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内外一如

2018.10.27 06:56

Facebook・百武正嗣さん投稿記事

長い長いソマテックgestalt のワークの記録と解説を書いた。油断して画面のタッチに触れたら一瞬にして消えてしまった。

立ち直るには時間がかかる。それでも気を取り直し書きます😭

上谷実礼さんが主催した先週末のケース。中年男性、元IT関連、カウンセラー。

対人恐怖とまではいかないが、人が怖いと言う。

そこで身体感覚に意識を向けるように提案した。胸の辺りで怖さを感じている。両手で胸をさすりながら、少し震えがあるということに気づいた。

そこで、その震えを十分に経験するようにしてもらった。ゲシュタルトでは、「〜経験する」ことを大事にしている。日常の生活の中では不快な感覚やネガテブな体験はなるべく早く忘れるようにしてしまう。

そうする代わりに、セッションでは、十分に経験する、ことを勧めるのである。日常で脇に押しやられたその感覚や感情、それらに伴う記憶や身体の筋肉の動き、緊張は「未完了なまま」に存在し続けているからだ。

しばらくすると彼の肩、指先も微細な震えが見て取れるようになってきた。

ソマテックにこだわるのはここからである。身体が震えると怖いと思ってしまうが、実は本当に怖いのは自分の身体に何が起きて来ているのかが分からない状態が怖いことが多いのである。

ファシリテーターは、その震えを体験するように後押して「怖いところにいていて下さい」と勧める。その感覚を十分に感じてもらいながら、「その感覚と共にいると何か風景や人の顔が浮かびますか?」と問いかけてみた。彼は間をおいて、高校の時からです、と応えた。

クラスで二人の友達と話していた時に、も一人のクラスメイトが会話に入って来た。私はその瞬間に会話から離れて下を向いたのです。その時から人が怖くなったようです、と言った。

通常のカウンセリングなら、このときの人間関係に焦点を当てるだろう。

しかしソマテックの場合は、その瞬間にこそ、身体に何か起きたのか、身体に自分が何をしたのか、を見ていく。

ファシリテーターとして、彼が友人との会話から離れた時に顔を下に向けたことに違和感を感じたので、そのままの姿勢ているようにしてもらった。すると彼は息苦しと述べたのである。

怖いという言葉から、息苦しい、という感覚にシフトしたとも言える。

さて人が怖いと、息苦しい、が結びつく体験や感覚、フィーリングはどんなことなのだろうかと思いながら、そのままの身体感覚についていく。

彼の中である出来事が浮かび上がって来たようである。幼い時に溺れたことがあるのです。兄とプールに行った時に、自分は浅いプールの側で遊んでいたが、気がつくと兄がいない。きっと深い方にいるのだろうと思い、そちらの側に寄って行った。

すると突然深いプールの方に足をとられたのか、スッと身体が沈んでしまった。気がつくと周りに大人たちがいた。息を吹替してもらったのだと思う。

その時の光景で覚えているのは、沈みながらも、青い空が奇麗だ、という記憶だ。上の方て青い空が丸く見えていた。その青い空が丸く見えて、スッと沈んでいく時に、青い丸い空がスッと小さくなって行ったのを覚えています、と言った。

家族や自分の中では笑い話になった出来事です。本人は苦しい体験としての記憶はなく、むしろ助かったので、深い意味を見い出して家族と話合うことはしていない。

ファシリテーターの私は、この瞬間の、奇麗な青い空が丸く見えて、スッと小さくなったという表現に興味を抱いた。

最初に彼が人が怖いと言うテーマであることを考えると、奇麗な丸い空が小さく萎んでいく瞬間の体験こそが核心だと思ったのだ。それはパールズが指摘したように、目の機能を使わなくなると、対人恐怖、人が怖いと感じてしまうと指摘したことを知っていれば、溺れて沈んで行く時に、本人には怖い、息苦しい、という自覚的な記憶がないとしても、その瞬間に身体は、死の恐怖を体験していたことになるからだ。

目の瞳孔が閉じていくことは、身体は死を経験している、とおもえたのだ。

私の脳裏に蘇って来た事は、彼が最初に私の前に座った時の目の緊張感であった。視線が一点を見詰めているようでもあり、何かに出会して凍結しているようにも感じられたのだ。

