教授とモブの愉快な学校生活〜弟を添えて〜
ダラム大学に若き天才数学者が赴任してきて半年が経つ。
金で職を買ったのだろうと揶揄されていたのも始めの頃だけで、優秀な頭脳とそれをひけらかさない謙虚な姿勢はたちまち教授陣の中でも話題になる。
伯爵家でありながらも新任教授という立場を弁え率先して雑用をこなそうとし、若さゆえに学生達からの信頼も厚い。
その穏やかな人柄もウィリアムという人間への好感を一つも二つも押し上げているようで、このダラム大学においてモリアーティ教授は多くの人から好かれていた。
モリアーティ教授は優秀で非の打ちどころのない人格者。
けれど、一風変わった人だというのは学生達にとっての共通認識だった。
「先生、その写真の人達は?」
「あぁ、これは僕の兄と弟だよ」
「へぇ…」
講義で出題された課題について質問をしに来た学生が数学準備室を訪ねると、ウィリアムの机にはコルクボードに貼られた何枚もの写真があった。
大切な家族の写真をボードに飾るのはよくある習慣で、さして気にするほどのことでもない。
それでも通常は一枚か二枚程度、目の前の壁にささやかながらに貼ってあるのが普通だろう。
ウィリアムのように、机の前の壁一面に大きなコルクボードを用意して十数枚に渡るほど大量の写真を飾る人間は初めて見た。
今日初めて数学準備室にいるウィリアムを訪ねた学生のモーブンは、思わず顔が引き攣ったのを自覚する。
「金髪の彼が僕の弟で、茶髪の彼が僕の兄なんだ」
「そうなんですか…弟さん、先生とよく似ていますね」
「そうかな。ありがとう、嬉しいよ」
モノクロの写真ではあるが髪色の違いははっきり分かる。
どちらの人物もとても容姿が整っており見目麗しいことがよく伝わってきて、比率で言えば弟だという人物の写真が多いのだろう。
兄弟三人で写っている写真の他に、弟という彼だけが写されている写真が何枚もあった。
無表情のまま遠くを見ている顔、ぎこちない笑みを浮かべている顔、向けられる写真機に気付いたような照れている顔、静かに窓を見ている物憂げな顔、それでいて兄という人と一緒に写っている写真の顔はとても穏やかだ。
撮られることに慣れていないらしい弟とは違い、兄という人物の写真はどれも隙のない笑みがとても凛々しく写されている。
どの写真もおよそ写真屋を呼んで撮ったとは思えない日常の姿ばかりで、おそらくはウィリアム自らが撮ったのだろうことが推察された。
高価な写真機を自由に使える立場であることを不思議に思うはずもないけれど、貴重なフィルムを自分ではなくこうも兄弟に向けるというのはいささか疑問に思う。
「先生、一人暮らしでしたっけ?」
「いや、近くに住居を構えているよ。そこで弟と暮らしている。兄はロンドンにいるから、週末には兄の元へ帰る生活を送っているよ」
「へぇ…」
「それがどうかしたのかい?」
「いえ別に」
兄と離れて暮らしているのに兄の写真は少なく、弟と暮らしているのに弟の写真が多いのか。
離れて暮らす兄にしたって毎週末に会っているという。
てっきり一人暮らしゆえの人恋しさから兄弟の写真を多く所有しているのかと思い問いかけてみたが、どうやら全く検討外れだったらしい。
モーブンは寮住まいだが、部屋にある家族写真など入学前に撮った記念写真が一枚きりだ。
兄弟の写真など敢えて貼ろうとも思わないし、実際ウィリアム以外の教授席には妻や娘といった愛でる対象だろう写真しかない。
たまに妙齢の女性の写真が貼られており、愛人だの隠し子だの何だのと学生達の間で噂になることもあった。
それなのにウィリアムの席には兄弟の写真、しかもともに暮らしている弟の写真ばかりが大量に貼られている。
綺麗な顔の弟は見ていて不快になるものではないだろうが、どうにも違和感が過ぎってしまう。
「…兄弟思いなんですね、先生は!」
「大切な人達だからね」
