虹の架け橋
Facebook相田 公弘さん投稿記事
相田みつをが好きだった詩です。
ウィリアム・ワーズワースの詩「虹」My Heart Leaps Up
空にかかった虹を見ると 私の心は高鳴るのだ 少年の頃もそうだった
大人となったいまもそうだ 年老いてもそうありたい でなければ死をたまえ!
少年が長じて大人となる だから私は少年の頃の 敬虔な気持を持ち続けたい
My Heart Leaps Up -William Wordsworth
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky. So was it when my life began; So is it now I am a man; So be it when I grow old, Or let me die!
The Child is father of the Man; And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.
Facebook田中 宏明さん投稿記事
「人は土から離れて 生きてはいけないのよ」皆さんもご存知の天空の城ラピュタのシータの名言です^ ^
残暑の厳しい里山の田んぼで僕とAkira酋長はひたすらに藁を結んでは田んぼに立て続けていく^ ^そんな果てしない繰り返しの作業の中でいつのまにか心が幸せに満たされていくのを感じました
そこにはなんの理由も必要なくそこにはなんの説明も必要ない^ ^
なぜなら人は土に触れているだけで幸せになれるように出来ているから^ ^
そうとしか言えない😊
あらゆる人が幸せの定義や方法論を展開しようとも実際の体感にはそして当然
自然には敵いようがない^ ^
そこに働いているのは我々の人智など到底及ばない「目には見えない」不思議な力があるから
近代社会が忘れ去った目には見えない「スピリット」という々の本質はいつも土や水や風に
そして絶えず降り注ぐ太陽の光の中に今も脈々と息づいています
人よ^ ^野に還れ😊ワハハ🌈らぶ💓
Facebook加藤隆行さん投稿記事 【受け取ってますか?】
自分にとっていらないもの、必要じゃないものをもらったり、渡されたりしたときあなたはどうしていますか?
ボクね、小学生のとき父ちゃんが長めの出張から帰ってきて、お土産にとイルカかなんかの飾り物をくれたのよね。で、まだお子ちゃまな自分は「えー、 こういうの好きじゃない」と言った。そしたら「お前には二度と なんも買ってこんわ!」と(名古屋弁で)怒鳴られた。
当時は「なんか悪いことしたな」と罪悪感を感じて終わったんだけど。そんなことは子どもらしくすっかり忘れて大人になった。
*
で、すっかり忘れてガキのまま大人になった自分。仕事でなんでか人間関係がうまくいかない。なぜか部下が言うことを聞かない なぜか他人に批判される なぜか人が離れていく
なぜか上司に愛想をつかされる そんなことが多発する。
自分は正しいことをしているのに自分はなにも間違ってないのに。そう思っていた。
でもある日、「あっ」と父ちゃんのイルカの置物を思い出した。したら自分がやらかしまくっていたことに気づく。部下がなにか提案を持ってきても「いや、それ違う」周りがなにかしてくれても「そうじゃない、こうだ」上司が意見を言ってくれても「それ現場的には無理なんですよ」こんなことばかり言っていた。
みんなが「よかれ」で言ってくれること持ってきてくれるものを自分の意に沿わないからといって全部、否定し拒否って受け取っていなかった。
そりゃあ父ちゃんみたくみんな怒るわな。あきれるわな。(名古屋弁ではないにしても)
とはいえでも、それ違うしでも、それいらないしそれ受け取ったら困っちゃうし。じゃあどうしたらいいのかと考えて考えて「まずとにかく 好意だけ受け取る」ということにした。
具体的には「ありがとうございます。 ボクのためにご意見くださり すごく嬉しいです」
みたく、「よかれ」で言ってくれたその気持ちを受け取る。内容はどうあれ。
そっから、相手がどんな気持ちや理由でそれを提案、意見してくれたのかまずは聴く。
聴いてみて、なるほどと思えば受け入れてそれから自分の意見も伝えて両者のいいところ合わせワザにしていく。最初は四苦八苦した。