クライアントが私にコンタクトした瞬間に何かを感じ取ったのだが、その意味することは分からなかった。しかし、今、私はこの幼い時に溺れてスッと青い空が丸く萎んでいく行く光景を、彼は今も見続けていたのだ、と確信したのだ。

いや、高校生の友人と他愛ない会話をもう一人のクラスメイトが参加して来るまでは、と表現しても良い。

そのクラスメイトを彼は避けるために、会話を外しただけでなく、顔を下に向けたことによって、喉元が詰まり、息苦しさを覚えた。この息苦しさは、幼い時に溺れた瞬間の、呼吸が詰まる体験を意識レベルに引き上げた、というのは私の憶測である。

このことを確かめる為に、もう一度、意図的にプールで沈んでいく場面を再現してもらった。同時に青い空が丸く小さくなるときの感覚にも注意をはらうようにうながした。

ーここまでー


http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue/2005/06/post_9ee0.html 【内外一如の話】より

前日、関東地方は平年より2日遅く「梅雨入りしたとみられる」と気象庁が発表した。が、今日は青空がひろがる好天気、かと思うと小雨もパラつくなど不安定で、不思議な一日だった。帰宅のため事務所を出ると、何か冷たいものがポツリと落ちた。しかし、空を見上げると雲はまばらだ。「でも梅雨なのだから……」と次のポツリを待つ。が、なかなか落ちて来ない。空を見上げたまま歩を進めていくと、東郷神社の鳥居の脇に立つ大きな楠の葉の間から、「顔」の形をした雲がこちらを見ていた。「ふーーん、面白い顔だなぁ……」と眺めながら歩き続けると、空がゆっくり動いて、枝葉に隠れていた雲の「腕」と「胴体」も姿を現した。足は片足だけで、先の方が消えかかっている。「なるほど」と私は納得した。

何を納得したかというと、人間の脳内には“顔細胞”があるという話にだ。外界にある「顔」の形のものに敏感に反応する脳の一部分(大脳の側頭連合野の一部)をそう呼ぶらしい。進化生物学によると、こういう「顔」に特化した脳細胞が発達した理由は、人間社会の中で顔のもつ役割が大きいからだ。つまり、より速く、より正確に相手の「表情を読む」ことが生存に有利だったからだ。人間同士のあいだでは言語が重要なコミュニケーション手段であることは言うまでもないが、言語は異民族間では通じないこともあり、また人間は必ずしも言葉通りのことを感じ、考えているわけではない。そういう場合には、顔をよく見て「表情を読む」ことに長けている人の方が生存に有利となり、そういう人の遺伝子が現代人に引き継がれているというわけだ。

しかし、こうして人間の脳が「顔」や「表情」に敏感になったおかげで副産物も生じた。それは、人間の視覚が「顔」でないものも顔として見る傾向をもつようになったことだ。私が雲の形を「顔」として捉えたのが、そのいい例だ。また、病気でベッドで寝ているときなど、天井板の木目や、壁のヒビやシミが人の顔に見えたりする経験をした人は多いのではないか。さらに自動車好きの人は、ひいきの車種について「顔がいい」などと言ったりする。自動車のフロント回りが「顔」に見えるからだ。傑作は、かつてアメリカで話題になった火星上の“人面岩”騒ぎで、火星の表面の写真の中に「人の顔をした大きな岩」が発見されたことで、すわこれはスフィンクスの火星版だと言わんばかりの議論がメディアなどで起こったそうだ。結局、この岩は撮影時の光線の加減で人の顔のように見えたにすぎず、後年、もっと精密な写真が撮れるようになった時、“人面岩”は少しも人の顔に似ていないことが判明したそうだ。

で、私は思うのだが、人間は自分の心(脳)にあるものを外に見るのである。だから、外界は内界の反映である--しかし、この世界はその言葉ほどには単純でないかもしれない。実は、人間の脳には「神」や「仏」などの宗教的な対象のことを想起すると反応する部分もあるらしい。では、神仏は人間の脳の反映なのか?

