五大
https://www.mishimaga.com/books/yomukouwa/002913.html 【密教の五つの智慧とあやまるということ】より
「そういうこと」に関わりを持とうとする
前回の四無量心の調子はいかがでしょうか? 「なかなか難しかった」という方も多いのではないでしょうか。僕もそのひとりです。でも思うのですが、あまり開き直ってもいけないけれど、「そういうこと」をチャレンジしたり、目標を立てたりする事自体にも、わりと大切な意味がある、と僕は感じたりしています。
今、コロナウイルスの蔓延の中で、同じ僧侶である妻から、「今、病気平癒とか疫病のための祈祷が効かなかったら、お坊さんの存在意義ってなんなんやろうか?」とポツリとつぶやくように尋ねられたことがありました。
「僕は思うのだけど、そういうのって効いた、効かなかったということも大事だろうけれど、"言いに行くところがある"というのも大事なのかな。"お願いする場所がある"というか・・・。例えば誰かが亡くなった、不治の病を告げられた。そういうことは、あまり"言いに行くところ"がないよね。でも"なにとぞ安らかに""どうか治してあげてください"とお願いする場所や人があること自体が大切なんじゃないかな」
そんな話をしたことをふと思い出しました。つまり「そういうこと」と関わりを持とうとする事自体に意味がある。病気平癒と四無量心は、内容は違うけれど、そういった意味では、僕の中では、重なりあう部分があることです。
密教の智慧はトータルの総合力
僕が密教を学んでいた高野山大学のゼミの恩師が、卒業後に教えてくださったことですが、海外の学術調査でムスタンを訪れた時、ある現地の高僧から、
「あなたに仏教の真理を教えあげよう」
と語りかけられ、話の続きを聞いてみると、驚くほど基礎的な仏教の智慧を、とても短く話されたことがあったという話を印象的に憶えています。
仏教には、複雑な哲学体系も、誰も知らないような専門用語も、様々な瞑想法も存在しますが、まずは基本的な思想や行動規範を、「本当に人生の中で生活の中で」活かそうとすることは、とても大事なことだと僕は思っています。
そのような中で、僕の修行している密教は「シングルイシュー(問題点や論点がひとつであること)の真理」を追い求めるというよりは、全体性、統合性を大事しながら、「トータルの総合力」を大事にする傾向があります。ですので今回は、僕も著作で繰り返し書いてきたことではありますが、密教の「五智(ごち)」というに5つの智慧についてあらためて紹介しようと思います。
五智を生活の中に置いてみよう
密教の五智とは、①大円鏡智(だいえんきょうち)②平等性智(びょうどうしょうち)③妙観察智(みょうかんざっち) ④成所作智(じょうしょさち) ⑤法界体性智(ほうかいたいしょうち)の5つの智慧です。
ひとつ、ひとつの意味は、様々な説明がされるところではありますが、僕なりに意味合いをお話しすると、大円鏡智は、「鏡のように一切を分け隔てなく見る智慧」です。この連載では、こういった仏教用語を<現代の生活の中で活かす>ことはできないか。ということが大きなテーマになっていますので、少しかみ砕いて、「生活の中での大円鏡智」を我流になることを恐れず、説明してみると「できる限り先入観なしに"そのまま"人や物事をみる」という風にも言えそうです。
僕達は、あらゆる対象や存在をみる時、「あの人は、ああいう人だ」とか「こういった評価を受けているものだ」と前情報をかなり用意した状態で、接します。むしろ出会う前から結論が出ているような事も少なくありません。しかしそれだけでは、逃してしまうものが多いのではないでしょうか。
もちろんいくら「そのまま観よう。先入観なしにみよう」と思っても、自然と自動的に先入観は加味されます。しかし、できる限り対象や世界を「素」で受けとろうとする。そういった「問題意識」や「努力」も生活の中での大円鏡智だと僕は思います。
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続いて平等性智です。平等性智は、「あらゆる対象に対して共通性、均質性、を見出す」智慧であると言われます。これはそのままでもいけそうですが、あえてもう少し生活に近づけて話してみると、「出会う人や物事に対して"同じところ""似ているところ"を見つける」などと言うことができそうです。