過ぎる違和感を払うように大きな声を出したモーブンは、返ってきた言葉にますます違和感を覚えてしまった。
片時も離れたくないんだ、と聞こえてきたのは空耳だろうか。
モーブンは弟という彼の写真を気にしつつ、講義で理解出来なかった部分の解説をウィリアムに依頼した。
「あれ、モリアーティ先生が食堂にいるなんて珍しいですね」
「普段お弁当持って来てませんでした?」
「今日は生憎と弟の都合が付かなくてね。お弁当を用意してもらえなかったんだ」
「先生のお弁当、弟さんが作ってるんですか?」
「そうだよ」
学生達で賑わう食堂はあちこちでランチの良い香りを撒き散らしている。
この場所の常連であるモブリスターとモブッシュは見慣れない人物を目に留めて思わず声をかけてしまった。
清廉な空気を身に纏う彼は教授職でありながら年若く親近感がある。
けれどその見た目にそぐわない容赦のない授業をこなすのだから、若くして教授職に就くだけのことはあると尊敬されていた。
そんな彼、ウィリアムはトレイに乗ったコーヒーと少しのビスケットだけを持っている。
「ここ、失礼するよ」
「良いですけど…先生、お昼それだけですか?」
「さすがに少食すぎますよ、それ」
「あまりお腹は空いていないからね。君達のランチはミートドリアと海鮮パスタかな?」
「はい。ここのドリア、美味いですよ」
「日替わりも結構イケます」
「ありがとう、参考にさせてもらうよ」
参考とは何だろうか。
そんなことを考えながらウィリアムが目の前に座るのを見届け、二人はそれぞれのランチに手を付けた。
ドリアもパスタも味は申し分なく、空っぽの胃に染み渡るほどに美味しい。
空腹を満たすため半分ほど食べたところで二人はもう一度ウィリアムへと意識を移すが、彼はのんびりとコーヒーを飲んでいるだけだった。
「よくコーヒーとお菓子だけで持ちますね。俺なら倒れますよ」
「あぁ、僕は元々食事には興味がないんだ」
「弟さんにお弁当作ってもらってるのに?」
「弟の作る食事は別だよ。だから彼が作るもの以外は極力口にしたくないんだ」
「…へぇ?」
「今日は兄の都合でどうしても弟をよこさなければならなくてね。朝早くの列車に乗ってロンドンに帰ってしまったから、お弁当どころじゃなかったんだよ」
「そうなんですか…」
弟が作る食事以外は食べたくない、とは偏食が過ぎるのではないだろうか。
モブリスターとモブッシュは揃ってそう考えたが、声に出すことはしなかった。
ウィリアムは美味しそうにも不味そうにもせずコーヒーを口に含んでおり、ビスケットを指で弄んでいる。
「食べたいという欲求が強いわけではないから、弟が作る食事を食べられないのなら一日二日は食べなくても大丈夫なんだけどね。そうすると彼が怒るから、一応は形だけでも食事を摂っておこうと思ってここに来たんだ」
「…そう、なんですか」
「何を食べたのか聞かれると困るから誰かの食事を参考にしようと思ってたんだけど、ちょうど君達がいて助かったよ」
「はぁ…」
目の前の数学教授、何やらおかしなことを言っている。
食への欲求がないだけならともかく、弟が作る食事だけを切望しつつ、彼の機嫌を取るために偽りのメニューまで決めておくなんて、普通の兄がすることだろうか。
思わず手を止めてしまった二人へ食事を促すように微笑んだウィリアムは、ようやく弄んでいたビスケットを口に運ぶ。
僅かにしっとりした食感はあまり好みのものではなかった。
「ルイスが作ったビスケットとルイスが淹れた紅茶を飲みたいな…」
「え?誰ですか、ルイスって」
「あぁ、僕の弟の名前だよ。良い名前だろう?」
「はぁ、そうですね…」
「ルイスが淹れる紅茶はとても美味しくてね、舌が肥えてしまっているから他の紅茶が飲めないんだ」
美味しい紅茶を淹れるというのも考えものだよね、と言いながらも表情は明るく自慢に満ちている。
意図せずコーヒーを飲んでいる理由を知ってしまったモブリスターとモブッシュは互いの顔を見合わせ、何かがおかしいとアイコンタクトを交わしていく。