こう考えたらどうだろう--人間の脳に“顔細胞”が発達したのは、「表情を読む」という行為を人類が何十万年、何百万年も繰り返してきたからであって、その逆(顔細胞が先にあったから外界に顔が見える)のではない。大体「顔」なるものは類人猿にも、イヌにもネコにもある。昆虫や魚類にも「顔」と呼んでいいものがあるだろう。それと同様に、人間の脳の一部に神仏に反応する細胞があったとしても、それは神仏が人間の脳の創作物であることを意味しない。そうではなく、その細胞の存在は、人類が何十万年、何百万年もの長期にわたり、「神」や「仏」などの宗教的対象と関係をもち続けてきたという事実を示すにすぎない。

しかし、こうして人間の脳が「神」や「仏」に敏感になったおかげで、“顔細胞”のときと同じような副産物が生じた可能性がある。それは、本当の「神」や「仏」でないものも、すぐに「神」や「仏」だと考えてしまう傾向のことだ。その場合は、(“人面岩”が地球上の人類の“顔細胞”の反映であるように)神仏は人間の脳の反映だと言うことができるだろう。


http://integralsomatics.jp/iweb1/somatikku_xin_li_xue.html 【ソマティック心理学とは?】より

ソマティック・サイコロジーとは? (概説・仮)  久保 隆司

“ソマティック・サイコロジー”(ソマティック心理学)を日本語に訳すと心身心理学もしくは身体心理学となるのでしょうか。心身関係を重視する心理学の一分野です。通常のサイコセラピスト(心理カウンセラー)に要求される言語による方法だけでなく、非言語的な手法も統合的に使われます。

心―感情―体(Body, Mind, Spirit、もしくは心身一如)の観点から、臨床的なアプローチをする新しいホリスティックな心理分野で、東洋的な見方とも非常に親和性があると言えます。語源的にはギリシャ語で、人間を構成する2元素の一つが「SOMA(身体)」で、もう一つが「PSYCHE(魂)」なので、まさしく西洋版「心身一如」を研究する学問と言えます。特に欧州ではボディ・サイコセラピー(http://www.eabp.org/ )と呼ばれることが多いようです。 以下、少し駆け足ですが一通りこの分野を見て行きたいと思います。

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ソマティック心理学、または身体心理学/心理療法は、いまだ日本では本格的には紹介されていない心理学のカテゴリー概念です。 

とは言え、まるっきり日本の人たちに知られていないわけではありません。部分的には日本にすでに入っているもの、または昔から日本にあるものも少なくないのですが、全体的な視野を持って導入されていないため“大きな枠組み”に気付かれていないと言った方が正しいでしょう。

例えば伊東博氏の「ニューカウンセリング」は、エサレンなどでの体験を通して、S.セルバーのセンサリー・アウェアネスやO.イチャーゾのアリカ・システムに影響を受けた日本での先駆的なソマティック心理学の紹介例とも言えます。国際ボディ・サイコセラピー会議等に日本から参加している臨床動作法などもソマティック療法の一つとも考えられます。また近年日本では、竹内敏晴氏、斎藤孝氏、高岡英夫氏、リバイバルの野口晴哉氏など、様々な身体を主題にした思想、書籍なども以前にも増して注目されていると聞いています。

これらの動きの全てが直接「心理学・心理療法」と繋がるものではありませんし、諸説の全てが「正しい」といったわけでも無いでしょうが、日本人のソマティック(身体的)な意識の復権の現れを示していると言えます。また深いレベルで心と繋がっているという感覚は、歴史的、文化的には欧米人より、日本人の方が強く持っているような気もします。ただ現在アメリカで最新の脳科学との急速な融合化を進めている部分のソマティック心理療法は、残念ながら日本ではほとんど紹介されておらず、大きな問題というか、損失だと思います。

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代表的なソマティック心理療法としては、例えばハコミ・メソッド、バイオエナジェティックス、バイオシンセシス、プロセスワーク、ソマティック・エクスペリエンシング(SE)、センサリーモーターセラピー(SP)などがあります。基本的にはライヒアン(A.ローエン、D.ボアデラなど)、ユンギアン(M.ウッドマン、A.ミンデルなど)、人間性心理学(含む70年代のエサレンを中心とするヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメント)などが複雑に絡み合いながら発展してきたホリスティックな心理学・療法といえます。