すぐに「でも…」とか「だって…」とか言いたくなる。
そんなときにはお口にチャックで(古っ!)とにかく「ありがとう」言う!と徹底した。
そしたら驚くほど人間関係がよくなった。めちゃくちゃしっかり部下が動いてくれるようになった。敵だと思ってた上司が力強い味方になった。
なんだ、こういうことだったのか。そう気付いて実践できるようになったのはもう会社を辞めると決めたころだったけどね。
*
父ちゃんにはまだ当時のことを謝ることができていない。思い出すとちょっと胸がシクっとする。昔は怖かった父ちゃん。今は焼酎飲んでいつもニコニコご機嫌な好好爺になっているので
今度実家に帰ったときには「あのときはありがとね。 嬉しかったよ」と伝えようと思う。
人間関係がうまくいかなくて自分は正しいと思っている人。
それ、好意だけ受け取ってみてね。世界が変わるよ(^ω^)
https://www.yhg.co.jp/taiyo33/column/%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E6%8A%B1%E3%81%88%E3%82%8B%E5%85%AC%E5%AE%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C/ 【時代と共に変化していく、日本が抱える公害問題】より
公害とは、経済の利益を追求した結果環境を汚染し、巡り巡って人体にも多大な悪影響を及ぼす社会問題のことを指します。
日本で公害問題が指摘されるようになったのは1960~1970年代における高度経済成長期頃からだと思われがちですが、実はそれよりも前から、日本は様々な公害問題に直面してきました。
今回は、近代日本の中で発生した公害問題を年代順に辿りながら、「何故このような公害が発生してしまったのか」「これからの未来で同じことを繰り返さないために必要なのは何か」
ということについて考えていきたいと思います。
明治の公害
足尾銅山鉱毒事件(栃木・群馬)
足尾銅山鉱毒事件は、明治11年(1878年)頃に栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、記録上日本で初めてとなる公害事件です。
ちなみに、この時代にはまだ「公害」という言葉は生まれていませんでした。
銅山の開発により排出された煙や鉱毒ガスなどの有害物質が、周辺環境に多大な悪影響をもたらしたため、当時栃木の政治家であった田中正造を中心に国へ向けた抗議運動や問題提起がさかんに行われました。
この事件は「100年公害」と言われるほど根深く、2011年には当時発生した東日本大震災後に渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でもまだその影響力が問題視されています。
浅野セメント降灰事件(東京)
明治16年(1883年)頃、当時東京都深川市にあった浅野セメント会社の工場の煙突から大量のセメント粉末が飛散し、周辺住民の多くが体調を崩してしまうなどの被害が発生しました。
それにより抗議の声が相次いだ結果、明治45年(1912)年には「5年以内に工場を立ち退かせる」と企業側と周辺住民とが合意することで、一応の解決となりました。
別子銅山煙害事件(愛媛)
明治25年(1893年)、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山からの銅精錬排ガスによると思われる、大規模な水稲被害が発生しました。
この時、最も大きな被害を受けた4村(新居浜、金子、庄内、新須賀)では、農民代表が愛媛県に被害を訴え精錬所に損害賠償を要求しています。
その後は農民と精錬所の間で賠償金支払い、銅の生産量の制限を含む厳しい協定が結ばれています。
大正の公害
神通川イタイイタイ病(富山)
イタイイタイ病とは、岐阜県の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による未処理廃水により、神通川下流域の富山県で1910年代~1970年代前半にかけて発生した公害(病気)です。