その様子にウィリアムが気付かないはずもなく、けれどその理由に心当たりはないから大した理由はないのだろうと、義務のようにコーヒーを飲み干した。
「この子がお前の許嫁か〜まぁまぁ可愛いんじゃね?」
「男爵家の娘なら面倒なしがらみも少なそうで良いじゃん」
「何度か会ったことあるんだけど、写真よりも綺麗な感じの子でさ。実は結構好みなんだよ」
「好みに合ってるんなら良かったな!式には呼んでくれよ、モブル」
「君達、何を見ているんですか?」
「「「も、モリアーティ先生!」」」
全ての講義が終わった放課後、講義室の中で騒ぐ学生三人を見つけたウィリアムは個人的な興味本位で声をかけた。
施錠の時間まではまだ余裕があるのだから、教員として咎めるような真似はしない。
ただ、可愛いだの綺麗だのと盛り上がる学生達の意識の中心が何にあるのかを知りたかっただけだ。
ひょい、と顔を覗かせた教授に驚いた三人は思わず持っていたはずのアルバムを落としてしまった。
驚いたまま固まっている学生に気を遣ったウィリアムは親切にもそのアルバムを拾い、開いているページに収められた一枚の大きな写真に目を留める。
美しいドレスを着込み、丁寧な化粧をして微笑んでいる一人の女性。
まるで見合い写真のようだと思ったけれど、事実見合い写真なのだろう。
「君の婚約者ですか?」
「あ、はい…親が決めた相手なんですけど、悪くない人かなって」
「良いですよね〜こんな可愛い子が相手で。俺の相手なんて目つき悪いから羨ましいですよ」
「結構可愛いですよね。先生もそう思いません?」
「そうだね…可愛い、のかな」
貴族家の人間ばかりの学生の中で、親同士が決めた婚約者がいるというのは珍しい話ではない。
自分で選ぶのではなく家柄を考慮して決められた相手に不満はないのだろうかと引っ掛かりを覚えるけれど、本人が納得しているのならそれは良いことなのだろう。
ウィリアムは彼らに渡したアルバムをまたも見せられ、可愛いと噂されている女性をもう一度見た。
可愛いのかどうか、正直ウィリアムにはよく分からなかった。
「ごめん、僕にはよく分からないかな。でも、君ととてもお似合いだと思うよ」
「あ、ありがとうございます」
「さすがモリアーティ先生。格好良いだけあって見る目も厳しいんですね」
「この人で可愛くないなんてどれだけ理想高いんですか?」
「そう高いわけでもないと思うけど」
「じゃあどんな人が好みなんですか?」
「うーん…弟、とか」
「「「は?」」」
可愛い人、理想の人、好みの人。
そう尋ねられたウィリアムの脳裏に思い浮かぶのはたった一人の弟だけで、自分とよく似た外見をしているのによほど可愛らしい顔立ちをして見えるルイスしかいなかった。
ウィリアムにとっての可愛い人とはルイスで、理想の人とはルイスで、好みの人もルイス一択だ。
自分だけを見てくれるルイスの存在はウィリアムにとっての精神的支柱にすらなっていて、彼が生きやすい国にするためなら何を投げ出しても叶えてみせる覚悟さえある。
それほどルイスとはウィリアムにとって尊い存在で、言葉には代え難いほどの人間なのだが、それを学生達に伝えたところで伝わるはずもないだろう。
だがこの内容で偽りを答えるのもルイスに申し訳が立たなくて、何よりウィリアムの心情に反してしまう。
ゆえに間違いのない正解をそのまま伝えることにした。
「僕の弟は可愛いし僕の理想そのものだから、好みと言ってもいい人だね」
「はぁ…」
「そう、ですか…」
「先生、弟思いなんですね…」
「ふふ」
本当ならこのまま惚気てしまおうかとも思ったけれど、それはさすがにやめた方が良いだろう。
ウィリアムは惚けたような顔をしている三人の学生に、あまり遅くならないようにね、と声をかけてから講義室を出て行こうとする。
そうして扉を閉める直前、一度だけ振り返ってはにっこりを笑みを浮かべて声高らかに宣った。