補足すると、ライヒアン(ライヒの流れ)は心的な抑圧・緊張が、身体症状の形を取って現れる(たとえば、胃の痛みや肩こりなど)ので、身体的な緊張を呼吸や肉体に物理的(および言語的も含む)に働きかけることで、開放するという基本スタンスです。

一方、ユンギアン(ユングの流れ)は、一般的には「夢」を無意識の表れとして分析の中心としますが、肉体、身体症状も、もうひとつの無意識が現れるチャネルと考えます。ミンデルなどは、無意識の現れを統合的に「ドリーム=ボディ」という表現で示したりもします。この方向性では、日本ではミンデルが有名(?)ですが、ミンデルよりも、(日本で無名な?)ウッドマンの方が, フェミニズムとも強く結びついて、正統的(?)な心理療法の世界ではよく知られています。

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ソマティック心理学に関連する心理分野としては、例えば、ゲシュタルト・セラピーは、F.パールズがライヒにセラピーを受けていたことや、ビッグ・サーのエサレン研究所でロルフィングに親しんだことなどからも、ソマティック(身体性)との密接な関係があることがわかります。

米国クリーヴランド・ゲシュタルト研究所のJ.ケプナーのようにはっきりとGestalt Body Process Psychotherapyと謳っている人もいます。 拡大的にはゲシュタルトもソマティック心理学の一つともいえなくはないですが、ただ、アメリカでの学問的な分類ではゲシュタルトはソマティック心理学とは一応別扱いです。

また、M.H.エリクソンに代表されるヒプノセラピー(催眠療法)なども言うまでも無く身体感覚の誘導などがメインとなっていますが、ソマティック心理療法とは呼びません。

E.ジェンドリンのフォーカシングも、フェルト・センスという身体感覚的なものに注目するソマティックなアプローチです。フォーカシング自体は心理療法ではなく、汎用性のある自己探求のために抽出されたシンプルな手法ですが、その基本的な手法は、ゲシュタルト療法同様、ハコミなど多くの次世代の心理療法に影響を与えています。

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スタンフォード大学にいたF.シャピロ女史のEMDR(eye movement desensitization and reprocessing)は、文字通り「眼球の動き」を利用した手法で、アメリカではトラウマ療法として非常に評価の高いソマティックなアプローチです。最近、日本でも多少は知られてきましたが、セッションでの言語介入の基本なども他のソマティック・アプローチとも共通部分が多いように感じました。

また、発達心理学的には特にアタッチメント・セオリー(イギリスのボウルヴィーに始まる)がソマティック(身体)心理学の学術的基礎の一つを担っており、ライヒに遡る性格(構造)分析と共に大切な一分野を形成しています。

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身体(ソマティック)心理学がトランスパーナル心理学とも深く重なり合っている部分もあります。例えば、S.グロフのBPM仮説は、赤ん坊が出産の過程によって生じる最初のトラウマ生成の説明として興味惹かれるものです(より絞れば周産期心理学)。

A.ミンデルのプロセスワークやR.クルツのハコミなど第四世代のソマティック心理療法では、一般的な意味での心理療法の枠組みに留まらず(もちろん留まりたい方はそこで留まればよいのですが)、スピリチュアル性の発達という、より高次、または包括的、統合的な目標に進んでいきます。

インテグラル理論家のケン・ウィルバーは、トランスパーソナル(超個の)領域に至るための必要不可欠な入り口として、いわゆるケンタウロス(人馬一体、心身の統合)段階領域に注目しています。

私見ではその心身一如の領域までを担えるのがソマティック心理学と考えているので、現在、肉体(グロス・ボディ)と(一般的に言って)最も強く結びついている私たち人間の成長にとっては、最も身近に必要とされている統合的な心理学・心理療法であるといってもおかしくないと思っています。

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近年、ソマティック心理療法と最新の脳科学、神経生理学との対話が劇的に密接化してきています。特に身体症状を伴うことが多いトラウマ、PTSDなどに対しては効果的と考えられます。実際、90年代の「脳の10年」を経へて、飛躍的に革新的な進歩を遂げたアメリカの脳・神経生理学から得られる知見と、ソマティック心理療法との間に、親和性が非常に高いことが明らかとなっており、非常に有効な心理療法として、アメリカではサイコセラピスト(心理カウンセラー)のみならず、多くの脳神経学者、精神科医などの間でも注目されおり、臨床心理学の分野において、フロイト以来の革命的な転換が現在進行形していると多くの最先端の心理、精神、脳、意識関係の学者が考えているようです。