廃水に含まれる化学物質のカドミウムが周辺地域で育てていた米や野菜を汚染し、それを口にしてしまった人は貧血、口の渇き、便秘などの症状に悩まされるようになり、さらには徐々に骨も脆くなり、最悪の場合は死に至ってしまうという恐ろしい病気です。
患者たちがその痛みにただ「痛い!痛い!」と泣き叫ぶことしかできなかったことから、イタイイタイ病と名付けられたと言われています。
イタイイタイ病は四大公害病の一つとなっており、この事件をきっかけに辞書に「公害」という言葉が辞書に載るようになったと言っても過言ではありません。
また、海外でも日本語の音をそのまま写した“Itai-itai disease”として多くの辞書に記載されています。
昭和の公害
水俣病(熊本・新潟)
水俣病もまた、四大公害病の一つに認定されています。
昭和31年(1956年)には熊本県の水俣湾沿岸で発生し、昭和39年(1964年)には新潟県の阿賀野川周辺で「第二水俣病」として発生しています。
当時、地域に存在していた工場から流出したメチル水銀化合物(有機水銀)が、イタイイタイ病と同様に巡り巡って人の体内に取り込まれ、多くの周辺住民が中毒系の中枢神経疾患を発症しました。
水俣病の主な症状としては手足の痺れ、体の震え、言葉がしっかり喋れなくなるなどがあり、酷い場合は激しい痛みに襲われることもあったそうです。
多くの死者を出し、また生きながらえた人にも重い後遺症を残した水俣病は今でも根深い問題を残しており、2020年現在でも水俣病被害者たちによる国に対する訴訟が行われています。
四日市ぜんそく(三重)
四日市ぜんそくとは、昭和35年(1960年)~昭和47年(1972年)頃に三重県四日市と南側に隣接する三重郡楠町(現在は四日市市と合併)の周辺で発生した集団喘息障害のことです。
当時四日市には日本初の大々的な石油コンビナートが建設され稼働していたのですが、その工場の活動の中で大量の亜硫酸ガス(硫酸ミスト)が排出されたことにより、多くの地域住民が呼吸器疾患(咽頭・喉頭の上部気道炎症、気管支炎、気管支喘息、肺気腫)の症状に悩まされるようになりました。
この四日市ぜんそくは当時政府を巻き込んだ社会問題となり、その後の日本各地における公害反対運動に大きな影響を与えたと言われています。
前述したイタイイタイ病、水俣病、第二水俣病に加え、四日市ぜんそくも四大公害病の一つに認定されています。
光化学スモッグ発生(東京)
光化学スモッグとは、工場や自動車などから排出されるガスに含まれる窒素酸化物、または炭化水素などの化学物質が、日光に含まれる紫外線を受けることで発生する有害なスモッグのことです。
特に夏場の暑く、日射しの強い日に発生しやすいと言われています。
子どもの頃の夏休み中、「光化学スモッグ注意報」を聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。
日本で初めて検知されたのは昭和45年(1970年)の夏で、当時都内の学校の運動場にいた中高生43名が目の違和感や喉の痛みなどを訴えたことでその存在が明らかになりました。
その後工場の稼働数が年々減ったことにより、2000年代に入って以降はほとんど検出されなくなりましたが、紫外線の強さなどによっては今でも発生する可能性は十分にあると言われています。
平成の公害
アスベスト被害(全国)
アスベストとは、別名「石綿(いしわた)」と呼ばれる天然鉱石のことで、非常に熱に強い性質を持っていることから、日本では長年建築材として重宝されていました。
しかし、平成17年(2005年)の6月末に、アスベストが原因で発生した中皮腫により大手機械メーカーの社員が多数死亡したことから、アスベストには有害な物質が含まれているということが判明しました。
その後、アスベストは中皮腫に限らず、肺がんや肺線維症なども引き起こすことが分かったため、現在ではアスベストを建築材として使用することは禁止されています。
福島原発事故(福島)
福島原発事故は、近年起きた公害の中では最も新しいだけでなく、現代を生きる我々にとって最も強烈な印象を残した公害問題だと言っても過言ではないでしょう。
平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災による地震及び津波の影響を受け、福島第一原発では原子炉建屋や送電設備などが大きく損壊し、大気中に大量の放射性物質を撒き散らしました。