「君の婚約者も、僕の弟に負けず劣らずとても可愛いことは確かだよ」
先程まで可愛いかどうか分からないと言っていたくせにこの手のひらの返しよう、明らかに弟の方が可愛いのだとマウントを取っているようなものである。
そもそも可愛いという基準が彼の弟にある時点で優位を宣言されているのは間違いない。
三人はウィリアムの弟という顔も知らない人間に負けたらしい女性の写真を横目に、今しがたの時間は何だったのだろうかと無言で考え込んでしまった。
ウィリアムが講義を受け持つ学生の中で、弟の話題を聞いたことがない人間はいないだろう。
親しみやすい彼は人を惹きつけ、その居心地の良さから多くの人に頼られる。
彼の生い立ちが壮絶だったことはほとんどの学生が知るところだが、そんな不幸を歯牙にもかけず、誰に対しても心優しいモリアーティ教授。
そんなウィリアムが養子であるはずの弟を大切に思っていることを知らない学生はいなかった。
「先生ってさ、弟さんのことだいすきだよね」
「愛しているからね」
授業の終わりに時間が余り、なら次の単元を進めてしまおうかと提案したウィリアムに抗議の声をあげたのは大半の学生達だった。
少しばかり残念に思ったウィリアムだが、予定していた部分までは指導を終えたのだから食い下がることもしない。
そうして半端な時間をどう使うかウィリアムと学生達とで思案していたところ、一人の学生がふと思ったことを呟いた。
その言葉に反論する声はなく、むしろウィリアムからストレートな同意が返ってきたことに発言者であるモブモンドこそが驚いてしまう。
「愛してる、ですか」
「兄が弟を愛するのはごく普通のことだろう?」
「そ、うですかね?」
モブモンドにも弟が二人いるが、愛しているなどと思ったことはない。
むしろ鬱陶しいと思ったことの方が多くて、それでも一応は弟なのだからと、彼なりの情が湧いているだけの存在だった。
いなくなったら寂しいとは思うし、いてくれて良かったとは思うが、だからといって愛しているかと問われれば気恥ずかしさと相まってノーと答えるだろう。
「兄にとって弟とは初めて得た守るべき存在だろう?慈しんで大切に守っていくのは兄として当然の責務で、兄としての特権でもある。弟と関わる中で自分の強みと弱みを知ることが出来るからね」
「でも、先生の弟って養子なんですよね?」
「…そうだね。他に身寄りのない養子だからこそ、僕が守ってあげなければならないと一層の決心が付いたよ。僕はあの子に色々なことを教え導く立場にあったからこそ教職を目指したんだ。今ここに僕がいるのは弟のおかげだと断言するよ」
「そう、なんですか」
ウィリアムが何故教職を志したのかを初めて知ったが、なるほど、そういう理由ならば教えることが一際上手いのも納得だ。
弟に教えていく中で自分の天職を見つけたのだと微笑むウィリアムはとても綺麗で、それを引き出したのは彼の弟に他ならないのだろう。
モブモンドは顔も名前も知らないウィリアムの弟という養子をただひたすらに凄いと思ってしまった。
優秀な彼に教えを乞う身なのだから、彼の弟なくしては数学への理解が深まることはなかったのだから。
「モブモンド、確か君にも弟が二人いたね。改まって声に出すのは照れくさいかもしれないけど、兄が弟を大切に思うのはおかしなことじゃないから堂々としていて良いんだよ」
「え?いや、俺は別に」
「恥ずかしがらなくても良いじゃないか。弟を大切にする君のことを、同じ兄として僕は誇りに思う」
「え、ええ〜…?」
「いつまでも仲良くするんだよ。僕も弟も君達兄弟を応援しているから」
良い兄貴だなモブモンド、という感嘆の声が3割、先生に押されるなモブモンド、という応援の声が3割、諦めて良い兄貴になれ、という同情の声が3割、何も言わずにただ教壇に立つウィリアムに視線を送るのが1割。