たとえば、PTSD/トラウマ研究の第一人者であるボストン大学医学校精神科のバンダーコーク教授もEMDRやSE, SPなどのソマティック・アプローチが非常に有効であることを実証しています。アタッチメント理論との絡みでは、UCLA医学校のA.ショア教授や、D.シーゲル準教授の貢献は今後も大きいでしょう。またカリフォルニア大学サンフランシスコ校精神科のT.ルイス準教授なども、「精神(心理)療法とは、実のところ生理学であることが明らかになった」と宣言しています(個人的には言い過ぎかと思いますが、傾聴に値します)。 メリーランド大学のS.ポルジェス教授のポリヴェイガル説なども広く認知されてきています。

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心理学以外の身体心理学(SOMATIC PSYCHOLOGY)の関連分野について少し触れますと、哲学分野では、E.フッサール(特に後期の発生現象学)やメルロ=ポンティの現象学・身体論などの視点が不可欠です。現象学という名前さえしらない心理の専門家もいるかもしれませんが、意識とは何かを根本から知る、探求するためには、(心理カウンセラー業を狭く捉えられている方には面倒と感じられるかもしれませんが)このような哲学的な基盤を理解する必要性がどうしても出てきてしまうのです。特に受動的綜合(統合)、能動的綜合などについてのある程度の理解は、すべての心理学, 心理療法の研究と実践において必須でしょう。

同時に、セラピーのセッションは当然ながら二者以上の間主観的行為である以上、現象学の間主観性の部分の理解を深める努力の一方、宗教哲学の20世紀の古典的名著「我と汝」のブーバー哲学の”二者関係“の本質的理解も欠かせません。「二人称のものの見方(2nd-person perspective)」は(現代の)心理療法の共通した基盤であり、上記に代表される間主観的哲学は大いに役立つのです。

(蛇足)もちろん、哲学とは本を読んで思考的に研究するだけでなく、直観を大切にしながら、日々の実生活を実践していくことが大切です。「生きていること」=「哲学すること」とも言えるでしょう。今、この日本語の文章を読んでいらっしゃる方は生きている方だと思うので、皆がすでに哲学者なのです。問題はこのことを自覚しているか、自覚していないかです。そう考えると、哲学は身体(肉体)を持っているときでないとできないことのようです。

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宗教分野では、心身の関連性の問題を詳しく扱っているチベット仏教(中でも、ニンマ派は身体体験的であるとも聞きますし、私もバークレーのニンマ研究所に数年通ったりしましたが、他の宗派を知らないのでわかりません。)などの密教、そして日本が誇る禅(無料や格安の参禅会もあるので言ったことの無い方は一度体験されたらよいと思います。たとえば、神奈川の鶴見にある、福井の永平寺と並ぶ、曹洞宗の総本山・総持寺の日曜参禅会には200円で参加できます。法話つきでお徳です。)からも多くの示唆が得られるものと思います。

第二次大戦後、カリフォルニアを中心に禅ブーム(日本の鈴木俊隆老師他、ベトナムのティック・ナット・ハンなど)が起こり、また中国のチベット侵攻後、多くのチベット僧が、中国の迫害を逃れて主に欧米先進国に亡命したことなどがあり(またダライ・ラマはそのお人柄もあって、絶大的に歓迎されています)、これらチベット仏教と禅は西洋社会でも特によく知られており、欧米の心理学、心理療法にも多大な影響を与えています。

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宗教以外のスピリチュアルと身体の関係性では、東洋のヨガ、気功、合気道などはもちろん心身統合の代表的なものです。カリフォルニア等を中心として西欧社会にも浸透しています(たとえば、私が住んでいた人口10万人程度のバークレーでは、300以上のヨガクラスがあると数年前に友人のヨガ教師から聞いたことがあります)。

また、バーバラ.A.ブレナンによるエネルギー・ヒーリング・ワークは、直接的に心理療法からスピリチュアルな方向に発展したものです。ライヒ系のコア・エナジェティックス(ピエラコス)を元にスピリチュアル・ワークを開発してます。よってソマティック心理学とは深い関連性がありますが、スピリチュアルな部分(チャクラ・エネルギー等)が強調されているので、もはや心理学と見なせません。