それにより原発周辺は汚染地域と化してしまったため、地域住民たちは避難を余儀なくされました。
この事故は、国際原子力事象評価尺度(INES)において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類され、これは1986年に旧ソ連で発生したチェルノブイリ原発事故と同レベルになります。
現在、東日本大震災及び福島原発事故が発生してから10年近くの歳月が経とうとしていますが、今でも福島第一原発では使用済み核燃料の取り出し作業やタンクの解体作業などが行われています。
この未曽有の事故の収束作業には、まだまだ長い時間がかかると考えられています。
まとめ‐これからの時代、公害を発生させないためには‐
今回ご紹介してきたもの以外にも、日本では過去に多くの公害が発生し、その都度深刻な社会問題として取り上げられてきました。
これからの時代に公害を発生させないためには、各企業による努力ももちろん必要不可欠ですが、それだけではなく私たち一人一人が化学物質への知識を深め、
「自分の暮らす街ではどういった取り組みをしているんだろう?」
といったように、日ごろから関心を持つことも非常に大切です。
当社も、環境に優しい再生可能エネルギーの筆頭と言える太陽光発電システムを扱う企業の一つとして、今後の日本の環境をより良くしていくためにはどうするべきか引き続き考えていきたいと思います。
Facebook船田 元さん投稿記事
2023年11月11日 ·田中正造没後110年
日本の公害の原点とも言われる足尾鉱毒事件、その過酷な現実を世に知らしめた田中正造翁は、1913年9月に71歳で逝去した。今年で没後110年に当たる。加えてその足尾銅山が閉山してから、今年で半世紀を迎えた。正造翁は身命を賭して国や県に善処方を働きかけたばかりか、明治天皇に直訴しようとするなど、被害者救済に奔走する日々を送り、結果、官憲から睨まれる存在でもあった。
そうした中、県庁にほど近い二里山(今の県立図書館周辺)に、作新学院の前身の下野中学校の創立者船田兵吾の自宅があった。正造翁はここをしばしば訪れ、疲れを癒したという。常時尾行している警察も、ここにいれば安心だとして、監視の目を緩めていたようだ。しかしこのことが遠因となり戦前の10数年間、下野中学校は県の管理下に置かれるという、辛い歴史を経験することとなった。
先日の下野新聞一面に、都道府県が条例に基づき文化財に指定した美術工芸品1万1千件あまりのうち、31都県で151件の紛失や行方不明となり、栃木県は43件で全国最多であるとの記事が掲載された。一例として正造翁が船田兵吾らにしたためたという短歌が取り上げられた。調べたところ、現物は我が家や作新学院には渡っていなかったため、直接の管理責任は問われないが、この事態を寂しく思うが、この一件で図らずも正造翁と兵吾らの関係性が詳らかになった。
一方、田中正造を研究・検証する組織が、昨年相次いで幕を下ろした。館林市にあった「渡瀬川研究会」は50年の歴史を刻んだ。佐野市にあった「田中正造大学」は36年で幕を下ろした。いずれも資金不足やメンバーの高齢化が理由という。今後、我が国の公害の原点で活動した田中正造に関する研究や、その功績を顕彰する機会が減ってしまうのではと危惧している。かつて交流のあった下野中学校の後継である作新学院の中に、何らかの研究組織が立ち上げられないかと思案する昨今である。
Facebook兼井 浩さん投稿記事 · ■森失うのは 文明の自滅
~行動が生んだ思想 尊敬~ 音楽家 坂本龍一さん
足尾鉱毒事件被害民救済のため、生涯をささげた田中正造。政治家、社会運動家としてだけではなく、エコロジストであり人権思想の持ち主であり、非戦論者の顔も併せ持つ。正造の思想を現代にどう生かすか。正造を「尊敬する人物」に挙げ、自ら森林保全や脱原発の活動をする音楽家坂本龍一さんに聞いた。
-東京電力福島第1原発事故後、坂本さんが正造の「真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」という言葉を発信して、正造やこの言葉が脚光を浴びました。正造に興味を持ったきっかけは。