妙観察智は、「すべてに対して<違い>を見つける。異質的な面、区別の面」です。平等性智と対照的な智慧というわけです。これにはシンプルに、「すべてに対して"違うところ"を見つける」という視座をあたえることができます。ちなみにこの平等性智と妙観察智はあらゆる密教や仏教の智慧の中で、僕がもっとも現実的に用いてきた智慧だと思います。つまり「同じところをみつけ、違いをみつける」という動きです。
成所作智は、「実際の活動のもとになる智慧。五感の感覚的な意識が転じて得る智慧」とされます。つまりこれは、「実際の行動、活動とする智慧。"やってみる"ということ」という風に現代の中で言えると思います。
最後の法界体性智は少し宗教的になりますが、「大日如来の絶対的な智慧。統合する智慧」という意味です。真言密教において多くの場合はど真ん中に据えられる<大日如来>そのものの絶対的な智慧です。その根底には、すべてのものが元々分かれているものではなくて、統合されているという生命観がありますので、僕はそれを「全体を結びつける智慧。元々、結びついていることを知る智慧」として提案したいと思います。
つまり①そのまま見る。②共通点を探す。③違うところを見つける。④行動する。⑤全体を結びつける。という智慧です。
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法界体性智というエンジン
ここに登場してくる「統合」とか「結びつき」ということがイメージしにくいことがあります。そこで、英語で「一体化」をあらわすintegrateの語源から少し感じてみようと思います。integrateの語源はラテン語のintegroで、その意味は、「すべてを含んだ状態にすること」です。
この「すべてを含んだ状態にする」という表現は、密教やこの法界体性智、五智を感じるうえで、すごくヒントになる思いました。密教の統合性や法界体性智が根本に抱えたエンジンを言葉で説明しようとするならば、このintegro ーーすべてを含んだ状態にするーーという感覚がとても近いように思います。密教の修行自体も、私達が私に留まらず自然環境や"他者"を「全て含んだ状態にする」と表現すると、しっくりきます。
この五智に限定して考えても、5つの智慧がひとつ、ひとつが独立してあるわけではなく、1、2、3、4を全て含んだ状態にしなければならないし、そうするためのエンジンがまさに「法界体性智」であると僕は捉えています。
0123-3.jpg この「密教の5つの智慧」には、意外と現実的なヒントが生活の中あると僕は思っています。今自分が取り組んでいることや、人生全体をこの「五智」という地図で、見つめてみてください。
五大という世界の原理
続いて、こちらも密教の代表的な言葉のひとつである。「五大」についても見ていきましょう。五輪塔という5つの形の石が縦に重なったお墓をみたことがありますか? あれが表しているのも五大です。五大は宇宙や世界の「要素」として説明されることがありますが、そうではなくて、もともと完璧な統合性を持っている世界の「あらわれ方」「原理」だと伝えられました。
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五大は「地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)」です。こちらも「ち・すい・か・ふう・くう」と語呂が良いですね。これの意味あいをお話しします。
地は、「大地があらゆるものを載せているような堅固で安定している」ことで、水は「すべてを清浄にして、育てる」という性質があり、火に「焼き尽くす激しさと温かさ」、風は「一切を吹き飛ばす活動的なエネルギー」、空が「時間、空間を超えた無限の広がり。包容力」という構成になっています。
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密教の宇宙観や世界観がよくあらわれていますし、あらためてみてみると、五智との関連も想起されました。まず揺るぎない地面を用意し、その場所を清潔にし生命が育つ環境を整える。そして命が抱えた火のような激しさと温かさ。言葉だけに留まらない活動する力。そしてそれを統合する不思議な広がり。
ここにもやはり五智であげた「すべてを含んだ状態にする」integroの力学がゆたかに転がっています。この五大も、生活の色々な場面で実際的に用いることができると思います。「ガタガタいっても、汚いな、ここ!」だとか「激しさはあったけど、ここには風が吹いてなかったね」。そんな言葉も聞こえてきそうです。
また「目標」というよりも、そういった「五大」の完全な統合性を本来、私を含めたあらゆる存在、世界が「すでに持っている」と認識することもさらに大切なことでしょう。