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心理学と称する以上は、ある程度の学問としての枠組みがあり、(パラダイムは常にシフトしていくことには謙虚でなければなりませんが)それを無批判に飛び越えることはできません。それをしてしまうと「オカルト」になってしまいます。私はオカルトを全面否定するものではなく、その中にも宝石の原石がいくつかあると想像しますが、玉石混交を種分けするには大変な労力と幸運が必要です(多くの場合、結局、主観的・独我論的なものとなってしまい、検証は不可能です)。

少しでも現実的な手法として、「学問」の領域からのアプローチが、不純物を混ぜないためには有効と考えています。この「学問」とは狭い意味の「科学」に基づく偏見的な見方(たとえば、物質的還元主義)ではありません。「科学」は物の見方のひとつにしか過ぎません(もちろん、非常に重要な一つの見方です)ので、より複眼的な、統合的な視点から物事(現象)を見ていく必要があるでしょう。「学問」自体を変容し、領域を広げながら。

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さて、身体性は、スピリチュアリティ、スピリチュアルな学び(修行)にとって非常に大切なことは、前に触れた禅や密教などの宗教の場合と同様です。

例えば、20世紀の最大の神秘家とも呼ばれるG.I.グルジェフのワークは、イスラム神秘主義のスフィー(ダンス)の影響も受けており、非常に身体性が高いものです。

もう一人の20世紀を代表する神秘思想家であるR.シュタイナーの人智学では、エーテル体、アストラル体という多重体(bodies) の身体概念が元になっていますし、実際、手作業のアートや劇、オイリュトミーのムーヴメントやバイオダイナミック農法など肉体を通しての学習は、シュタイナー教育では非常に重要な位置を占めています。 

尚、ボディワーク、またはソマティックス(身体学)に関してはまた別の機会に触れたいと思います。

ダンス/ムーヴメントのアプローチもソマティック療法に分類されますが、ダンス療法、表現芸術療法の方々から見ると、多少異議はあるかもしれません。1940年代にワシントンD.C.の精神病院でのマリオン・チェイスによるグループワークが始まりとも言われていますが、様々なワークが個別に形成されてきたと考えられます。

日本ではほとんど知られていませんが、アメリカではよく知られているオーセンティック・ムーヴメントはユング派のメアリー・ホワイトハウス(J・アドラー、J・チョドロー)によって開発された老舗的なアプローチです。アクティヴ・イマジネーションの身体表現版と見なされています。ニューヨークを中心にブランシェ・エヴァンがダンス・セラピーを広める。ボニー・コーエンのBCMも東海岸を中心に知られているようです。エメリー・コンラッドのコンティヌアム、ガブリエル・ロスのファイヴ・リズムス、大御所アナ・ハープリン(および娘のダリア)のタマルパ研究所。アメリカではまだマイナーですが、もちろんビオダンサを忘れてはいけません。ビオダンサは中でも統合的、ユニークであり、それゆえ個人的にもトレーニングコースに参加しました。

忘れてはいけないのが、サイコドラマです。ヤコブ・モレノによるサイコドラマも非常にユニークで、ソシオメトリーなども興味深いものですが、一般的にはなっていません。集団、社会性の中から、個人を捉えて行く非常に優れたアプローチですが、モレノの個性、独創性が強すぎるせいかもしれません。東京でも行われていますが、細々といった感じのようです。南米など、従来、政治的言論の自由に制限があったところの方が、アメリカより盛んであるとも聞きました。またサイコドラマと関係のあるものにプレイバック・シアター(ジョナサン・フォックス)があります。

ボディワークと心理療法、そしてスピリチュアル・プラクティスはスペクトル的にとらえることができるもちろん、並列、重なっているという見方もあり、それも正しいのだが、今ここで話している見方は西洋的な意識段階からの見方である。 ボディワークだけを見ても、スペクトルになっており、純粋に肉体的、骨的、筋肉的なワークから感覚的なものに移行する。仮に、〔接骨?〕、カイロ、指圧から、ロルフィング、アレクサンダーテクニック、そしてセンサリーアウエアネス、フェルデンクライスへと。心理療法の方も、身体感覚、感情から心〔精神、マインド、大脳的〕、それらの包括的なものへのスペクトルになっている。たとえば、フォーカシング〔正確には心理療法ではないが〕、身体心理療法〔ハコミ、プロセスワークなど〕、そして認知行動療法的なもの、精神力動学的療法、包括的なものとしての身体心理療法〔ハコミ、プロセスワークなど〕。