「ずいぶん前、環境問題に関心を持って本を読んだりするうちに。『真の文明は…』というあの言葉がとても強烈で。よく考えると、人類文明でそういう、環境破壊していない文明はまだない。必ず森を失って終わっている。地球大に広がった今の文明ではさらに急速です。森を失うのは文明の自滅です。正造は『これは本当の文明じゃない』と言っているわけです」
-坂本さんはどんな思いを込めてこの言葉を発したのですか。
「悲観的に言うと文明の絶滅が近づいているのだから、ぐずぐずしていられない。早くたくさんの人が目覚めて行動しないと難しい状態になる。なのに、福島のような過酷な事故を経験しても目覚めたくない人がいる。そういう危機感の象徴として正造の言葉があると思うんです」
-日々の活動ではその思いをどんな風に反映させていますか。
「個々に、というよりはもっと大きな、環境問題への危機感として。正造は具体的にどうしろと言っていない。こっちが本当の文明だと用意されているのでもない。あの言葉を思い出す度、不断に僕たちは努力しないといけないと思いますね」
「文明とか人のことはどうでもよくて自分たちさえもうければいい、世界支配したいという黒々とした、負の欲望というのは、多かれ少なかれ近代科学技術には付いて回っている。実際、科学技術が発達している国が戦争に勝つわけです。そういう人間性のところから変えなければならないということも、正造の言葉は示唆していると思うんですね」
-事故を経験し、多くの国民はそれまでの生活の在り方が果たして正しかったのか真剣に問い直しました。ただ、その思いは徐々に風化している気がします。
「僕は職業柄、全然小さくならないですね。あのとき受けたショックをそしゃくし、どう表現として出すか、ほぼ毎日考えている。ただ、そしゃくするのは難しい。真の文明を1人で考えて探しに行けば見つかるわけではないから難しい。みんなと一緒にやらなければならない」
-正造を尊敬していると聞きました。
「正造は足尾鉱毒を目の前にして、村人を助けようと一生懸命活動する中でエコロジカルな認識に到達してしまった。机上の空論で得たのではないところが偉いなあと。とことんやっていく中で、大局的に考えたから、100年後も通じる強い認識が出てきたんでしょうね」
-100年も前の言葉なのに、まだ答えが見つかりません。
「100年前と比べると何十倍も悪くなっているでしょ。ぼくとかは21世紀になるころ、これでやっと、戦争とか大量の廃棄物とか、20世紀の巨大な負の遺産を片付ける、クリーンな方向に向かうと希望を感じていたのですよ。それが21世紀の初めに『9・11』でガツーンと打ち砕かれた。10年ちょっとたって今度は自分の国で『3・11』。結構めげますよね」
-よくなるどころか悪くなりました。
「足尾鉱毒事件は近代化の必然で起こった。近代化って、利潤を求めること。富国強兵のため、軍事のためというのが錦の御旗になって、市民や自然の多少の被害は目をつぶれと。明治以前はもう少し違ったのかなという気もします」
-でも江戸時代の生活には絶対戻れません。電気を使うのはやめましょうとはいきません。
「電気を作る方法なんていくらでもある。江戸時代に戻れ、電気を使うなというのは荒唐無稽だけど、もっとクリーンでスマートな方法で作ればいいだけのこと。ちょっと関心を持てば、自分の近くに小さな発電所を作って普及させようとしている人や市民グループはあると思います」
「もう一歩ですよね。僕が住んでいるニューヨークとかは、クリーニング屋を替えるくらい簡単に、化石燃料から風力とかの総合的な自然エネルギーの発電所に契約を替えられる。そういう環境にならなければおかしい。エネルギーの民主主義っていうんだけど、やろうと思えばできるんだよね」
source:下野新聞
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■百年を経て蘇る田中正造の伝言
★真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし
True civilization is not to despoil mountains, not to ruin rivers, not to destroy villages, and not to kill people.
