかにも創建の意志もあり、そして、それぞれの時代の文化が加わっており、それが見事に現代の町と一体となっております。


しかし、神社は、実はもっと複雑です。


でも、まったくの身勝手な自分軸で考えてみると、ここ数年、京都(に限らず…ですが)の寺院に興味がなくなった(失礼な物言いなら、お詫びします)のは、自身にそういう時期がきたのだと思っています。


このことは、色々な側面から今後も書いていきます(以前にも何度か書いておりますが、少しずつ、検証しつつ...)



ところで、奈良や京都のお社を体系的に論じるには、些か、いまひとつ学術的な見識に不足しております。


たとえば、方位学です。あるいは、幾何学です。

このあたりの知識も学びが不足していますので、数年前から、少しずつ勉強しています。


というのも、定説になっている平安京の配置には、ちょっと疑義が生じているのです。

それを研究しています。

そこが解明しないと、体系的な物言いはできませんので、それも、宿題にさせてください。


今年は、興味が先行した参拝(いつもそうかも...)をいたしました。


木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)


所在地  京都府京都市右京区太秦森ケ東町50番地

主祭神  天之御中主神

     大国魂神

     穂々出見命

     鵜茅葺不合命

     瓊々杵尊

社格等 式内社(名神大)

     旧郷社

創  建    不詳

     (大宝元年(701年)以前)

別    名    木嶋神社・蚕の社

例    祭    10月12日


まず、興味が沸いてしまうのが、創建が大宝元年より前ということです。

ようするに平安京ができる前です。平安京どころか、平城京もまだありません。

そんな頃にどうして、ここにお社があるのでしょうか?


次に「ご祭神」です。

天之御中主神です。一番最初に現れた神さまです。しかし、この社の名称は「天照御魂」となっております。


これはとても不思議です。


実はこの日は、雨模様でした。

筆者はどちらかというと雨に好かれます。

この日京都に来て、ホテルにチェックインしたときはもう雨が止んでおり、フロントのひとも今日はもう大丈夫でしょうと、言っておられました。


ところが、この宿に近づいた途端に大雨!


慌てふためいていたら、コンビニをみつけ、そこで大き目のビニール傘を買ったら、雨が止みました。店員さんがタオルを下さったくらい、短時間でビッショリでした。


よほど、穢れていたのでしょうね。

お陰様で、禊を終えてから、境内に入れました。

手水を終え、参道を歩くと、正面に拝殿があります。

拝殿は向かって右側を通過するのが作法ですが、先の大雨で、右側は泥濘、水たまりもできていたので、左側を進みました。

本殿の手前の拝所です。

この向こう側の正面に、木嶋神社の本殿、そして、斜め右側に蚕ノ社(養蚕神社)があります。

この時間、わたくし以外の参拝者はほとんどなく、このお社の一画だけはまわりを木々に囲まれ、雨のあとのしずくの音だけが聴こえてきました。


そして

こちらが今回、このお社に強く惹かれた

三柱鳥居です。

この空間は一層清らかでした。

自分でまったく意識していないのに、自然とおおきな深呼吸をしておりました。


こちら、本殿左側には、繁茂した樹木に囲まれた「元糺の池」と呼ばれる神池がありました。


「糺」は「正しくなす」、「誤りをなおす」という意味で、身に罪や穢れがあるときに、この池は禊(みそ)ぎを行なって心身を清める場所だったのでしょう。土用の丑の日にこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという俗信仰もあったそうです。


現在では池の水が枯れてしまいましたので、ありし日の画像を資料からお借りしました。


なぜ「元糺(もとただす)」という名称については、「糺の森(ただすのもり)」に関して、神社同士の確執があったようです。


木島神社では潔斎の場である糺の池の周りを糺の森と呼んでいましたが、糺の森は、他にも、御所の北東に賀茂川と高野川の合流点があり、潔斎の地として知られ、「糺の森」の名で呼ばれています。

木島神社の由緒書きによれば、嵯峨天皇の時代に潔斎の場をこの社の境内から下鴨神社に遷されたためだということで、本家本元はこちらだと主張するために、木島神社では「元糺」と言っているようです。



さて、前述した色々な疑問に関して、この参拝でいくつかの答えがみつかりました。


まず、


600年代になぜこんなところにお社があったのか....

そのこたえは意外に簡単で、ここは広隆寺の近くでした。

そう、わたくし、以前は、寺院フリークだったのですね... (笑)

広隆寺の創建は古く、推古天皇11年(603年)と言われています。

あのお美しい、弥勒菩薩半跏像が有名な寺院で、ここは、聖徳太子信仰の寺としても有名なのですが、創建(開基)は、あの秦河勝なのです。

はい、秦氏なのですね。そしてこの広隆寺の創建に伴い、勧請されたのでしょう。


実は、この辺りは太秦(うずまさ)という地名です。

太秦というと、大概のひとは、時代劇映画の撮影所を思い浮かべるでしょう。

ですが、「太い秦」と書いてウズマサと読ませています。


『日本書紀』の雄略紀によれば、太秦の命名の由来を次のように述べられてています。

「雄略天皇は、あちこちに四散していた秦氏の民を集めて、寵臣秦酒公(はたのさけのきみ)に賜った。そのため、酒公は各種多数の村主を率いるようになり、租税として絹・カトリ(上質の絹)を朝庭に沢山積み上げた。天皇は庭先にうず高く積まれた絹の様子を見て、酒公に禹豆麻佐(うつまさ)という姓を賜った」

とされていれています。


そうなのですね。なので、ここに「養蚕神社」も一緒にお祀りしてあるのですね。



さて、そうなると、もうひとつの疑問、ご祭神です。

実は、これは今年に入って、大きく悩んでいたことと一致するのですね。

「猿田毘古神 (さるたひこのかみ)」を書いたときに、その壁がより一層高くなったのですが、乗り越えられなかったけれど、ちょっと横に置いておきました。いま、また、同じテーマです。


それは、「太陽神」の存在です。


天照大御神


このおかたは皇祖神です。

ですが、太陽神として、唯一無二ではないということでしょう。


例えば、世界中に太陽神はいらっしゃいまして、そのほとんどの神々は、その国、その地域の神話に登場し、かなり上位の神様です。


だって太陽神なのですから。

でも、太陽神はその国や地域に、ふたりはいらっしゃいません。

太陽はひとつですから。


日本はここが難しいのですが、天照大御神さまに別称があるのでなく、それは「太陽神」として、色々な地域の呼ばれ方であり、事実、その太陽神は存在したのでしょう。

しかし、日本の素晴らしいところは、中央集権国家を形成していく過程で、占領し全滅させ統治していった歴史ではないということなのです。

それぞれの文化は残し、共存共栄をしていったということなのですね。


三鳥居がその象徴なのかははっきりしません。


現存のものは江戸期に再建されたもので、その前の記録はみつかっていません。


そして、この三鳥居に、わたくしはなにも畏れを感じず、とても爽やかに、そして、この参拝を終えたときに大きな閃きを授かりました。


このように参拝を終え、次の参拝地へと進んでいきました。



鳥居横の桜が満開でした。