色変えぬ松
https://ameblo.jp/masanori819/entry-12411704765.html 【一日一季語 色変へぬ松(いろかえぬまつ《いろかへぬまつ》)】より
【秋―植物―晩秋】
何々の松と言はれて色変へず 森田公司
埼玉県さいたま市を中心に活躍する俳人・森田公司。植物を愛する植物詠、教員生活を詠んだ学校詠、農事にかかわる作句、忌日句、俳句結社考など、幅広い観点から森田の全体
【季語の説明】
晩秋に落葉樹が紅葉するのに対し、松が変らず緑のままでいることを賞する。
【例句】
色かへぬ松や主は知らぬ人 正岡子規
色変へぬ松なみ法隆寺へますぐ 上村占魚
色変へぬ松したがへて天守閣 鷹羽狩行
太幹をくねらせて色変へぬ松 片山由美子
城亡び松美しく色かへず 富安風生
【松について】
松竹梅の筆頭に来るめでたい木です。常緑で樹齢が長いことから長寿の瑞木であり、門松飾りにも使われています。松紋は威厳のある姿を具象的に表現したものから、デフォルメされたものまで種類が豊富で、珍しい意匠のものが数多く存在します。松の木全体を描いたものは老松、若木を描いたものは若松、葉を櫛形に描いたものを櫛松と呼ばれています。
(日本三大松原))
松の樹は、比較的タフな樹木として知られており、ほかの樹では生育できないような砂や岩だらけの荒れ地でも生き延び、そして早く成長します。そのため、海岸沿いに天然の松林が形成されるケースが多々あります。また、防風林や防砂林として海岸沿いに松を植林した場所も多く、松林は日本では頻繁に目にします。
そうした松林のなかでも、とくに景観的に優れているといわれているものが、日本三大松原です。
三保の松原
静岡県静岡市清水区の三保半島の東側にある松林で、平安時代から親しまれている景勝地です。
総延長7キロメートル、3万699本の松が生い茂っており、駿河湾を挟んで富士山や伊豆半島を一望する美しい景色が有名で、歌川広重などによる浮世絵でもよく知られています。また、万葉集に歌われてからは和歌の題材となっています。
三保の松原は国の名勝に指定されており、ユネスコ世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にもなっています。
羽衣伝説の舞台となっており、天女が羽衣をかけたという羽衣の松があり御穂神社(みほじんじゃ)のご神体ともなっています。
気比松原、
福井県敦賀市の名勝で、万葉集や日本食にも登場する古くから知られた景勝地です。敦賀湾の奥の西半分を占める広大な松原で、長さ約1.5キロメートル、面積約40ヘクタール、平均樹齢200年のアカマツ・クロマツが生えています。日本の海岸としては珍しく、アカマツが多いのも特徴です。夏は海水浴場としてにぎわい、冬には雪化粧した松原と日本海の荒まみが織りなす壮観な景色を楽しむことができます。
古来より氣比神宮の神苑として管理されており、1570年に織田信長の越前攻略により没収されたあとは江戸時代の小浜藩の藩有林として管理され、明治以降は国有林して現在にまで残されてきました。
虹の松原
佐賀県唐津市の唐津湾にある松原で、幅約500メートル、長さ約4.5キロメートル、面積約216ヘクタールの範囲に約100万本のクロマツの林が続いています。弓状の松原と青い海のコントラストが見事で、海水浴場も隣接しています。
虹の松原はもともとは防風林、防砂林として植樹されたもので、17世紀に唐津藩藩主、寺沢広高(てらざわひろたか)により新田開発事業の一環としてつくられました。藩の厳しい管理により庇護され、藩主が変わっても手厚く守られてきました。明治時代には国有林となり、現在もほぼ全域が保安林として佐賀森林管理署の管理下にあります。
もともとは「二里松原」と呼ばれていましたが、明治以降に虹の松原と呼ばれるようになりました。名前が変わった理由については、わかっていません。
https://mijinyamatanishi.hatenablog.jp/entry/2018/12/18/000000 【色変えぬ松】より
「色変えぬ松」秋の季語です。
紅葉が進むなか、青々と色の変わらない松を言います。
松の持つ「繁栄」や「永遠」のイメージを思い浮かべます。
降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
昭和21年、終戦後初の歌会始において、昭和天皇がお詠みなったお歌です。