---Shozo Tanaka
足尾銅山の繁栄は、渡良瀬川流域を死の川とし、村の自治を破壊し、鉱毒により田畑を荒らし、人の命をも奪った。これが本当の文明であろうかと正造は問うた。私たちは同じ構図を福島で目の当たりにしたのだ。
★天の監督を仰がざれば凡人堕落-国民-監督を怠れば-治者盗を為す
政治家が、正義とか道徳があることを忘れて政治を行えば、民衆は本質を失い堕落する。そうさせないために国民は、政治家を絶えず監視しなければならない。また、その監視を怠れば政治家は国民を騙し、盗みをするというものである。
★真人無為而多事(シンジンムイニシテ シカシテ タジ)
まことの人は、さりげなく世の不正を見逃さず、さりげなくそして敢然と闘っていて、そして大変忙しい。
★何事もあきれてものふ(を)云わぬとも 云わねバならぬ今のありさま
明治政府のやっていることは呆れるばかりだが、そうしてもいられない。何か云って応えなければならない。
★デンキ開ケテ世見(セケン)暗夜となれり
社会が物質的な発展のみを追い求めていたら、人間社会は暗黒になってしまう、天然自然のエネルギーを活用し精神的な発展を先行していく文明を追及していくべきである。
★少しだも人のいのちに害ありて 少しくらいハよいというなよ
鉱毒に汚染された米や麦を知らずに食べている様を毒食(どくじき)というが、少しくらいだから食べても良いという理由にはならない。少しくらいが溜まり溜まって大きな害になる。今でいう放射能の溜まり方に似ている。
★水は自由に高きより低きに行かんのみ-水は法律理屈の下に屈服せぬ
正造の治水観。水は自然の理に則して流れる。だから高い所から低い所に流れる。たとえ国会で決めても法律理屈威信と威張っても、水の流れは法律に左右されるものではない。
source:渡良瀬通信「田中正造がキーワードになる時代」
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田中 正造(たなか しょうぞう)
天保12年11月3日(1841年12月15日 - 1913年(大正2年)9月4日)
日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。
日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。
没年月日: 1913年9月4日(71歳没)
衆議院議員選挙に当選6回。
https://kangempai.jp/essay/2019/01uda.html 【観光公害 宇多喜代子】より
秋の連休の一日、所用のために上京した。ところが新幹線から在来線に乗り替えようと東京駅コンコースに出て仰天、満員電車さながらの人の多さで、おいそれと中央線のホームに辿りつけないのだ。人と人の隙間を割るようにして一歩進めば大きなキャリーバッグに躓く始末。
自分も人出の多さの中の一人ではあるのだが、それにしてもいつもの年末、ゴールデンウイークをはるかに上回る人の多さである。
その夜、くたくたの身でテレビニュースを見るともなく見ていたら、「観光公害」という言葉が耳に入ってきた。そこに映っていたのは嵐山の渡月橋、清水の三年坂。これが昼間の東京駅同様の人の波でこれぞまさしく「公害」であると思い、それにしても「そうだ、京都 行こう」のキャンペーンで京都の名所のポスターが東京駅のあちこちに貼られていたのはついこの間のこと、あれを見たらだれだって「行こう」と思うだろうし、観光立国を目指しての施策か、中国向けには「熱烈歓迎」と呼びかけて来てもらった大事なお客さまなのだから「あなたは公害」は失敬な話ではあるのだ。
かといって、観光地のあの一極集中の混雑には解消の妙案もない。日本の国土は狭いということを再考するか。いまのところ平和でまあまあの治安のよさを誇りにしてはいるが、ふと、このままオリンピックだの万博だの、大丈夫なのかいなと思わないでもない。これら世界相手の催しに世界中から集まってきて、来たついでにあちこち観光という人たちに「あなたたち観光公害」というのもナンだしなぁと思うばかり。
思えば昭和39年の東京オリンピック、45年の大阪での日本万国博覧会の時代には日本全土が上昇気流に乗っており、それなりの開催効果があったとのこと、それにいくら混んでい ても観光地には観光地としてのゆとりがあった。
あの頃から俳句も賑やかになり、新しい俳誌がぞくぞくと創刊された。今、俳句全体の高齢化が嘆きの種になっているが、オリンピック、万博の当時はみなそこそこ若かったのだ。
さて高齢化のご同輩たち、このさき存えたとして、次の五輪、万博に向かい「観光公害」必至の人の波をかき分けて前身する力がはたしてワタシらにあるかどうか。せいぜい転倒しないように気をつけましょうを合言葉に黙って眺めているほうがよさそうでもあるのだが、この「観光公害」なる新語、いかがお思いか。