過去に生きる人たち - 上海メモラビリア
私たちはいつから、過去を過去として見るようになるのだろう。
あるいは、いつから現在は過去になるのだろう。
あるいは、いつから私たちは過去を忘れ始めるのだろう。
過去を忘れまいとする人は、過去にとらわれているのかもしれない。過去を忘れようとする人もまた、過去にとらわれているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが暗鬱な全体主義社会を描いた『1984』はディストピア小説として秀逸な作品だが、これは過去を私たちはどのように捉えるかという哲学的な問題提起をしている作品でもある。「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者は過去を支配する」とオーウェルは言う。そしてシルクハットを最後に被った姉の葬式や上流階級の若者に突き飛ばされたことのような些末な出来事しか覚えておらず、点と点をつないで過去の社会を思い出すことのできない老人を愚かな市民として描く。
私たちは過去を所有している気になっているかもしれないが、誰かが現在を支配すれば、私たちが持っていた過去は誰かのものになってしまうかもしれない。
私は尋ねてみた。
「もし年金だけで生活なさっていたら、ここでコーヒーを飲んだり、外貨兌換券で食事したりはできないはずです。かつては恵まれていた皆さんが、いまはご子息の送金に頼っていることをどう思われますか」
・・・老紳士は私を見て言った。「われわれがどう思えばいいと?」
・・・そして、次のように答えた。
「これが運命だよ。そうとしか言いようがない。でなきゃどうだと言うんだね。三階建ての大邸宅に暮らしていた頃、個人所有は認められないから引き渡すように国に言われ、われわれは従った。いまになって家を買えと言われても、無一文ではどうにもならんよ」
陳丹燕が『上海メモラビリア』で描き出すのは、「華やかだった時代の記憶のかけら」が町中に散らばる過去に包まれた街、上海で歴史に翻弄された人々、そして上海そのものの現在の姿だ。
この街では誰しもが過去に寄り添って生きているように見える。最も上海が輝いていた1930年代を再現したカフェに集まる人々、そのカフェで1930年代の新婚写真を再現して店に飾る70年代生まれの若者たち。彼らのノスタルジーを「あの時代はとうに終わった。もう二度と来ないわ」とやんわりと批判する老婦人、110年前のヨーロッパのような上海で暮らすフィンランド人、古びて、隠され、置き忘れられた西欧的な風景。小さな街に散らばる記憶のかけらは、この街を訪れる人たちを魅了する。
白系ロシア人がソ連から逃げてきた街、ユダヤ人が高級ホテルに閉じ込められて戦争が終わるのを待った街、悲惨な街の一面さえ、魅力的に見える。
しかし、その懐古趣味は正しいものではない。
そう、いまの若者はかつての上海の姿を実際に目にしたことはない。外国人が一等公民だった頃の故郷で生活したこともない。彼らにどうして昔を偲ぶことができるだろう。またいったい何を根拠に偲んでいるのか。
1984の老人と上海の若者は一見全く異なっている。しかし、過去を点でしか見れず、過去の全体を見渡せないという意味では、同じなのかもしれない。
【上海メモラビリア/陳丹燕】