イギリス紀行15
ハイドパークを歩いた。広い。しかも日本のような雑木林の公園ではない。ちゃんと区画が整備され、木の数もそれほどではない(それとも冬だからそう感じただけだろうか)。銅像を発見。バッキンガム宮殿でもそうだったけど、今回イギリスに来て改めて彫刻というものの迫力を感じた。彫刻文化というのもヨーロッパ的なものだろう。ミロのヴィーナスやミケランジェロ、ロダンまで。岩石がしっかりしてないとそもそも生まれない。日本は木の文化だから、寺とかに置いてある仁王像なども岩ではなく木が多い。大仏などにしても彫刻ではなく、銅なのである。
公園文化、というものもイギリスにはある。これはガーデニング文化ともつながっているが、別物とも考えられる。言わずと知れたヨーロッパ的な公園というのは、ちゃんとしっかり人工的に作られているものだ。自然に対して意識的であり、指示している。しっかり計画にのったったもの。一方日本の庭園は、自然に対して寛容である。人工的というよりは、まさに自然に見せる公園。これは八百万の神、自然とも一体であるというアニマリズム(原始宗教)に基づくものだろう。いやそこから派生する神道や仏教にしても、自然に対しては被支配的である。西洋文化はそれに対して神を絶対としたキリスト教、近代になっては科学による支配的な態度で栄えてきた。
城の周りにも公園があり、それはバッキンガム宮殿にしても、ハイドパーク、そのすぐ横のケンジントンパークなどについても言える。ちゃんと区画整備されている。歩いていても何丁目何番地と書いてありそうなくらい碁盤の目である。それで同様のことを日本に置き換えて思ったのは、住宅地、大きな墓地、そして京都(平安京)である。ある程度しっかりと整備されたもの、というのはそのようになるのかもしれない。日本だって、元は平安京などそのような人工的な都市だった。違う点はそこに公園があったかということだ。なぜなら京都には町中を鴨川が流れ、桂川が流れ、東山があり、奥には比叡山だってあった。わざわざ公園を作る意味(発想)がなかったのだろう。