体感でそんな数字を割り出したモブモンドは、輝くような笑みを浮かべているウィリアムを見て背もたれに体を預けた。
あの笑みはきっと教授ではなく兄としての顔なのだろう。
「いつか君も堂々と弟に愛を告げられる日が来ると、僕は信じているからね」
「そんなこと信じないでください、先生」
拳を握ってエールを送ってくるウィリアムに、モブモンドは引き攣った笑みを返す。
そうこうしているうちに終業のベルが鳴り、今日の授業が全て終わったことを暗に知らせてくれたのだった。
何度か歩いたことのある道を独り歩く。
まだ見慣れることのない正門を潜り抜けると多くの学生達が好奇の視線を送ってくるが、今に始まったことでもないのだからルイスは気にせず背筋を伸ばし歩いていた。
目立つ頬の傷跡はどこに行っても好奇の的で、この視線は何もこの大学に限ったことではないのだから。
「誰だろう、あの人」
「うちの大学に寄付している貴族の人じゃないか?」
「なぁ、あの人先生に似てないか?」
「そうか?髪色と顔立ちと背格好が似てるだけじゃないか?」
「ほとんど似てるじゃん、それ」
「あの人、もしかして」
「先生の机に写真貼ってあった!」
「やっぱりそうだよな?ってことは、あの人が…」
聞こえてくる声はこそこそ小さくて、けれどどれも大した内容ではないとルイスの耳を右から左へと通り過ぎていく。
似ている、というのは少しばかり引っかかるが、この大学で教鞭を執る兄はその生い立ちを学生達に語ったと聞いている。
ならばルイスがモリアーティ家の養子であることは知れ渡っているはずで、その固定観念を覆すことはないだろう。
偽りの過去を疑われる心配はないはずだと、ルイスは変わらず堂々と通路を歩いては数学準備室を目指して足を進めていく。
「あの人がモリアーティ先生の弟…」
「あの人が…」
「写真で見るより綺麗と言えば綺麗だけど」
「可愛いと言えば可愛いのか?」
「あれが先生の好みの人…!」
ざわついている声に構うことなく、ルイスは階段を登って目当ての部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
「ルイスじゃないか。どうしたんだい?何か急用かな?」
許可を得て部屋に入れば数名の学生とこの空間の主人であるウィリアムがいた。
その手元には教本とペンがあり、空き時間を利用して学びを深めているのは明白だった。
ルイスは一瞬だけ出直そうか迷ったけれど、壁に掛けられている時計の時間を見て先に用事を済ませることを決める。
学生達の邪魔をするのは申し訳ないけれど、ルイスにとってウィリアム以上に優先するものはない。
「今朝も随分慌てて出て行ったでしょう?せっかく用意したこれを忘れてしまったようなので、届けに来ました」
「あ、お弁当。そうか、忘れてきてしまったのか」
ルイスは持っていた鞄の中から小さな包みを出して、ウィリアムの机の上にポンと置く。
わざわざ届けなくても忘れたことに気付けば食堂でランチを済ませるとは思ったのだが、せっかくウィリアムのために作ったこれをルイスが食べるというのも気が乗らない。
時間もあるのだからと届けにきたけれど、ウィリアムの笑みを見れば正解だったことは考えるまでもなかった。
「ありがとう、ルイス。お昼の楽しみがなくなるところだったよ」
「いえ、お気になさらず」
嬉しそうに包みを手に取るウィリアムを見て、ルイスの表情も少しだけ柔らかくなる。
そうしてふわりと頬にかかる髪を軽く手で払っていると、数人分の視線が突き刺さる心地がした。
あからさまに向けられる好奇の眼差しが面倒で、ルイスは小さく息を吐いてから赤い瞳を彼らに向けて静かに声を出す。
「…質問中に失礼しました。僕はこれで」
「先生、この人が先生の弟さん?」
「そうだよ」
「写真よりも格好いい人ですね!」
「ふふ、ありがとう」
「この人が先生溺愛の弟さんかぁ〜」
「溺愛か…そうだね、溺れるほどに愛している人だから」