マッサージとボディワークの違い:重なる部分は多い。大雑把な雰囲気を言うと、前者はリラクゼーションに力点を置いているが、後者は、何らかの成長が動機や目的である。

ボディワークとソマティックスの違い:ソマティックスの方が、意識的な気づきに注目している感じで、学究的な感じ。たとえば、フェルデンクライス(ATM)とかセンサリー・アウエアネスなどは、ソマティックスという表現の方がぴったりと来る。ボディワークはマッサージ的なマッサージテーブルの上でやるイメージが強いので。

ソマティックス〔身体学〕とソマティック・サイコロジー(身体心理学)の違い:前者は基本的に体へのワークが目的で、直接的に心理的なものにワークしない〔副次的にはすることがあるが〕。後者は基本的に心理療法。体や感情は心へのアクセスの主要な手段と見なす。よって、言葉による介入が中心。身体接触は、必要な時だけに限られるし、まったく無い場合も多い。ボディ・サイコセラピーは欧州で、ソマティック心理学は米国でよく使われるが、基本的に同じ。

マッサージ・セラピストとボディワーカーの名称は一般的にはほとんど同様に使われているようである。ただマッサージが性的なマッサージと誤解される場合もあるため、ボディーワーク、ボディワーカーという言葉を好む人も多い。

ソマティック・サイコセラピストは、基本的にサイコセラピスト(心理カウンセラー)なので、カウンセリング心理学または臨床心理学の学位〔修士、博士〕を持っていることが多い。

心理療法とボディワーク:米国では通常、サイコセラピスト(心理カウンセラー)はあらゆるクライアントとのタッチ(身体接触)を禁じ手、タブー的なものとして捉えられています。州によっては法的に禁止していますし、カリフォルニア州の場合も、法律によっては禁止こそされていませんが、臨床的には転移・逆転移関係を複雑にしないためにも、また法的には裁判で訴えられる危険性を避ける意味でも、李下に冠を正さずで好ましくないとされ、多くの普通のサイコセラピストは、タッチの教育はまったく受けてもいないので、クライアントに怖くて触れません〔握手ぐらいはするでしょうが〕。

一方、タッチをしないボディワーカー、マッサージセラピストは考えられません。オキシマロン(矛盾)です。

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歴史的に見ると、心理療法とボディワークの二つが明確に分かれているのは、西欧のキリスト教やデカルトの流れをくむ心身二元論に基づいているといえます。心と体とは別のもので、心が体をコントロールするというのがその基本コンセプトです。

非常に大雑把に言うと、西洋文化のメインストリームでは、心、精神、魂は神に属するものであり、死後、天国に到ることができます。一方、体は本能的、動物的であり不浄なもの、下等なものであり、精神の下僕とされてきました。これがある意味、ボディワークやマッサージが、ともすれば心理側からは劣ったものと見る風潮の所以でしょう。

第二次戦後、禅、気功、チベット仏教やヨガ、合気道やカンフーなどマーシャルアーツなどの身体的な実践の流行から、カリフォルニアなどを中心としてボディワーク的なものも注目されてきました。そしてヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントの一環として、人間性心理学、ゲシュタルト療法などがエサレン研究所などでボディワークと出会ったことなどで、心理学との関係性も生まれてきました(私の知るところでは、近代史的にはドイツのワイマール時代に心理と身体を統合するアプローチが最初に生まれました)。それらは、ソマティックス(身体学)と呼ばれ、身体指向の心理療法はソマティック・サイコロジー(身体心理学)と呼ばれました。

そして第三次ブームとして(大雑把な私の認識では)、1999年代以降、特に2000年以降、脳科学、神経生理学などの飛躍的発展とも連携を取りながら、心と体の統合的な見方が発展してきています。そのもっとも顕著な研究分野のひとつはトラウマ療法の分野です。

*より詳しくは、久保隆司著『ソマティック心理学』(春秋社、2011)

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