この思想に関連して空海の言葉を見てみましょう。
「諸々の顕教の中には、四大等を以て非情とす。
密教には、則ち是を説いて如来の三昧耶身とす」
(弘法大師・空海『即身成仏義』)
(現代表現・仏教一般では、地・水・火・風の四大等を いのちのないものと考えている。それに対して密教では、これらすべてを如来の象徴物であるいのちのある三昧耶身と見なす)
という言葉です。現代表現にあるように4大とは先ほどの、五大から空を抜いた地水火風です。それらを密教以外の仏教では、「命のないもの」として捉えるけれど、密教では、それさえも「命」として捉えるという空海の宣言にも、密教の生命観がよくあらわれています。先ほどみた地や水という原理も「命」です。密教や空海にとって命は、僕たちが普通に感じるよりも、ずっと範疇の広い感覚だったのです。
仏教の日本受用における「懺悔(さんげ)」
今回は、密教の中心的な思想、用語をみていきました。あまり盛りだくさんになりすぎてもいけませんが、最後に「懺悔」の話をしようと思います。
懺悔とは「罪を告白し、許しを請う」ことです。今では一般に<ざんげ>と読みますが、仏教ではほとんどの場合、今でも「さんげ」と読みます。この「あやまること」「ごめんなさい」ということも、僕は生活の中にある智慧だと思っています。こちらもまた僕にとっても難しさがあることですが。
その前に、少し歴史的な話をすると、この「懺悔」的なマインドが日本における「仏教の本格的な受用」に大きな意味合いを持った、という考えを表明している学者の方おられ、僕自身も「それもありそうだなー」と感じました。僕なりに少しその概略を説明してみます。
奈良時代〜平安時代にかけて、元々あったけれど、ますます顕著になってきたのが「貧富の差」でした。そのような中で私財や土地を極めて多く持つ人たちが現れます。このあたりの時代背景はリアルに現代にも通じますね。そういった人たちの間で、強まってきたのが、「罪の意識」や「恐れ」でした。つまり弱き者から、摂取しているという自覚から「たたり」のようなものを恐れる感情が、かなり大きかったと思われます。
仏教では、欲望による罪の意識を洗いざらい認め、それを許される。という構造を強く持っていたため、元々の日本人の古来信仰、神道の原型のような存在に加えて、仏教を取り入れる神仏習合が強まっていった、という歴史認識です。日本人の古来信仰にも、懺悔の精神はあったと思いますが、人間は強い恐れを持つと、より強い「懺悔」を求めます。そこでより台頭するのが、仏教の中でも強い呪術性をもった「密教」であったというのも、日本の仏教の歴史の面白いとこですね。
ここまでシンプルな言葉通りの綺麗な流れではないと思うのですが、日本人の仏教受用に「懺悔」が、ひと役かったことは、ひとつの要素として、あるのだと思いますし、興味深いところです。
謝罪という救い
この「懺悔」という「悪いことしたと意識してあやまる」。つまり自分の中にある加害者性を意識して許しを請う、ということは、仏教が内包している大きなテーマであると思います。
例え相手に直接伝えることが、もうできなくても、そっと手を合わせて(合わせなくても)、聖なる存在に向かい「ごめんなさい」という気持ちを持つことそれ自体が、僕達にとってある種の「救い」なのではないででしょうか。
もちろん事情が許せば、相手の前に立って、お互いに「罪を認め、あやまること」にとも深い意味があるでしょう。
ここでは、お寺にお参りする時に、お経を唱える前にお唱えすることの多い「懺悔文」を挙げておきます。
「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう)
皆由無始貧瞋癡(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」
(現代語訳)
「わたしは昔より様々な悪い行いをしてきました。
皆すべて遠い昔より、今に至るまで、貪り・怒り・迷いによってのことです。
身と口と心とに生じてしまう
悪い行いを、すべて私は、今ここですべて懺悔します」
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今日、お話しした五智、五大、そして懺悔。皆さんなりの方法で、生活の中で活かしてほしいと思います。
僕も、今まで以上に自らの役割や自分自身の生き方に、この感覚を活かすためにも、これらの言葉が書かれたポストカードを日々眺め、お堂でお唱えし、「五智」「五大」「懺悔」の日記をつけていこうと思います。