惨めな現状でありながら、未来への希望を抱き、逞しく立ち上がろうとする気丈さを思います。意外なほど若々しく、明るさを感じさせます。
「人もかくあれ」ご自分に対して語っておられたかもしれません。
海陸(うみくが)の いづへを知らず 姿なき あまたの御霊(みたま) 国護るらむ
平成8年、皇后陛下のお歌です。英霊を思い、お詠みになったのでしょう。
彼ら、日本人の犠牲があって、今日があります。
その魂を、決してないがしろにはしてはならないとの、ご決意の表れのようでもあります。
勇気をもって、大戦を学び、歴史から知恵をいただきつつ、これからを歩む逞しい日本人となりますように。願っています。
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/kou/kokugo/document/ducu3/cat4405/872.html 【松と竹とのけぢめ】より
白百合女子大学教授室城秀之
霜は,あたり一面を白一色の世界に変える。
『古今集』の歌人は,そのさまを,次のように詠んだ。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
(巻五・秋下・凡河内躬恒)
「心あて」は,「目あて」に対することばである。ふだんならば,目で見て,白菊の花がどこにあるのかをあてて折ることができる。しかし,初霜が一面におりてまっ白になった庭は,目で見ても,霜の白さと白菊の白さの区別がつかない。そのために,心であてて折る。たとえば,確か,あの木から西に何歩,さらに北に何歩行ったあたりに白菊が咲いていたはずだなどと。そうやって折るならば,折ることができる。いや,そうやって折らなければ,折ることができない。それほど,一面に初霜がおりて人をまどわせる白菊の花だと詠んだのである。
「心あて」ということばは,「あて推量」などと訳されることが多い。「あて推量」とは,辞書に,「しっかりとした根拠もなしに推量すること。あてずっぽう。」などと記されている。だが,この歌は,けっして,あてずっぽうで白菊を折るという歌ではない。白菊がどこに咲いていたかを,ふだんから心にとめておかなければ,心であてて折ることはできない。それほど,いつも,美しく咲く白菊の花に心をにかけていたという歌でもある。
それにしても,おおげさな歌だ。菊の茎は見えないのかなどと,つっこみを入れたくなる歌だが,『古今集』を読むというのは,このような歌を詠み味わうことなのである。
霜と同じように,雪も,あたり一面を白一色の世界に変える。同じ『古今集』には,雪のなかの白梅の花を詠んだ,次の歌もある。雪のほうがリアリティーが感じられるだろう。
梅の花それとも見えずひさかたの天霧る雪のなべて降れれば
(巻六・冬・詠み人知らず)
一方,このような白一色の世界のなかでもはっきりと見える色もある。松と竹,お正月に,「松竹たてて門ごとに」と歌う,あの門松の松と竹の緑である。『源氏物語』の「朝顔」の巻には,光源氏の住む二条の院に雪が降り積もったさまが,次のように描かれている。
雪のいたう降り積もりたる上に,今も散りつつ,松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮れに,人(=光源氏)の御容貌も光りまさりて見ゆ。
雪の降り積もったこの庭に,女童を下ろし,大きな雪の玉を作らせて,源氏は紫の上とともに見物した。「松と竹とのけぢめ」は,雪の積もった松と竹との様子の違いと解釈されることが多いが,雪のなかの松と竹だから,「(雪と)松と,(雪と)竹とのけぢめ」ということで,雪の白さと,松と竹との緑の違いの意味だと思う。松と竹は,常緑で,和歌に,「色変へぬ松と竹」と詠まれることもある。雪と松,雪と竹を歌った和歌も多い。
これまで,松と竹の色を緑といってきたが,現代の緑の色は,古典では,青と表現されることも多い。「青葉」「青柳」「青田」などという時の青が,ブルーではないことはわかるだろう。「青信号」などということばにも,その感覚は残っている。
「白砂青松」ということばもある。白い砂浜に松が並ぶ美しい海岸の景色をいうことばである。白と緑(青)の色のコントラストを,日本人は古来から親しんできた。『源氏物語』の「朝顔」の巻の「松と竹とのけぢめ」も,そのような色彩感覚の伝統のなかの表現のひとつとして理解すべきものだと思う。