「ぇ」
ウィリアムの忘れ物を届けに来ただけなのに、ウィリアムの教え子に囲まれて部屋を出ることが出来ない。
話を聞く限りは養子の弟がいるという情報以上にルイスの存在が知られているようだが、ウィリアムが意にも介せず返事をしているから相応の情報を与えてきたのだろう。
それにしたって、「愛している」とは何事だろうか。
思わず頬を染めてウィリアムと学生達の顔を交互に見るが、ウィリアムはただ微笑んでいて学生達は「これがあの弟さん」と興味津々な様子だった。
「あ、あの」
「改めて紹介しようか。彼が僕最愛の弟である、ルイス・ジェームズ・モリアーティだ」
最愛という言葉に胸が疼いたけれど、椅子から立ち上がったウィリアムは堂々とルイスの肩を抱いて学生達に紹介をしている。
紹介になっているのかと驚愕の瞳で横を見るが、ルイスの目には普段以上に楽しげなウィリアムしか映らなかった。
「初めまして!俺、ミートドリアがすきなモブリスターです!」
「俺はそこそこ可愛い婚約者がいるモブルです!」
「俺はモリアーティ先生みたいな兄を目指すモブモンドです!」
「はぁ?」
「ふふ」
目の前にいる学生のうち三人が元気よく自己紹介をしてくれたけど、その内容はあまりにも意味が分からなかった。
ミートドリアとは何だろうか。
そういえばお弁当を用意出来なかった翌日にウィリアムが食堂でミートドリアを食べたと言っていたけれどそれとは関係がないだろうし、婚約者に対して「そこそこ可愛い」とは失礼に値するだろう。
ウィリアムのような兄を目指すというのは良い心掛けだと、ルイスはつい認めるように一人頷いてしまった。
「ミートドリアがすきで、そこそこ可愛い婚約者がいて、兄のような兄を目指しているんですか」
「「「はい!」」」
「はぁ…」
随分と愉快な学生がいるものだ。
ルイスはつい復唱してしまったが、もしかすると先程のウィリアムの発言に負けまいとユーモアを発揮させているのかもしれない。
ならば空気の読めない弟でいるのはウィリアムの評判に傷が付いてしまうかもしれないと、ルイスは頭を働かせてこの雰囲気に見合った紹介を返すことにした。
「初めまして。ウィリアムよりご紹介に預かりました、兄を敬愛して止まない弟のルイスです」
この場のノリにはこのくらいはっきり言ってしまった方が良いだろう。
ルイスはそう考えて常日頃から偽ることのない本音をそのまま伝えたが、間違ってはいないだろうかと浮かべた笑みとは裏腹に緊張感を携えていた。
「わぁ、両思いじゃないですか!」
「本当に仲が良いんですね、二人とも」
「先生もルイスさんも何だか眩しいですよ」
「そうでしょうか」
だがそんな緊張感は無駄だったようで、どうやらこの場の空気を壊さずに済んだらしい。
本音を言うだけで済むならば簡単だと、ルイスは学生達の好意的な反応を見て心の底から安堵した。
肩を抱いているウィリアムからも褒めるように抱き寄せられ、苦手な雰囲気の中でちゃんと正解を出せた自分を誇らしく思う。
写真を見てルイスさんの顔知ってたんですよ、先生いつもルイスさんのこと話してますよ、男兄弟で仲が良いなんて珍しいですよね、と他愛もない会話をしながら、ルイスは他の学生の様子を見る。
彼らは何も言っていないし反応も乏しいが、ユーモアに自信がないのだろうか。
そんなことを考えるが、今はまず目の前の三人を相手にしなければとルイスは意識を逸らして会話を続けていた。
(…先生、ガチでしょ)
(ふふ。あなた達のように賢い子は嫌いじゃありませんよ)
(俺も先生みたいな人、嫌いじゃないですよ)
(僕もです。超人みたいな先生がますます異常じみて見えるのは怖いですけどね)
(異常とは人聞きが悪い。ただ弟を愛する一人の兄というだけなのに)
(うわぁ愛が重い)
(重すぎるくらい。ルイスさんじゃないと先生の愛、受け止められないでしょ)
(ふふ、さぁどうだろうね)